- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480036285
作品紹介・あらすじ
人生が深いよろこびと数々の翳りに満ちたものだということを、まだ知らなかった遠い朝、「私」を魅了した数々の本たち。それは私の肉体の一部となり、精神の羅針盤となった-。一人の少女が大人になっていく過程で出会い、愛しんだ文学作品の数々を、記憶の中のひとをめぐるエピソードや、失われた日本の風景を織り交ぜて描く。病床の著者が最期まで推敲を加えた一冊。
感想・レビュー・書評
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学校の職員室に筑摩書房のおじさんが教科書の宣伝にやってこられることがありました。
「先生、これ、どうぞ。」
そういって、机上にそっと置いていただいた「国語通信」で初めて出会ったのが須賀敦子でした。
「国語通信」・「ちくま」に連載されたエッセイ集ですが、どこから読んでも、須賀敦子さんの青春が輝いています。
ブログにぐちゃぐちゃ書きましたが、職員室に座りながら筑摩書房のおじさんと出会ったのは30年以上も昔のことで、須賀敦子さんが亡くなって20年以上たちました。読み続けられることを願う本の一つです。
ブログはその1・その2とあれこれ書いています。こちらからどうぞ。
その1 https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202202010000/
その2 https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202202070000/詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
感性の鋭く、自分の信念に対して潔癖なところがある著者が、本に導かれながら自分らしい人生を生きようともがく。その真剣さと「ただごとでない人生」を生きてきた経験が結晶化された言葉にぐっと引き込まれ、そして言葉が胸に突き刺さった(特に今自分自身人生迷子感があるので余計…)。この「突き刺さる」という現象は、著者の真剣さと、感性の鋭さから読者にもたらされるささやかな発見と、著者の紡ぐ正確で美しい言葉が掛け合わさって成り立つのではないかと思う。
例えば、こんなさり気ない挿入文も、大好きだった。
(引用)
「春だな。それが、最初に私のあたまにうかんだことばだった。そして、そんなことに気づいた自分に私はびっくりしていた。皮膚が受けとめたミモザの匂いや空気の暖かさから、自分は春ということばを探りあてた。こういうことは、これまでになかった。もしかしたら、こういうふうにしておとなになっていくのかもしれない。論理がとおっているのかどうか、そこまでは考えないままに、私はそのあたらしい考えをひとりこころに漂わせて愉しんだ。」
著者の人生を一本の背骨のように支えたのであろう、友人のしげちゃんの言葉も尊い。
(引用)
「個性を失ふといふ事は、何を失ふのにも増して淋しいもの。今のままのあなたで!」
大切な一冊になりました。中盤の「『サフランの歌』のころ」、「葦の中の声」、「星と地球のあいだで」、「シエナの坂道」が特に好き。 -
「あの本を友人たちと読んだ頃、人生がこれほど多くの翳りと、そして、それとおなじくらいゆたかな光に満ちていることを、私たちは想像もしていなかった。」
かけがえのない人々との記憶を、人生の過程で愛した書物に絡めて語った、イタリア文学者でエッセイストとしても知られた須賀敦子さんによる、小説のような構成を持つエッセイ集です。
幼少期や思春期に夢中になった物語、学生時代に外国語の教科書がわりに使われて心に残った海外作品、学生時代に級友が書いた名もなき小説、父親の蔵書、大切にしていた誕生日帳等々…。
須賀さんの心に残る遠い過去と近い過去の記憶、そして、現在という複数の時間軸を、自由かつ軽やかに繋ぐ役割を果たす書物は、実にさまざまです。
エッセイ集の始まりと終わりのそれぞれのお話が、時空をつなぐ書物こそ違えど、どちらもある一人の級友との思い出に繋がっていることが、人生の不可思議さや愛おしさを際立たせる巧みな構成と、読後の余韻に繋がっています。
いずれは小説を書きたいと考えていた須賀さんの明確な思いと、構成力や展開力への意欲を感じさせます。
静謐かつすっきりとしているのに、愛おしさと哀切の思いが滲み出る、須賀さんらしい美しい文体も健在です。
一人の女性の人生を、書物と周囲の人々との記憶を通じて垣間みる短編小説集としても楽しめてしまいそうな、とても質の高いエッセイ集です。 -
すごい。本を読み、それを自分の血肉していく、
「食べる」ように取り込んでいく喜び、その凄み。
「星と地球の間で」の章がよかった。
テグジュペリの「戦う操縦士」を読み
自分は今も大聖堂を建てているか?どっかりと安楽椅子に座ってはいないか?と、今立っている場所を確かめる。という。
そう読み取る。思い至れるところ。
そして実際に自問自答し続けていけるところを心から尊敬する。
「君は人生に意義をもとめているが、人生の意義とは自分自身になることだ」
「大切なのは、どこかを目指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」
さようなら、の語源は「そうならねばならぬのなら」なのだそう。
美しい言葉だと思った。
小川洋子さんのエッセイで知った「しげちゃんの昇天」から。
「ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないのよねえ、
それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてた。」
人が人を思うこと、自分以外は忘れてしまったかもしれないこと、思いを残すこと。
そしてそれをまた覚えていてくれる人がいるということ。
しげちゃんの思い出や言葉が、須賀さんに、小川さんに、そして少しでも私に残っていることのすべて。
タイトルもいいなあ。誰もが心に、遠い朝に読んだ本を抱えてる。
人生に影響を受けている。 -
「幼い時の読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかもしれない」
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初めて須賀敦子さんの著書を読みました。
以前からいろいろな本の中で本書の名前を見かけていたので、いつか読んでみようと思っていたのです。
本書は著者が少女時代に出会った本について、家族や友人とのエピソードを交えて綴られたものです。
まず驚いたのは、文章のやさしさでした。
むずかしい言葉やおおげさな表現がなく、構えたところのない文章は、著者の人柄が表れているように感じました。
アン・リンドバーグの著書を取り上げた「葦の中の声」で、著者はアンの本を読んで「ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念」を感じたと書かれていますが、その信念は須賀さんの文章にも通ずるところがあるように思います。 -
妙先生にお借りした本。
子供の頃感じたこと、本にまつわること、そういったことを大切に、素直な気持ちで書けるなんてすてき。子供の頃何が大切だったか、どう感じたのか、そういったことを大切にしている人が好き。例えば、中勘助とか。忙しない日々に、つかの間の透き通った時間をもらえた気分。アン・リンドバーグも並行して読んでいる。そんな年頃なのかな。 -
感受性の鋭い子ども時代に多くの本との出合いを経験し、それを成長過程の風景と共に記憶している著者を羨ましく思った。
最初は、本との幸福な出会いを綴ったエッセイだと思ったけど、どんな本も出合って不幸になるものはないかもね。
アン・リンドバーグの「海からの贈物」は読んでみたい。 -
大学の国語の入試問題で、「アルキビアデスの笛」が出題されたことがきっかけ。
試験中にも関わらず、楽しんで読んだ覚えがある。
合格したら絶対ゆっくり読もうと思ってました。
時間が空いてしまいましたが、図書館の中にあってよかった。-
よしこっこさん、はじめまして♪
大学受験お疲れ様でした。
試験中に入試問題を楽しく読まれるなんて
すごいですね!でもちょっぴり、わかる...よしこっこさん、はじめまして♪
大学受験お疲れ様でした。
試験中に入試問題を楽しく読まれるなんて
すごいですね!でもちょっぴり、わかる気も……
それほど須賀淳子さんの文章には引き込
まれてしまう魅力というものがありますよね。
わたしはこの間『ミラノ 霧の風景』を
読んで、そう思いました(*^^*)2018/11/05 -
2018/11/06
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本が大好きだった著者が子供時代に出会った本たちをエピソードと共に紹介。
静かで美しくゆったりした時間という印象。
子供の頃大好きだった本、大草原の小さな家シリーズを思い出した。
人生に影響を及ぼした本が私にはどれだけあるだろうか、、そんなふうな本の読み方をしたいと思える本でした。 -
読んだ本を思い返すことは、その時の自分の思い出を手繰ることなんだと教えてくれる。
美しい言葉で語られる情景は素晴らしく、読んでいると須賀敦子さんの思い出に入っていくようです。 -
サンテグジュペリの「人間の土地」が出てきたりして、ものの見方とか、絆とか、そういうものも考えさせられました。須賀さんて、いい本を読んでるんだなあ・・・というより、いい本を見つける力があるんだろうなぁ。私はいい本だと気づかないまま、その本をブックオフにやってるんだと思うとちょっと反省。
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本好きのための本。読書の習慣があれば同じ体験をした記憶がきっとよみがえる。
若い頃の本との出会い。本に関わる友人との巡り会い。それにまつわる記憶。
それらをすべて抱えて生きていくことの覚悟。読書する幸せを実感できます。
著者の須賀敦子は漱石、鴎外、谷崎、川端など日本の近代文学をイタリア語に翻訳されています。
日本での文筆業としては遅咲きで、晩年のわずかな期間に残した随筆は、
うっとりするほど美しい文体、優しくも圧倒的な文章です。 -
ぐっぐっと何か力をいれながら書かれているようで、
ひとつひとつ選び抜かれた言葉が重い。
はじめとおわりが、著者の友人じげちゃんの昇天。
やさしい言葉と、正直なことばでかかれているから、
なんだかとても心にしみて、
ついうるうると来てしまう。
著者の読書歴を垣間見ると、自分は読書好きではあるけれど、読書家ではないと思い知らされる。
父親との本でつながれた関係には自分を重ねたし、
本を通じて「あの時の自分」を手繰り寄せられるのは
うらやましくて、自分も将来そういう風にできような
そういう読書をしているかと問うてみることにつながった。
私の好きな米原万里も、須賀敦子も、
自分の昔を振り返って「少女時代」という言葉を使うが、私は自分の幼いころをどうしても「少女」という言葉で捕らえられなくて、すごく新鮮だった。
私もいつか、自分の昔を「少女」として受け止めるのだろうか。
「そのために自分が生まれてきたと思える生き方を、
他を顧みないで、徹底的に探究する」というくだりに
線を引いた。
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須賀さんの本、初めて読みました。
わかりやすく、すっきりとしていながら、やわらかく情景が浮かび上がってくる文章に心が震えました。
見たことのない情景が、目にも心にも浮かぶように感じました。
時を超える感覚が新鮮で、もっと他の本も読んでみたくなりました。 -
文章のもつすべての次元を、ほとんど肉体の一部としてからだのなかにそのまま取り入れてしまうということと、文章が提示する意味を知的に理解することは、たぶんおなじではないのだ。
幼い時の読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。
いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかも知れない。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/764245