日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480814968

感想・レビュー・書評

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  • 著者の憂国の思い、願いがひしひし伝わってくる、随筆とも論文とも違うとても印象的な文章。構成も面白い。

    <blockquote>P32 地球上のありとあらゆるところで人は書いていた。人は金持ちの国でも貧乏な国でも書いているということも、身をもって感じたことの一つである。

    P141 読むという行為と書くという行為は、本質的に、非対称なものである。

    P145 <学問>の本質−<学問>とは本来、<普遍語>で読み<普遍語>で書くものだという<学問>の本質が、否定しがたく露呈してきたのであった。

    P147 西洋語を<母語>としない学者が<自分たちの言葉>で書いて<読まれるべき言葉>の連鎖に入ることは、ほとんどありえないのである。

    P148 ヨーロッパで<文学>という言葉が、詩や、劇や、小説に限られて用いられるようになったのは、十八世紀後半からである。それ以前は<文学>とは書かれたもの一般を指し<学問>と<文学>は未分化のものであった。(中略)ところが、<国語の祝祭>の時代に入り、まさに人々が<国語>で読み書きするようになるにつれ、<学問>と<文学>が分かれていった。

    P153 <文学>で達しうる<真理>には、毎回そこに戻って行かねばならない<読まれるべき言葉>がある。

    P159 日本列島は、四世紀という、太平洋に浮かぶ他の島々と比べれば僥倖としかいいようもない時期に漢文が伝来し、無文字文化から文字文化へと転じたのである。文字文化の仲間入りをしたのを記念した「文字の日」を作り、ブラスバンドに演奏させぽんぽんと花火を揚げて祝いたいような−あるいは、漢文明に感謝の意を表して、銅鑼を打ちパチパチと爆竹を鳴らして祝いたいような慶ばしい出来事である。

    P185 日本は、不平等条約を解消するためには、まず外交というゲームの規則を知らねばならなかった。(中略)要するに、西洋の知識や技術を何でもかんでも緊急に日本語に翻訳して自分のものにせねばならなかったのである。(中略)西洋語を翻訳するのに感じという表意文字ほど便利なものはなかった。漢字は概念を表す抽象性、さらには無限の造語力を持つ。

    P187 日本政府はなんと「科学技術とも関係ない、芸術論の根本である美学について」も訳させたのである。国家そのものの存亡が危うかったときの丸山がいうこの国家の「懐の深さ」は、当時の混乱にあるだけではない。(中略)<叡智を求める>という行為に必然的に内在する無目的性そのものがある。繰り返すが<叡智を求める>という行為は、究極的には、目的を問わずに、人間が人間であるがゆえの行為に他ならないからである。

    P196 小説とは<国語>で書かれたものであるにもかかわらず−というよりも<国語>で書かれたものであるがゆえに、優れて<世界性>をもつ文学だということにほかならない。

    P198 日本に日本近代文学が存在するようになったこと。それは、日本に、日本語で<学問>ができる<大学>が存在するようになったという事実抜きには考えられない。

    P210 「日本より頭の中のほうが広いでせう」(中略)広田先生を特徴づけるのは、西洋語を誰よりも読んでいるのに、何も書かないということである。広田先生は世の叡智の光をことごとく呑み込むだけで、自らは何の光も発しない。

    P239 人間には<書き言葉>を通じてのみしか理解できないことがある。(中略)一度<書き言葉>を知った人類が、優れた<書き言葉>すなわち<読まれるべき言葉>を読みたいと思わなくなることはありえないからである。ことに<叡智を求める人>が<読まれるべき言葉>を読みたいと思わないうなることはありえない。そして<叡智を求める人>は殿社会でもあるわリアでは存在する。以下につまらぬ本ばかりが市場に流通していようと、その脇で、<読まれるべき言葉>も流通し続けるのである。
    ほんとうの問題は、英語の世紀に入ったことにある。

    P241 <大図書館>とはインターネットを通じて世界のすべての書物にアクセスできるという、究極の<図書館>である。(中略)その夢が、今、インターネットにさらに二つの技術が加わって可能になりつつある。一つは書物をデジタル化して読み取れるスキャニングの技術。二つには、欲しい書物を探し出せるサーチエンジンの技術。

    P246 英語を<母語>とする書き手の底なしの無邪気さと鈍感さ。

    P254 悪循環がほんとうにはじまるのは<叡智を求める人>が<国語>で書かなくなるときではなく、<国語>を読まなくなるときからである。

    P262 <叡智を求める人>であればあるほど日本語で書かれた文学だけは読まなくなってきている。読むとしても、娯楽のように読み流すだけである。(中略)<叡智を求める人>ほど、日本の文学に<現地語>文学の兆し−「ニホンゴ」文学の兆しを鋭敏に感じ取っているのである。

    P264 いくらグローバルな<文化商品>が存在しようと、真にグローバルな文学など存在しえない。グローバルな<文化商品>とは、ほんとうの意味で言葉を必要としないもの−ほんとうの意味で翻訳を必要としないものでしかありえない。(中略)言葉の力だけは、グローバルなものと無縁でしかありえない。そしてその事実こそが、言葉の力なのである。くり返し問うが、今、漱石ほどの人材が、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。

    P276 日本が必要としているのは「外国人に道を聞かれて英語で答えられる」人材などではない。日本が必要としているのは、専門家相手の英語の読み書きで事足りる、学者でさえもない。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。

    P284 もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定しきらなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。

    P287 教育とは最終的には時間とエネルギーの配分でしかない。

    P290 だからこそ、日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は「ここまで」という線をはっきりと打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提−日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである(中略)<国語>をこそ可能な限り格差をなくすべきなのである。

    P306 表記法を使い分けるのが意味の生産にかかわるというのは、日本語独特のことである。そのようなことは、漢字という表意文字を使う漢文でも起こらない。(中略)同じ音をした同じ言葉−それを異なった文字で表すところから生まれる、意味の違いである。

    P313 今世紀に入って急速に普及したインターネットの出現−しかも英語が<普遍後>となったのを時をいつにしたインターネットの出現は、今まで日本語という<書き言葉>を護ってきた地理的条件を徹底的に無意味なものにしてしまったのである(中略)日本人は、日本語は「絶対、大丈夫」という信念を捨てなくてはならないときにきている。</blockquote> 

  • 日本語を大切にしよう、夏目漱石の「三四郎」と読もう。


    ・日本近代文学が存在したという事実そのものが、今、しだいしだいに、無に帰そうとしているのかもしれない・・・。(p.56)
    ・「英語と英語ではない言語の非対称性」
    ・<普遍語><現地語><国語>
    ・カレツキというポーランド人の悲劇

    英語が普遍語としての地位を確立した現在、英語以外の言語はどうなっていくのだろうか。
    明治時代のインテリたちは、皆、日本語以外の言語を読み、勉強していた。
    それによって、日本語が「学問ができる言語」となり、日本にも「日本近代文学」という「主要な文学」が誕生した。
    しかし、英語が普遍語となってしまった現在、そして、将来、英語以外の言語で「書こう」とする人は残るのだろうか、そして、それを「書く」意味はあるのだろうか。
    そう考えると、過去に、日本近代文学という高みを極めた日本語は、今後、単に現地語として残っていくのみではないのか、という主張だと思う。

    まずは、「三四郎」を読むところから始めたい。
    自分も、昨今の英語教育の過熱には、違和感を持っていたが、これを読むと、逆に、英語「も」非常に重要になってきているのだなと実感させられた。

  • 日本語の魅力を持つ日本文学、小説が日本語が滅びる=西洋中心主義ーに抗した。

  • 「二重言語者」の筆者だから気づけた日本文学と日本語の意義。留学時英語のデータベースを見て受けた衝撃は自分だけではなかった。

  • 最近、「12世紀ルネサンス」を読んで、中世ヨーロッパでの共通言語としてのラテン語の役割の重要性を改めて認識するとともに、現在の共通言語である英語との日本における距離感に危機感を持ったのだが、ほとんど同じ問題意識の本がでていた。しかも、私がほとんど唯一読む日本の現代の作家水村美苗さんによるものである。面白くないはずがない。

    内容的には、個人的な体験を語った1~2章が、著者の「私小説」や「本格小説」の続きみたいな風情で、引き込まれてしまう。あと、漱石の「三四郎」を中心に日本近代文学の奇跡を論じた5章も素晴らしい。

    が、ベネディクト・アンダーソンなどを踏まえながら、国民国家と国語の関係を論じていくところは、内容的には共感するのだが、今ひとつ、他の部分とのバランスが良くない気がする。最終章も、政策提言的になって、やや???

    実に憂国の書なのである、「どうしちゃったのー」と思うのだが、それだけ危機感が尋常ではないということ。日本語のプロが肌感覚で感じる日本語の終わりがそれだけ強いと言う事だろう。

    同じ論旨の繰り返しが多いので、もう少しコンパクトにまとめつつ、著者の得意とする文学の話を中心にして論じれば、もっと説得力のある本になったのではないだろか?と思うのだが、著者の日本語への思いは熱いので、本の完成度とか、関係ない!ということであろう。

    「流通するがゆえに流通する」という岩井先生の貨幣論の影響やシステムシンキングでいう自己強化的なループ的な記述が、いろいろなところに散らばっていて、なんだか微笑ましい。

    個人的な結論としては、「英語が読めなきゃ、話にならない」

  • ■著者は言語を<普遍語(universal language)><現地語(local language)><国語(national language)>という三階層でとらえている。日本にとり、普遍語は明治以前は漢語・中国語であり、明治以後第二次大戦までは、英語・ドイツ語・フランス語であった。そして第二次大戦後は英語であり、インターネット時代において英語の力はますます強くなつている。(ちなみに西洋では長らくラテン語が普遍語であった。)
    ■<国語>は<現地語>が国民国家の成立期に国家との相互作用で標準化して作られたものである。<国語>とは、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」と定義する。一旦<国語>ができると、各<国語>に対応した文化・文学が成立する。それは、<現地語>では成立し得なかったものである。
    ■学問とは出来るだけ多くの人に向かって自分が書いた言葉が果たして<読まれるべき言葉であるか>を問い、そうすることにより、人類の叡智を集積していくものである。(逆に言うと<自分たちの言葉>で学問ができるという思い込みは、実は、長い人類の歴史を振り返れば花火のようにはかない思い込みでしかなかったという事実である。) 

    ■人間の世界のすべてを知りたいという欲求は、普遍語の図書館を読みたいという欲求につながり、知的欲求の強い人間、叡智を求める人間ほど、普遍語の図書館に出入りしたいという欲求をもつようになる。

    ■英語の世紀に入り、国益という観点から考えると優れて英語のできる人材を育てる必要あり、そのためには3つの方針がある。
    ①<国語>を英語にしてしまうこと
    ②国民の全員がバイリンガルになることを目指すこと
    ③国民の一部がバイリンガルになることを目指すこと

    ①を選択すると過去の日本語で書かれた古典が読まれなくなり採用できない。現在の日本政府の方針は②or ③かではっきりしない。
    俺個人としては、③の選択しかないと思う。
    英語教育、国際ビジネスに携わる者は必読の書ではないか?と思う。 

  • 図書館で借りて1カ月使って読み終わらなかった。今度リトライ。

    とっても興味深く、言語に対する世界観が変わりました。
    借り直しよりも買った方がいいか?。


    日本で日本語で学問をするということについての本。
    古来、学問とはヨーロッパではラテン語、イスラム圏ではアラビア語、アジアでは漢文で行われた。

    ほとんどの人たちにとってこれらの言語は普段使いの話し言葉ではなく、「学問のための言葉」であった。これを普遍語と本書では呼ぶ。
    学問を修めたければ、つまり人類の持つ英知に触れたければこれらの普遍語を使えなければいけない。

    現在、世界の普遍語とは言うまでもなく英語である。
    インターネットの普及でその度合いは加速度的に高まっている。
    日本語やその他の国語で論文を書いても、読むのはその言葉を使う人たちだけだ。
    世界の学問に(しろなんにしろ)参加したければ普遍語を使うしかないのだ。

    というお話が半分。

    そういう世界でもなお、それぞれの国語、現地語で書き続ける人々がいて、それが無くなることはない。
    それって素晴らしいことだよね、文化的多様性的にも。

    というお話が半分・・・かな?

    話のオチをまだ読んでいないけど。

  • 知りたいという欲望が強い人がいます。現代は、知るためのツールとして「インターネット」が代表とされます。知りたいという欲望を持つ人は、インターネットを活用し、その見識を広げていきます。

    そこで繰り広げられてる言語の筆頭は「英語」です。知りたいという欲望を持つ人は、物事を知るために「英語」を読みます。さらに、自分の考えを広く知らしめるために、世界語である「英語」で書きます。非英語圏の人ならば、そこに「母国語」はもはや介入しません。

    こうして、母国語が亡びていくのです。

    今、「英語」の勉強中です。仕事で使うから、と言う理由もあるのですが、やはり「知識欲」が大きな理由です。

    英語が読めれば、カバーできる文献の量が、日本語のみに比べて圧倒的にスケールアップします。また、今の時代のスピードを考えれば、翻訳の時間を待ってられません。至上命題として、英語をスキルにします。

  • 春から、断続的に読んできて、やっと読了。
    でも、こういう読み方ってよくない気がする。
    ゆっくり読むから内容が入ってきているかというと、そうでもない。
    まあ、それはさておき。

    第六章、七章あたりの議論の集中力のすさまじさ。
    それは強く感じ取れたのだけれど、いかんせん、こちらの感受性が鈍いせいか、筆者の危機感が共有できなかった。
    たしかに、明治以降の学問の言葉、文学の文体が苦労しながら一つの体系として完成していったことは、よくわかっているつもりだ。
    漱石などの近代文学に、真剣なアイデンティティの問題を読み取ることができるというのも、その通りだろう。

    たぶん、私が水村さんの議論に乗り切れなかったのは、日本近代文学に対する位置づけが、頭ではわかっても、同意しきれなかったことにあるのだろう。
    正直、漱石の作品がそう面白いとは思えないのだ。
    日本人のみんながバイリンガルになる必要はないという主張はよくわかるが、日本の国語教育は日本近代文学が読み解けることを目標にすべき、と言われると、そうかあ? と思ってしまう。
    それから、仮に近代日本文学を称揚するならそれで構わないが、わざわざベネディクト・アンダーソンを持ってくる必要はあるのだろうか?
    なんだか、かえって議論が面倒になっている気がする。
    そして、かえって「近代」「日本」の国民国家になろうという運動を再現してしまっていないか?

    グローバル化は、この本が出たころよりもずっと進み、いよいよ「英語の世紀」になってきたことは実感する。
    この本は、今年、増補されて文庫になったそうだ。
    …きっと大筋において、この本の主張は変わらないのだろうし、むしろ予想通りの展開になったと意を強くしているのかもしれない。

  • The Fall of Language in the Age of English (Columbia University Press, 2015)

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著者プロフィール

水村美苗(みずむら・みなえ)
東京生まれ。12歳で渡米。イェール大学卒、仏文専攻。同大学院修了後、帰国。のち、プリンストン大学などで日本近代文学を教える。1990年『續明暗』を刊行し芸術選奨新人賞、95年に『私小説from left to right』で野間文芸新人賞、2002年『本格小説』で読売文学賞、08年『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』で小林秀雄賞、12年『母の遺産―新聞小説』で大佛次郎賞を受賞。

「2022年 『日本語で書くということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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