- Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
- / ISBN・EAN: 9784255006130
感想・レビュー・書評
-
第7章が痛快です。哲学書というジャンルを超えた良著だと思います。「仕事も趣味もそれなりに充実してる」という人にも、「仕事に追われる生活で、これでいいのだろうか」という人にも考え直すヒントになります。
ただ、一気に通読する用に書かれているような気がしたのでまとまった時間が取れる時に読むといいと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『しかし、ここに不可解な逆説が現れる。人類が目指してきたはずの豊かさ、それか達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説である』―『序章「好きなこと」とは何か?』
「中動態の世界」がかなり面白かったのでこちらも手に取る。暇や退屈にどんな倫理があるというのか。タイトルからいきなり頭がぐるぐると回転するのを感じる。冒頭展開する歴史観は「サピエンス全史」にも通じる世界観。便利になる筈の新しいガジェットはみるみる内に陳腐化し、新たな問題を生みだす。問題は、問題を作り出しているのがガジェットそのものではなく、それを使っているようで使われている構図。サピエンス全史は、その視点の逆転を鮮やかに描いてみせた。しかし、当然のことながら真の問題は構図にあるのではなく、その構図に甘んじている(あるいは甘んじさせている)者の内側にある。故に、倫理学、が登場するという訳だ。
『気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要があるのである」』―『第一章 暇と退屈の原理論』
誰しもがうすうす気付いていた筈に違いない。何かに忙しく熱中することができれば退屈などしない、というのは一見正しそうだが何か違和感のようなものが残る、と。その状態を「心を亡くす」と記号化した先人の知恵を思う。その上で、作者がマルクスの資本論の本質的な誤謬を暇と退屈の倫理学の視点から指摘する様は見事である。確かに、労働者の置かれた貧乏暇無しの状態を崇高と見る視点は、結局のところ資本家を益々肥えさせ、労働者の解放という革命の命題は自己矛盾をきたす。かつて学生運動とは若者のエネルギーを消費する行為である、と誰かに言われたことを思い出した。それを、ずっと「浪費」だと理解していたが、本書の指摘するボードリヤールの定義によれば、やはりそれは「(浪費とは)必要を超えて物を受け取る」行為ではなく「ものに付与された観念や意味を吸収する(=「消費」)行為、であるとの説明の方が腑に落ちる。あれはまさしく「消費」であった為、活動の最中であっても実は退屈していたのだ。
『とてもすばらしかった。今晩の招待において退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。帰宅すると、夕方中断しておいた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる――するとそのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と』―『第五章 暇と退屈の哲学』
ハイデガーの退屈論を巡る話の展開はとても示唆的。もちろんハイデガーの退屈の定義も卓見ではあるが、そこに無意識の内に偉大な哲学者が埋め込んだ人間に対する優越的立場をえぐり出し、環世界、という概念から新しい展開を導き出す議論の進め方に嵌まる。それは是非著者の言葉で辿ってもらいたい。第一形式、第二形式、そして理解し難い第三形式。それを著者は、結論ありきの循環論法であると解きほぐして見せてくれる。
もちろん本書を読み終えたからと言って自身の中にくすぶるもやもやとした小さな衝動(退屈の反動)が収まる訳ではないけれど、何かが少しだけ落ち着いたような気分になる。 -
退屈の第二形態とは、気晴らしと退屈が混ざり合っている状態。これこそ、人間生活の大部分の活動とも言える。
じぶんがたまに陥る虚無感、退屈感とは、これのことだと思う。何か気晴らしになることを探している。でも、それも100%やりたいことなのか分からない。ふと、自分はこんな時間の使い方でいいのかと感じる。何か熱中できること、時間を忘れて没頭できる何かがあればいいのにと感じる。そんな時、何か目標設定をして、何かを頑張らないとという強迫観念に襲われる。 -
Rの先輩が読んでたので。
んー、あまり面白くなかった。
豊かになるほど、むしろ暇を持て余して活力がなくなるってのはあるけども、まあそうだよねーって程度。
起源を紐解くときに歴史ではなく人類学の視点で考えてたのは面白かったかな。 -
「退屈こそは人間の可能性の現れである」
こんな人がいるとしよう。「GW何もやることがなくて暇だ、そうだ資格の勉強でもしよう!」これはまさに最近の自分にありがちな思考であった。
そんな人は多かれ少なかれ奴隷になってしまっている。この場合は資格の奴隷だ。奴隷になることで人は日々訪れる「なんとなく退屈だ」という不安に苛まれなくて済む。しかし、強制的にやらされている仕事であろうが、自分で決断した物事であろうが奴隷なってしまうと新しい物事を受け入れにくくなってしまう。自分を見つめる時間が減り、やがて自分で決断したはずなのに退屈になるという負のループに陥ってしまう。
暇であることは何も悪いことではなく、自由であるがゆえに新しい刺激(この本では不法侵入と述べている)を受け取ることができ、新しい考え方(この本では環世界)を形成することができる。暇であること、そして人間であることを楽しもうと思える1冊。 -
単純に読み終わったあと、読んで良かったと思えた作品。
ただ単に、暇と退屈について語ってるのではなく、過去の哲学者を引き出し文献について語る。
動物との本能のお話や暇が誕生した経緯、退屈と暇の関係性とありすぎてパンクするほど。
僕の中では、退屈=不幸せであり、何かに奴隷となってる状況が幸せと結論にいたった。
そこには決断が関わっており、決断することによって世界が移動できる。
半年後にもう一度読むとどういう風に感じるんだろう。。 -
こういう内容を読んでいると、福岡伸一の本に書いてあったこととかをちょっと思い出す。「すべての原子は(ためている風をよそおっていても)生命体の中を流れて通り抜けている」みたいなのとか。
人間もずっと動き続けるようになってるだけなんじゃないかなとか。
定住革命っていよいよ人間がガン化したということで、手塚治虫の火の鳥の未来編みたいに核と電子頭脳でドカーンとなるまでが人間のターンなんじゃないかなとか。 -
ジュンク堂で見て
-
哲学
-
とかく難解になりがちな哲学の話を出来るだけ読者に分かってもらおうという著者の真摯な態度が出ている一冊。
<blockquote>「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ」</blockquote>
かつて人類が定住を始めたとき、それまでフル活用していた能力が行き場をなくし、暇が生じた。
暇が出来た時、人は興奮を覚えない。
退屈とは興奮していない状態である。
そして退屈に抗うため仕事、学業、工業や政治経済や宗教、芸能・・・といった「気晴らし」を行う。
この件はスチャダラパーの名曲「ヒマの過ごし方」を想起した。