なめらかな社会とその敵: PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論

著者 :
  • 勁草書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326602476

感想・レビュー・書評

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  • ソーシャルネットワークが持つ情報から、計算機を通して立ち上がってくるある種の知性を、社会システムに活かす。膜に区切られた個体ではなく、網・生態系のしくみに変える。

    「レイヤー化する世界」は歴史から辿りましたが、それを計算式を使って証明しているような感じでした。

  • 『一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを、民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。(中略)自らの一貫性にさえ執着しなければ、自分の思い通りにならない集団的意思決定が行われたときの姿勢が変化することだろう。体裁を整えるために反対し続ける必要はなくなる。どれも正解かも知れないと考えてみる』-『第7章 伝播委任投票システム』

    啓蒙の書として「なめらかな社会とその敵」というユニークな本を読む。人間の行動を一つメタな視点から眺めてその矛盾した行動の根源を探る試み、と読む。その矛盾と思われていたものが、一つ下のレベルでの生物学的な集合体の行動や一つ上の組織的集団での行動と比較されていくにつれ、人間の行動の本質は分子レベルの揺らぎのようなものかも知れないという直観的な発想に近づいて行くようにも見える。そこまで人の意識が矮小化されてしまうものなのか、という不快感に似た感情を宥めながら著者の目指していることを知ろうと読む。

    ネットによる点と点の繋がりを基本として、硬直的な社会をより滑らかに個人の自由度が許容される世界へ展開する話かとの勝手な思い込みが、甚だしい誤解であることが解り、人間の根源的な行動パターンを一つメタなレベルからフレキシブルに対応する制度の提案であることが解る。その導入の流れは自分にとっても違和感がなく、まさに滑らかに著者の論点へ導かれる。しかし徐々に、これは形を変えた全体主義に他ならないのではないか、という疑義が徐々に頭をもたげ始める。

    表れる数式はいずれも行列式の形を取り、求められる解はグローバルミニマムであるという。数式を吟味する能力は自分にはないが、この行列式の形は最適化手法に類するものと見え、それは取りも直さず「クラウド」として雑然と広がる多様性の中から固有値のようなものを導き出そうとする試みであるように思える。その線形変換の過程で個々のデータ群の広がりは一つの方向性へ集約され、正規の角度から眺めない時に投影される分散は本質的な分散とはみなされない。そこに全体主義的な萌芽を見る。もちろんそれは勝手な邪推であると言われるかも知れないが、統計的な情報の処理は、すべからく十把一絡げ的な側面がある。それは突き詰めるところ「集約すべきところへ個々点は集約されるべき」といういことを前提としている。つまり統計から本質を見出そうとしても、往々にして分析者の心の中にある結論へデータが誘導されてしまうことを意味する。それは解析手法というよりもデータの取り方によって決まってしまう性質なのだ、と自分は思う。行列は「マトリックス」であり、その暗喩的な意味も深読みしてしまいそうになる。

    そしてもう一つ。本書で述べられている人間の行動はどこかヴァーチャルなのである。もちろん、手や足が脳という細胞群から伸びたシナプスで制御されるように、その結束がコンピュータを介して世界中に網的に広がり繋がるという展開は、ただ単なるメタファー以上の意味を持つことは十分に理解できる。しかしそこに真に身体を動かしてなされる仕事がどのように組み込まれているのかと考えると少々疑問が残る。映画「マトリックス」で展開されたような世界を想定している訳ではないだろうが、そこには炎天下で鍬を振るうような人間の姿が見えてこない。折しもアフリカの濃い赤土の大地を掘り返す人を目の当たりにした直後であったこともあり、本書の言葉が途中から色褪せたような気分になってしまう。

    個人の中の一貫性を強迫観念と捉え、より柔軟な行動を許す制度を著者は提案する。それは一見誠に結構なことのように響くのだが、一貫性という幻想を追い求めるが故に、人は人足り得ているのではないか、との思いも一方ではある。身体が訴えることと脳が捉えることの差をどのように制御するか、それこそが人類が営々と築き上げてきた文化、英知ではないのか。もちろん、そこには多くの矛盾もあり、まるで砂で築いた楼閣のように、少しずつさらさらと崩れ去って行く運命にあるものを必死で取り繕うという行為が求められはする。しかしそのわずかな瞬間に集約されたエントロピーの減少こそ、何か人を引き付ける根源ではないだろうかと思わずにはいられない。

    そこを幻想と否定し、右脳と左脳の矛盾、細胞レベルのランダムさを基本と据えてしまうことは、人間を生化学的物質に貶めることには繋がらないだろうか、との危惧もある。またネットがそれを間接的に制御する世界は一見恣意的な要素を取り払った中立の制度であるかのように聞こえるが、だれもそこに積極的な関与を許さなくする制度でもあるように思える。それは裏返しの全体主義ではないのか。

    刺激的な書物ではあるのだが、自分の脳と身体はどこかでそれを拒絶している。宮崎駿の「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの 可愛そうなロボットを操っても、土から離れ ては生きられないのよ」という言葉は、ただ単に世界中の人々が強く互いに影響し合わなかった時代への郷愁に過ぎないのだろうか。自分の身体は、そうではない、と言っているような気がしてならない。

  • 理想的な社会、なめらかな社会をITを使って構築する具体的手法が書かれているのだと思うけど、数式部分をみると"ガリレオみたいだ"と思ってしまうレベルの読解力なので本当のところはよくわかりませんw

  • 本書はコンピュータ技術を使用して理想社会を構築するための具体的な実装が数理的な手続きで記述されている。

    本書にはどのように理想社会を構築するかという技術論的な側面と、理想社会とは何かという思想的な側面がある。

    この理想社会では、主体としての人間が溶解し、団子状にくっつき、その中をコンピュータネットワークを通じて価値情報が流通する。社会全体をサイボーグ化し、全生命の生態系を構築する。

    SFのような話だが、現代はそのような社会の実装を構想できるようになった時代なのである。数式がわからない読者は数式部分を飛ばして読めばよい。

    SFが隆盛を極めた1970年代から40年経った今、SF作家達が夢想した世界を現実化する準備が整いつつある。SF作家達の未来に向けた想像力が豊かな実を結ぶ時代が訪れるのかもしれない。その時代まで生きていられたら良いのになあと思う。

    この理想社会においては、社会の枠組みを作るのはコンピュータ・ネットワークである。人間やその他の生命体は、そのフレームワークの中で動作するサブシステムになる。

    コンピュータ・システムの行き着く先がフレームワークとその枠組内で動作するサブシステムという構造になるのは、必然の流れなのだと思う。

    この構造はコンピュータ・システムの規模が大きくなっても変わらない。

    だから今のコンピュータ・ネットワークがグローバルにも、マクロにも、ミクロにも社会生活の中に浸透していく結果、人間社会がコンピュータ・ネットワークに飲み込まれ、私たちの生活がフレームワーク・システムのサブシステムになってしまうのは、必然の流れではある。

    近代国家というものがそもそも地方公共団体や個人をサブシステム化するフレームワークである。現代は近代国家が崩壊していく過程の中にあるわけだが、それの代替物としてコンピュータ・システムが登場してくるのも、一つの流れだと思う。

    でも注意したいのは、それは単に国家という枠組みの代替物としてコンピュータ・システムが歴史の舞台に躍り出てきたということしか意味しないということだ。

    それが人類にとって良いことなのか悪いことなのか、現時点では誰にも予見できない。

    この様な社会は、ある種異様な様相を帯びる。あらゆる生命体が、巨大なコンピュータ網の中で生かされる存在になる。そのような社会では、そのコンピュータ網を統制する権力を持った者は、全能の神のような存在になるであろう。

    この本に描かれている思想は極めて宗教的である。宗教は願望的な理念を構築し、現実世界にその理念が合わない部分は、現実世界を超えた、超世界を創りだすことによって、理念の整合性を救い出そうとする。その超世界は、天国、地獄、浄土、前世、来世など、様々な言葉で呼ばれる。

    本書は、超世界を創りだすのではなく、現実世界に仮想的な下駄を履かせて、理念に合う世界を創りだそうとする。理念が現実世界の写像なのではなく、世界が理念の写像になる。

    ウィトゲンシュタインは、思考は事実の論理的写像であり、その写像が事実と一致した状態が真であると言った(『論理哲学論考』)。本書が目指すのはその逆である。本書では思考の写像として現実世界を構築しようとする。これはマルクス主義と似ている。マルクス主義が革命を使用したように、本書はコンピュータを使用しようとしている。

    マルクス主義と本書が違う部分は、マルクス主義はヘーゲル哲学の鏡像的写像だったが、本書は生物学や情報科学の拡大的写像である点だ。前者は観念を写しとって拡大適用しただけだが、後者は事実を写像した理論を拡張して再投影している。後者はオブジェクト指向における継承を忠実にやっているものである。

    世界を創造する理念が記述された本書は現代の聖書であり、ここに書かれているのは神の言葉である。しかしこの言葉を書いたのは神ではなく人間だ。

    未来において人間は生態系を創造する神になることを目指すのかも知れない。しかし全能ではない人間が神になれるのだろうか?やはり人類はいつか破滅するのではないだろうか?

    人間の未来から眼が離せない。

  • 現代社会の資本主義や民主主義のシステムに対して、ネットワークを用いて、より自由度の高いシステムを構築しようという提言がされた著作。
    人間は人間である前に生物であるがゆえに巨大な人工物である社会システムも生物的原理から逃れられないとでも言わんばかりに、生物的な例から始まり、社会的思想を導き出していく。しかし、実際にはまだ詰めが甘い部分が多く、これがそのまま適用できるようなレベルではないだろう。
    それでも、閉塞感のある今の社会に対して具体的な方法とある意味では革新的な思想を提示するということにこの本の価値があるだろう。

  • 人の力量を評価するとか、社内での評価とか、何か腑に落ちないものを最近ずっと感じていた所にこの本に出会った。この新しい指標というか、評価価値は、私が求めていたもの!これを導入すればきっと細やかに人を評価できるし、社員のモチベーションも断然上がる!とワクワクした。だか、しかし、ふと落ち着いて考えるとやっぱりこれを旧体質の大企業に入れ込むことはまだまだ無理な話。非常に興奮できる知識や情報なのに、実践に組み込めないという歯痒さ。どうやったら変革をもたらすことができるのか…。

  • 久々にワクワクする本に出会えた。非常に難解だけれどとても刺激を受けた。より良い未来を目指して人間は社会を進化させて行く事ができると思わせてくれた。

  • あらゆるものから見放され棄てられるかもしれないと思い悩んでいた時期があった。今でもその思いはフラッシュバックのようによみがえることがある。

    その頃は「なぜ、意識などというものがあるのか!」と「意識」の存在を憎み恨んだことがある。
    それから数年が過ぎた。いろいろな方々に助けられ自分なりにも努力はしてみて、今はなんとか…その「意識」について「それはどういうものなのだろうか…」と少し冷静に観てみようという気持ちになれている。

    あわせて、おのれの経済的な脆弱さに嫌気が差して自分の不甲斐なさが頂点に達するたびに家族や身近な人に八つ当たりをしていた私は資本主義経済を呪い、それに替わり得る内田樹さんの唱えられていた「贈与経済」というものに興味を持ち、去年の前半はその関係の本を読んでいた。栗本慎一郎さん、ドゥールズ+ガタリから、後半はどんどん哲学的になりニーチェ、バタイユ、クロソウスキーに村上春樹…池田清彦さんに丸山圭三郎さんついには吉本隆明さんまで。齢五十となり、やっと少しは世の中の仕組みがわかりかけてきたかもしれない…いやまぁそんなことはないか…

    そしてつい最近、養老さんの「これまで科学の対象だった物質とエネルギーに情報を加えるべきだ。」という言葉が頭の何処かに引っかかっていて、ふと「情報」とはなんだろう…と考えていた矢先に、水野先生から西垣通さんによる基礎情報学の入門書を与えてもらった。そこには「なめらかな社会とその敵」を読み解くためのキーワードである「オートポイエーシス」という概念が説明されていた。それは生命を説明するための理論なのだけれども本書では、この理論から膜と核、それらの基体となる網というキーワードが導き出されている。

    おそらく、このような流れがなければ、長い苦しい時間が経過しなければ、そういう意味で、今でなければ本書を読んでもまったくのチンプンカンプンだったであろう。(本書の数式はもちろん今でもさっぱりわからない。それは数学記号の意味もその考え方もまるで想像できないから当たり前である。)このように書くとまるでわかっているようだが実際は何もわかっているわけではない…単にわかったような気になっているだけである。

    1963年生まれの私は実際には近代を生きてはいないのだが、貨幣や国家や政治システムによって近代の残した認知構造の限界にがんじがらめに縛り付けられている。そのために私は様々な生きづらさを体験し、悲惨な状況を生み出している。自ら傷つきそれにも増して身近な人を傷つけてきた。その結果自らの「意識」を呪うことにもなったのだろう。

    「私って何者なんだろう?」とか「社会ってなんなのだろう?」というような哲学的な問いは、どうしても考えてしまう人間にとって時に非常に有益なものでもあるが、やり方を間違えればというか大抵は私のように間違うのだけれども…一度ハマると男だったら毎日酒のんで暴言を吐いて泣きながら眠るということになりやすい。下手をすると私のように体を壊して生死をさまようということにもなる。そこで死んじまえばそれはそれで一巻の終わりということなのだが、死は実はその人ひとりだけの死でもない。

    役所を辞めたのが1995年。真綿にくるまれたように居心地はいいが…しかし、確実に身体を蝕まれると自分勝手に決めつけて組織から飛び出し、私は個となった。それから20年。その後…社会を、己を呪いながら生き続けていたわけだが、そんな私がときおり「世の中まんざら捨てたもんじゃないな…」とつぶやく時があった。それはきっと本書にいう網としてのネットワークの存在を身体で感じ取った時だったのだと思う。

    「あの人は何を考えているのか?」
    「あの人は私のことをどう思っているのか?」
    「自分は必要とされているのだろうか?」

    人の心はわからない。社会がわからない。それをわからないままにするのが不安で不安で…
    それを解明するために、私はいままで多大な計算コストを投入してきた。だいたいそういう時には私の頭がパンクしそうになる。何日も眠れない夜を過ごし、そして、結局わからないまま暴走し…大概は痛い目にあってきた。そんな目に遭いながら得た世界認識のすべてがこの本の中には簡明に記述されている。だから、ある意味これは私にとってご褒美である。
    「いままでよく頑張りましたね。それって、こういうことですよね?」
    この本を読んでこのような感覚を味わえたことは、わたしにとって深い許しとなった。

    もちろん、本書の中に私の「わかる」を超えた記述は山ほどあるし、わかったと思える記述でも本当にわかっているのかどうかはまったくもって怪しい。なんといっても300年のスパンを持った著作である。デカルトさんの『方法序説』くらいの破壊力があるのではなかろうか?つまりかなり危険な書でもある。私が血迷っても誰に責められるわけもない。そういう安心感がある。

    さて、自分がわかったと思うことを他の人とも共有したい。身近に思う人に対してほどそう願う。しかしこれが困難極まりないことも経験上嫌という程身にしみている。話せばわかるどころか話せば必ず不仲になる。これまでの社会システムが人間個体の認知構造に深く影響を与えているからだ。おそらく鈴木健さんも同じ思いを抱いたはずである。こんなとんでもないことを考えようとしているのだから。しかし、私と違って鈴木さんはタフである。しかもその困難に立ち向かう能力があるのである。

    だから、彼はコンピューターテクノロジーを利用して人間の認知システムを大幅に増強することを構想する。例えば、PICSYと名付けられた伝播投資貨幣は、内田さんの「贈与経済」を普通の人でも実行できるようにするために、被贈与者のリストを財の取引から自動生成するためのコンピューターテクノロジーの利用なのだと思われる。内田さんも確か「そんなリストを作るのは大変だ!」と書かれていたように私は勝手に記憶している。

    というように、さらに先へ先へと進むのである。だから、鈴木さんはただの夢想家ではない。この本を読めばわかるではないか。仲間を集め、プログラムを組み、ワークショップを行い、本書を著し、一歩も二歩も現実に踏み込んでいる。現に私は救われ、大勢の才能ある若者たちを鼓舞し煽っているであろう。そうやって複雑な世界を複雑なまま生きられるようにするため、鈴木さんはコンピューターテクノロジーを使って、私のように悩み苦しむ人間の脳にかかる負荷を軽減しようとしているのだ。


    あとがきに連記された著者の協力者の方々の名前にもたいそう勇気づけられる。おそらくお若い方がかなりの数含まれておられるはずである。これだけの数の才能が鈴木さんを支えられているのである。人間もまんざら捨てたもんではないと感じずにはいられない。アーティストの草間彌生さんのお言葉が頭に浮かぶ。

    「何十億年もたてば人類は滅ぶでしょう。それで結構なんです。それまでにやれることは一杯ある。それを全部やって、自分たちの生命のいかに素晴らしいかということを、それは人類の素晴らしさを胸に秘めて…そして毎日を高僧のように仏像のように生命を投げ出して芸術を守っていきたいと思っています。それがすべて私の考えであり。どうかみなさん!本当に手伝ってください。みんなでもって力を合わせて世界の平和のために戦ってくれませんか?お願いしますよ。」

    残念ながら、私にはコンピューターテクノロジーに関する知識や能力は微塵もない。せめて今ある世界認識を、この本のおかげで少しは明確になりそうな私の思いを、アナログ的に日々更新し、多少はパソコンやスマートフォンと戯れつつ身近な人間関係に四苦八苦しながら、そこだけでも少しはなめらかにしていくより仕方がない。


    Mahalo

  • モチベーションはよく分かるし、新しい時代における貨幣制度や民主主義はどうあるべきかの詳細な考察も興味深い。でも、あまりにも現実離れしていて、真面目に読む気にならなかった。思考実験としては、本当によく考えられているんだけどね…。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784326602476

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著者プロフィール

南カリフォルニア大学客員教授及びケンブリッジ大学客員研究員を経て、現在、明治大学情報コミュニケーション学部教授。ノースウエスタン大学よりコミュニケーション学博士(PhD)/メディア批評及びカルチュラル・スタディーズ。
主な編著書に(共編)『説得コミュニケーション論を学ぶ人のために』2009年, (共編)『パフォーマンス研究のキーワード』2011年, The Rhetoric of Emperor Hirohito: Continuity and Rupture in Japan's Dramas of Modernity. 2017年, The Age of Emperor Akihito: Historical Controversies over the Past and the Future 2019年, Political Communication and Argumentation in Japan 2023年、翻訳書に(共訳)『議論学への招待ー建設的なコミュニケーションのために』2018年がある。財部剣人のペンネームで『マーメイドクロニクルズ 第二部 吸血鬼ドラキュラの娘が四人の魔女たちと戦う刻』を2021年出版。

「2023年 『ポップ・カルチャー批評の理論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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