中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

著者 :
  • 医学書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260031578

感想・レビュー・書評

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  • 受動態、能動態のほかにある中動態の世界を哲学的、文化的、歴史的視点から描く

  • 2020/12/01 購入
    2020/12/28 読了

  • 中動態って何なのか思い出せない。
    メモを見ても思い出せない。メモを読むのは中動態?文字が書いてあるのが見えるのが中動態か。
    「意味がわからない」というのは中動態っぽい。だとしたら、というその先のことが、書かれていたように思う。

  • 自分の忍耐力、胆力不足で理解が今ひとつだったので自責の意味で星3つ。能動と受動という二択から自由になり、どちらにも属さない中動態という概念をぼんやりとだが認識することで世界が広がったのは確か。余裕がある時期にじっくり読み直したい。

  • なかなか骨太。
    今の状態で向き合うことが出来なかった。

    再度チャレンジしたい。

  • 今は使われなくなったけど、「能動態」と「受動態」の「間」に「中動態」というのがある。その幻の「中動態」を見出す考古学、みたいな本。

    なんだけど、この「幻の態」を求めてという神秘化が、ものごとをわかりにくくすると著者はいう。

    でも、今ではわからなくなっている文法を探っていくという探求の旅は、サスペンスみたいなワクワク感があって、面白い。

    その探求のプロセスは、「読んでの楽しみ」にとっておくが、まずは失われた言葉や文法を探すということがどんなに難しいことか、そして、言葉を自然に話している文法が本になってなければ、それは失われていくということ。

    そういうプロセスを経ながら、見出された「中動態」は、実は哲学がこれまで問題にしていたことと密接に繋がっているということ。哲学者もなんか表現したいのだけど、うまい言葉がなくて、説明が難しくて、難解な文章になってしまうのだが、それは「中動態」があれば、もっとシンプルに伝えられたのかもしれないみたいな話。

    言葉や文法が私たちの思考を制約しているわけだが、といっても完全に制約することはできない。言葉ではうまく説明できないんだけど、なんかこういう感じがあるんだよね〜と考えて、それをなんとか表現しようとすることが人間にはできるんだね〜。

    私にとっても、人間の主体とか、自由とかはもっとも大切な問いだと思っていて、決定論的な考えはいやなんだけど、なんでも自己決定できるというも変で、その関係で悩んできた。

    セラピーとかの文脈でも、ここのところはとても大事なところ。

    ちなみに、アーレントの議論が重要なところででてきて、アーレント好きのわたしとしては、うれしかったな。

    アーレントの立てる問いは実に自分にとって重要なことが多くて、その問いへの接近の方法も難解ながら共感するところが多い。なので、答えもきっといいんだろうと思いつつも、なんか変な感じも残ることが多い。その辺の違和感みたいなのを丁寧に整理してくれるところもあって、なるほどの理解が進んだ。

    こうしてこの本を読み終わってみれば、とっても当たり前のことが書いてあるという気になってくる。哲学というより、日常生活でそんな感じでやっているよね。なにかこれまで難しく考えていたんだろう?という気になった。

    と思わせてくれるところが、著者の技なのかな?

  • 言語学的要素強め。

  • 何度か読み返さないと、消化できないや。

  • 「自己の本性の必然性に基づいて行動する者は自由である」

     ほとんどの人が仕事をしてるけれど、自分の意思で入社したんだから仕事は「能動的に」している。しかし、仕事を「受動的に」やらされることもある。
     こんな風に、”する”とも”される”とも言えない中動的なことはあふれてるのに、中動態は言語からは失われている。

     英語とかでは能動態と受動態しかないけど、実は遥か昔には中動態というのがあって、その時には能動態と中動態が対立していたのであって、受動態は能動態の派生だった。さらに言うと、能動態だって中動態から生まれたかもしれない。
     そんな感じで哲学や言語の中から中動態を探す、紀元前まで遡る壮大な探索の本。ギリシャ時代には意志という概念がなかったというのは驚いた。

     出来事が私有化する、または行為を行為者の意志に帰属させる変化が言語の中に生まれたのは、きっと自然と自分の境界がなかった時代から、自然から自分が分離され始めるようになった時なんだと思う。そして、その変化が起きた時代は神がつくられるよりも前だったはず。人間は、まず自我を作ってその次に神を作った。

     自我の後に神がくるということは、神の在り方は、実は自我によって変化する相対的なものとも言えるわけで、アーレントの考え方にそうと、神は善ではなく徳であるということになる。

     スピノザの考え方にそって、中動態的であることは善であると言っても、徳がそれを罰することがある。徳とは時代の共通認識であり相対的なものだから、100%本人の責任としづらいような能動態的な中毒患者でも罰せられるのは、法律が徳として機能しているからである。
     つまりは、そうせざるをえない原因があって行われた行為であっても、その行為が違法なのであれば徳の役割により罰せられることがあるということ。その線引きは時代が定めるものだから、これはなかなか興味深い。

  • ・能動態と受動態という対立が生まれたのは「意志」が生まれたから。

    ・能動と受動の差は、スピノザによると「自分の本質が原因となる部分」の質の差である。

    ・意志は、過去を切断すること。忘却すること。
    本来なら意志は選択に責任を「事後的に」与えるもの。

    ・スピノザによると、「自己の本性の必然性に基づいて行動するものは自由である」。
    つまり、自分はどのような状態でどのように変容するのかを知ることが自由につながる。

    そのとき、意志は自由を阻害する。
    ∵意志は、過去を切断しようとするあまり、ものごとをありのままにみようすとすることを妨げるから。
    中動態は自由を志向する。

    ・相手に自分を見るとき、人は妬む。(スピノザ)

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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