中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

著者 :
  • 医学書院
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感想 : 134
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260031578

感想・レビュー・書評

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  • 大半が言語学の発展史に割かれていた印象。終盤にあるの物語の章が秀逸。ABDで読んだのは正解だった。個人的に再読することは少なそう。

  • 「私」(一人称)が、「あなた」(二人称)へと向かい、さらにそこから、不在の者(三人称)へと広がっていくというイメージはこの名称がもたらした誤解である。

  • 哲学の本でこれほど読みやすい本はないだろうと思った。ある一文を読む→何か認知する、という読み手の認知をトレースしてくれるような書き方がその要因だろう。そして中動態が主体や責任、意志と関わるというところ、言語とは何か、といったところは面白かった。なぜ人は意志という概念を持ち出して能動態と受動態だけの世界にしてしまったのだろう。この間、新聞に出てた、テクノロジーと民主主義は人を分断するということと関係がありそうだ。いずれにしても時間を置いてもう一度読みたい本。

  • 僕たちは知らぬ間に、中学で学んだ「受動か能動か」という二分法に、思考を蝕まれていた?
    歴史ミステリーを紐解くような快感と、「確かにそういうことって普段の生活でありふれてるよね」という実感が押し寄せる珠玉の哲学の旅。

  • 2017/05/26 初観測

  • 哲学

  • 最後の「ビリーたちの物語」の章、けっこう感動した

  • 中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

  •  著者は高崎経済大学准教授。専門は哲学.

     本書は哲学を扱ってはいる.が,著者(國分さんです)のたぐいまれなる文章力によって,著者の言わんとするところがスルスルと頭に入ってきて,「私は何と頭が良いのだろう」と錯覚しそうになるほどである.特に各章の冒頭に置かれた前の章のまとめが秀逸で「うん.確かにここまででこのことは読んだ」と気持ちがよくなり「さて,次はどうなるのか」とまるで,ミステリを読んでいるように,読み進んだ.伏線に解答が試みられたりとか,前の登場人物が再度登場して別の方面から光が当てられたりとか…….以下は自分のための備忘録である.

     現代の文法の教科書では,動詞の活用態として「能動態:私が私の意志で何かを行う」と「受動態:私は,他者の意志によって,何かをされている」という二つがあり,この二つだけであると説明される.だがしかし,そのどちらにも分類できないような行為があるのではないか.意志が自分にあるか,他者にあるか,という基準で行為を区分するのには無理があるのではないか.

     アリストテレスが活躍した古代ギリシア世界には意志という概念はなかった.また,動詞の態は,エネルゲイア(遂行する)とパトス(経験する)およびメソテース(例外)に分けられていた.後代に,エネルゲイアを能動態,パトスを受動態,メソテースを中動態と翻訳されたことが原因で,能動態/受動態の対立がメインとされ中動態は忘れ去られた.しかし,これは誤訳で,エネルゲイア態/パトス態の対立がメインで,受動態はパトス態の一部に過ぎないと考えることでわかってくることが多いのではないか.(エネルゲイア態/パトス態という区分はレビューの著者(私です)が便宜的に使用しているだけで,この本の著者(国分さんです)はエネルゲイア態/パトス態という言葉は使っておられません.この本の著者(国分さんです)は従来から使用されている中動態という言葉を使っておられますので,以後,中動態という言葉を使います.)

     ハンナ・アレントによるアリストテレス読解を手掛かりにして意志について検討していくと以下のようになる.行為の原因としては,理性と欲望,を考えることができる.理性又は欲望から直接に行為が成立するのでなく,理性と欲望の相互作用の中で「選択」が成立し,行為が遂行される.選択は過去からの帰結としてあり,この過程に意志は存在しない.意志が問題となって登場してくるのは,行為の責任が誰にあるのかが問題になってからである.ここからアレントは,純粋で絶対的な始まりとしての意志を擁護していく立場をとる.例えば,カツアゲされた場合,「状況はどうあれ,ポケットから金を出して相手に差し出したわけだから,おまえの意志である」と結論される.

     しかし,カツアゲは,権力を背景とした「非自発的同意」の強制であり,これを意志とみることは,能動態/受動態の対立にとらわれすぎた結果である.非自発的選択とは,強制はないが自発的でもなく.自発的ではないが同意している,という事態であり日常はこのような事態にあふれている.自発性と同意を分けて考え,自発的ではないが同意している,という場合が中動態によって記述される事態である.

     言語の歴史からの補強.「悔いが私に生じる」→「私は悔いる」.名詞→非人称的表現→中動態→自動詞/他動詞→能動態/受動態,と変化してきたのではないか.

     哲学からの補強.能動と受動に支配された言語への違和感を表明した哲学者たち.ハイデッガー/ドゥルーズ.そしてスピノザ.スピノザによれば,「自らを貫く必然的な法則に基づいて,その本質を十分に表現しつつ行為するとき,われわれは自由であるのだ」.

     文学作品による補強.ハーマン・メルヴィル『ビリー・バッド』

     中動態という言葉を,考え方を復活させることによって,大きな可能性が広がる.この本の版元が医学書院であり,シリーズ ケアをひらく におさめられていることが,その可能性を示唆している.

     最後にこの本からの引用の引用
    「人間は自分自身の歴史をつくる.だが,思うままにではない.自分で選んだ環境のもとではなくて,すぐ目の前にある,与えられた,持ち越されてきた環境のもとでつくるのである.」(本文中でのこの引用にも仕掛けがあって,まず「もじったもの」が紹介され,第9章で,本物の種明かしがされています.)


    2018.10

  • 大作で骨があるが、テーマは大変興味深い。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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