ヘンな日本美術史

著者 :
  • 祥伝社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396614379

感想・レビュー・書評

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  • 美術史にも興味はあるけど、なんといっても大好きな山口晃氏著なので更に気になる。きっと書店で見つけたら購入します。

  • この本が近所の本屋で平積みになっていた頃、なんべんか、ぺらーとめくっては、買おうかな~と思いつつ、結局図書館で予約待ちをしていて、こないだまわってきた。

    この本で山口が言及している「絵」とか「美術」作品は、実際にどっかで見たことがあるのも少なからず含まれていたが、なんというか、私がぼやーっと見ていたのとは全然違うところからパシーッと光を当てられたような、私が「見たつもり」でいた絵やら作品は、もしかして、こんど見たら全然違うように見えるかも…と、しまいまで読んで思った。

    たとえば写実的な絵のことを"写真みたい"と評して、しかもそれが「スゲエ」という意味あいだったりするのは、やっぱり美術の教育というのが、こんなのがエエのやと指し示してきた結果なのかなーとも思った。

    私が5年まで通った小学校(いまは廃校になった)では、毎年春に写生会があった。そして、どの学年も、毎年万博公園へ行って絵を描いた。写生がものすごくうまかったM尾君のことを、いまでも思い出す。その「うまいなあ」というのは、見たままのサイズで建物が並んでいるとか、遠近法がくるってないとか、今思えば、"写真みたい"なうまさなのだった。M尾君の絵は、真ん中にばーんと観覧車を描いたら、そのまわりはちまちまとなってしまうような絵とは違うものだった。そういうのを、私も含めてまわりの子どもは「うまいなあ」と思っていたのだな、と思う。

    そんなことを思い出すと、「写生」というのを学んでしまったら、できなくなってしまうことがあるねんデという山口の指摘は、天動説じゃなくて地動説だというくらい、私にはどっかーんときた。

    塗りたい色しか塗らない、描きたいところしか描かない、「伊勢物語絵巻」時代の絵師は自然体で描けていた、それは「見たまま」が至上ではなかった時代だからこそ、できていたのではないか、と山口はいうのだ。

    ▼明治時代になり、写生をやった日本人はこれができなくなってしまいます。一度、自転車に「乗れる」ようになってしまうと、「乗れない」事をできなくなってしまうような感じです。
     ものを見ようとすると、子供でも線が引けなくなるのですが、これは色を塗ると云う面においても同じ事が言えます。
     …(略)…
     「伊勢物語絵巻」時代の絵師は、小さい子供のような色の使い方の延長にありつつ、職人としての錬度を上げていく事が、自然にできていたのではないでしょうか。
     それは「見たまま」が至上でなかった時代だからこそであって、恐らくは子供の頃から親方がやっているのを見て、真似する事で、何の疑いもなくそれができたのです。ものを見て描くよりも、こっちの方が美しいからそう描くと云う純粋さでやってこられた。
     ものを見て描くことを覚えると、それができなくなる時期があります。(pp.61-62)

    ▼私の学生時代の同級生などでも、見ないと描けないと言う人が多くいます。やはり写生と云うものをやっていると、引き写す技術は非常に長けてくるのですが、頭の中でイメージしたものを再構築する技術は別の所へ行ってしまう。これは近代の美術教育を象徴していると思います。(p.68)

    写実とか写生というものと、絵というもの、それはどう違うか。

    ▼そもそも、写実的な絵と云うものの「嘘」を私たちは知っています。いくら巧い絵であっても、所詮は三次元のものを二次元の中でそう「見えるように」表現しているに過ぎません。…
     少し小理屈を述べてまいりましたが、要は、絵画と云うのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が大切なのではないでしょうか。(p.115)

    ▼見ながら描けば、目を凝らす度に筆が止まります。筆勢を活かす事など覚束ないでしょう。逆に西洋絵画は、筆勢や筆跡は極力抑えて、画面内の形象の一部たり得るよう注意深く筆をおきます。それによって高い再現性の一助としているのですが、その再現性は多分に光学的な正確さを旨としています。
     写真画像を知っている私たちは、その【テ】の正確さを「正解」としてしまいがち(勿論、正解の一つではありましょうが)ですが、それを知る以前は(実は今でも)、人の【実感】と云うものが「正解」であったでしょう。「そうそう、小鳥ってこんなんだよ!」と云った風に。
     日本に限らず、古い時代の絵はパース(遠近)がつきません。あれは、人がそういう印象を持って風景なりを見ていた、そう実感していたと云う事で、例えば一本道で友達を見送ったとします。遠くの山を背景の遠ざかる友達は見た目上どんどん小さくなり、その足下の道はあなたの足下にあるものより大分細く見えます。ですがあなたは、友達の背が縮んだ、道が細くなったと思うでしょうか。遠くに行ったとは思っても、縮んだとは思わないはずです。そして、そう思わないものは、そうは描かないのです。(p.225、【】は本文では傍点)

    (M尾君はうまいなあ)というのは、小学校低学年にして、すでに私の中にもしっかり根づいていた「光学的な再現性の正確さ」みたいなものがスゲエという"ものの見方"やったんかなあと、私は35年くらい前のことを思い出す。

    山口がいろいろ書いているなかで、もうひとつ「ああそうか」と思ったのは、どういう向きに絵を見るかということ。それは、たぶん絵に限らない。「いま」から溯って、その絵を見るのではなくて、「その絵が描かれた頃」からいまに向かう視点をもったほうがいい、と山口はいう。

    ▼そうではなくて、その絵が描かれた時代を起点にして、なるべくこっち向きの視点を獲得する。「こっち向き」と云うのは、要するに、その時代からどうなるか分からない未来を見据えた視線を一生懸命想像する方が、あるべき態度かと思います。
     なぜなら、溯る態度と云うのは、家系図を反対から見るように、何であれ、それを必然にしてしまうからです。家系図と云うのは下の時代から辿ってみると、そこには運命しか書かれていないように読めますが、私たち自身の将来を見通す事ができないように、当時から見れば、偶然の山積物の結果が表わされている訳です。
     美術の歴史においても、本来そのような見方をしないといけないはずです。(p.27)

    "当時から見れば、偶然の山積物の結果"!!!! 

    あと、鳥獣戯画が描かれたような時代の、作家性のあり方と「自分」というものは、現代とだいぶ違うという話もおもしろかった。
    ▼現代だったら独自性に固執するあまり、「あ、俺はこんな絵は描けない」と言って落ち込んで終わりなのですけれども、その枠が緩いと「じゃあ、俺はこうしてみよう」と云う風に広がるほうに行く。その結果、むしろ自分というものを保てる側面がある。そういう、絵描きにとってはある種の幸せな状態が生まれていたのだと思うのです。(p.26)

    何の気なしにものを見ているようでいて、そんなことはあらへんなーと、絵を描くにしても、好きに描けばいいとか描きたいものを描けばいいとか言われてはいるが、どこかで"正解"の枠のなかにおるんやなーと、つくづく思った。

    (3/23了)

  • 山口さんの描く絵が好きなので、読んで見ました。

    美術展に一人で行くことが多く、解説に書いてあることだけじゃなくて、この絵が好きだとか、これはどうかと思うとか、他の人がどんなことを考えて見ているのか知りたいと思っていた私にとって、刺激的な本でした。絵を描く方が、その豊かな知識に基づいて、個人的な感想を言っている。おもしろかったです。

  • 日本画をよく知らない人でもわかりやすく、面白く書いてあって読んでいてきもちいい。絵を描くことが趣味の人は自分の描くもの、目指すものとの差などと比較できてより面白いのではないでしょうか。コマで割られていない漫画って描けるんだろうか...描いてみたいなー

  • 日本美術史ではないが、入口としては入りやすかった。

  • 2013/02/19 洛中洛外図、アツい。

  • 「専門家はこんな風にして絵を観るのか!」といった感じで、山口晃が考える「絵」について、軽快な語り口でわかりやすく教えてもらえる。
    私のようにきちんとした美術教育は受けていないが「なんとなく絵が好きで展覧会などもよく観に行く」でも「へーすごいねー。なんて説明していいかわからないんだけど、なんとなくいいのはわかる」みたいな人間がこの本を読むと、展覧会での絵をみる視点が変わるのではないか。

    山口晃と言えば、日本画の伝統的な手法で現代的なモチーフを扱うところが「わかっていて、崩す」という印象で、それが氏のとてつもないかっこよさだと思うのだが、本書からも彼のその「絵」に対する取り組みや姿勢なども見て取ることができる。

    氏は本書で一度自転車に乗れるようになると「乗れない」ことをできなくなるという例えを繰り返し使っている。過去の偉大な画家の中には、「わざと抜いて描く」ように絵の中でそれをやってのけているものもおり、彼の目指すところにはそういったところもあるのではなかろうかと思った。

    以下、メモ
    現代から遡る視点で昔のもののもつ意味をあれこれというのは、むしろ好ましくない。
    そうではなく、その絵が描かれた時代を起点にして、なるべくその時代から「どうなるかわからない未来を見据えた視線」を一生懸命想像するほうが、あるべき態度だと思う。
    遡る態度というのは、家系図を反対から見るように、何であれ、それを必然にしてしまうから。
    (「鳥獣戯画」などの絵巻物がアニメの源流だとかいったように語られることにたいして)

    日本の美術を考えた時、「枠」とか「入れ物」という言葉が思い浮かぶ。他の国の人達が中身で勝負するときに、日本人というのは外側でそれをする。器とか枠といったもので何か物事と向き合うような所がある。(日本の絵の特徴としてわざとふにゃっと描く、仕上げ過ぎないところがあるということをうけて)

    西洋画では、先に白を塗った後に輪郭を引いたりするが、日本の絵では最初の墨の線を大事にする作家が多い。

    子どもたちに彩色を教えると、最初はもうバカみたいに迷いなく塗りたくるが、それが存外良い感じになる。小さい子の絵が綺麗で強いのは、色も構図も主観に貫かれていて、バランスが非常によいから。

    絵と云うものは、三次元の実物を二次元に落としこむ作業だから、そこには必然的にある種の「変換」が必要になる。ただ「写せば」いいと云うものではない。
    一方で目に見える現実、その表層的なものは、いわば劇薬のようなもので非常に影響力が強く、描くときにそれに引きずられてしまいがち。そこから逃れるためには、その刺激をいったんどこかに置いてくる必要がある。河鍋暁斎や若冲もそういったことをしている。

    北斎などイメージが割りと定着している画家と違って、雪舟などの画家の作品に接する機会というものは直接触れるというよりも、ある程度日本美術を知っていく過程で触れることになる。別の部屋を通ってから雪舟という部屋にたどり着くイメージで、その通り方によってアプローチもいろいろ変わってくる。そもそもそれ以前の部屋の中に入るつもりもない人が、家の外から眺めていると恐らく、雪舟も狩野派も浮世絵さえも全部一緒に見えかねない。
    西洋画の歴史を知らない人がキュビズム以降のピカソの絵を見て「これの何がいいんだ」というような感じにも似ている。

    普通は派生物と元のものがあった場合に、何かを生み出す力は元のほうが強いのではと思いがちだが、実はそれは逆ではないかと感じている。日本にかぎらず、生まれたてのひ弱なそれを、よってたかって「たいしたもの」にしてやる。それが文化。その力が尊い。

    中国の茶杓と日本の茶杓を比べて。
    中国のものは銀や象牙でつくって、すっと伸びたフォルムにしあげる。でも、日本ではそれをすす竹でつくる。まず、材料からして外してくる。しかも竹の節をわざと残してそれを目立たせるようにしたりもする。なぜそんなことをするかと言えば、外すことによって中心からの距離が生まれ、それによって「動き」を含んだ「静止した動態」とでもいうべきものが現れる。そこがいいのです。
    日本人はこの「崩し」の価値をかなり早い時期からわかっていた。日本人は中心がわかっていたからこそ、崩すこともできたのです。

    酒を飲んで描くということ。山口も試したことがある。描いているときはいい。しかし酔っているときは迷わないでかける分、自分の持っているものを一歩も踏みでない。

    写真画像を知っている私たちは、そのテの正確さを「正解」としてしまいがちだが、それを知る以前は(実はいまでも)人の実感というものが正解であったでしょう。「そうそう!小鳥ってこんな風だよ!」といった具合に。

    <興味ある>
    光明本尊の絵はすごいインパクトある。中世の浄土真宗で本尊とするためにかかれた絵。正厳寺。
    品川の長徳寺にある六道絵はヘンリーダガー。切り貼り絵。ヘンリーダガー面白そう。

  • 以前からの疑問、氷塊の一冊。教科書でしか知らないが、なんか変な絵だなあと思っていた雪舟のすごさを納得。鳥獣戯画や頼朝像の謎も、画家の技法解説でわかりやすい。実にきちんとした評論で、こういう本は珍しい。

  • 凄い!日本画を描く山口晃氏を講師とした
    日本画の面白い見方。
    なかなか飄々とした方です。
    日本画展はあまり見に行かないけれど
    これから機会があれば行ってみたいなと思うようになりました。

  • 日本絵画に全く興味ありませんでしたが、山口昇さんの作品が好きなので読んでみました。日本絵画に興味を持つきっかけになったと思います。さっそく国立博物館へ行き雪舟の秋冬山水図を見に行っちゃいました。名前の出る全ての絵の写真が載ってるわけではないのでスマホで調べながら読みました。あと、私が無知過ぎて登場する芸術家がいまいちピンときませんでした。

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著者プロフィール

1969年東京都生まれ。群馬県桐生市育ち。東京藝術大学大学院修士課程修了。大和絵や浮世絵の様式を織り交ぜながら、現代の景観や人物を緻密に描きこむ画風で知られる。平等院養林庵書院に襖絵を奉納。新聞小説の挿絵やパブリックアートなど、幅広く活躍している。著書に『すずしろ日記』『山口晃 大画面作品集』『ヘンな日本美術史』など。

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