日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480814968

感想・レビュー・書評

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  • 大悟くんお勧め。

  • 水村美苗『日本語が亡びる時―英語の世紀の中で』.東京:筑摩書房.:著者は,アメリカ在住の日本文学者・作家である.著者は,知性を語る言語としての日本語が存在し続けることができるかどうかを危惧する.将来も日常会話やマンガの中で日本語は使われ続けるであろうが,それだけでよいのだろうかという言語文化論・政策論である.(2010:小林茂之先生推薦)

  • なんというか、根拠のない断定が多すぎて読みにくい。最後まで読めないかも。

  • 最初は自分語り乙~と言いたくなったけど
    3,4,5章はおもしろかった。
    ます日本語をきちんと、という主張には同意。

    何だろう、著者の言葉の端々にかちんとくるものが・・・・

    長いこと読み継がれてきた作品は、時間のふるいにかけられて残ったもので、
    最近出た作品とそのまま比べるのはやや乱暴ではなかろうか。

    深草図書館。
    (10.11.27)

  • 近頃の「日本語の乱れ」を論じたものかと思えばさに非ず。「普遍語」として、もはや一人勝ちが確定的になった「英語」。インターネットの普及によって怒涛の如く押し寄せてくる英語文化を前にし、世界でも(最も)稀な特徴を持つ日本語の文化が亡びようとしている。学問するための「書き言葉」としての日本語の重要性をきっちりと論じて、日本語教育の重要性を説くのにはとても説得力がある。しかし、女子供向けの喋り言葉で書かれた小説が大好きな大人としては中々ちょっと…と思うこともある。にしても、朔太郎の詩の表記を変えただけでこれほど伝わるものが変わるとは驚きだった。

  • この本の主張には、概ね賛同するが「日本語が亡びるとき」は、当分来ないと思う。

    英語が普遍語であるのは論を待たないし、それが読めるかどうかで大きな違いがあるのも事実だ。

    しかし、「国語」としての日本語が「現地語」に落ちぶれることはないし、そもそも日本語はその他大勢の「国語」の一つではなく、著者の言うかつての「英語」「フランス語」「ドイツ語」という3大言語に引けを取らない地位を獲得している。

    それは、日本人が日本で生活している限り、日本語以外の言語が読み書き出来なくても何不自由なく生きていかれる、ことにある。

    JICAの研修生で来日したトルコ人のエンジニアと知りあって、共通語の英語で話した時にわかったことだが、日本人が英語が苦手なのにははっきりした理由があったのだ。

    逆に言えば、なぜ日本人以外はそれなりに英語が出来る人が多いのか?

    日本人は、大学という高等教育機関でも、基本的にすべて日本語で学べる。英文学やフランス文学を専攻しても、教科書は日本語だ。

    大学の授業が英語だったら、英語が出来ませんではすまない。仕事のボスが英語でレポートを要求するなら、英語が出来なきゃクビになる。

    ありがたいことに、日本はそんな国ではなかった。ごく一部では、そういう動きもあるが、広く普及することはないだろう。

    それは、日本が翻訳大国であり続けているおかげでもあるし、「叡智の探求者」がプロメテウスよろしく、「火」を持ち帰り続けたからでもある。

    普遍語を会得した者が、頭脳流出して「日本語」の元に帰って来なくなってしまえば、日本語は「現地語」になってしまうが、しばらくこのままの日本語世界が生き残ると思う。

  • 日本の現代文学をあまり読む気になれないのは同感だが、近代文学(特に漱石)を持ち上げ過ぎと思わないでもないかな。
    とはいえ、普遍語とそれ以外の言語との関係、日本語が「国語」として成立する過程など、当たり前のように思い過ぎて気づかなかったことを鮮やかに提示してくれる。
    筆者の主張に賛同するかは読者次第だが、日本語に興味がある人は読んで損はないと思う。

  •  文字や言語の成り立ち、現在の日本の国語・英語教育の問題点等、成る程と大いに納得し、日本語(=日本文化)が亡びようとしている事への憂い等、共感する部分も沢山ありました。
     が、どうにもこの著者自身へは好感が持てず……特に1章2章あたりは、やたら上から目線だなと思えば今度はやけに自虐的だったり、周囲に馴染めない自慢&病気がち自慢のようなところ等、いちいち言葉が鼻について、正直読み始めたのは失敗だったかと思った程です。
     言語や文化の事を淡々と述べているうちはいいのですが、著者自身の事がちょっとでも出ると、どうにもイライラしてしまいました。
     ただやっぱり全体としてはとても興味深い内容でしたので、この著者の日本語にまつわる他2冊も、今後読みたいと思います。

  • 中学生か高校生の頃、何故、日本語ではなく国語の授業いふのだろうと疑問に思っていた、この書では、その違いに対する一応の説明がつけられている。ちなみに、英語がからっきしだった私は、好きな教科は英語ですなんて無邪気に言う女の子を「何、英文学を読むわけでもあるめぇし、関係代名詞や分詞構文がお好きなんですか、英語ってのは国語なんだよ馬鹿」と腑の中で思っていたものである。

    さて、本書の最初の二章は、私小説―from left to right (ちくま文庫)にも通ずる、陰鬱なコンプレックスの塊を押し付けられているようで、共感どころか、嫌悪を感じたが後半は大きな物語に飛躍する。そして、意外と思われる人もいるだろうが、この「英語が普遍語になった今こそ日本語を」という呼びかけには大方同意いたします。氏は、薄っぺらな国語の教科書をとかく批判するのですが私も(国民文学を読んでこなかったのを他人のせいにするに過ぎないが)、中高学生の頃に四迷や漱石、その他の明治文学とそれ以前の西鶴などの古典を徹底的に仕込んでくれなかったんだろうという被害者意識を少しは持っている。というのも、大人になり、政治や経済や諸科学に興味を持ち、問題意識を日々抱えるようになると、文学(ここでは小説、散文、詩の意)がなかなか追っつかなくなってくる。

    ではなぜに大方かと言えば、英語の部分である。もちろん、彼女は自主的に英語圏に移り住んだわけではないから、何かと不自由に感じてはあまり進んで回りの生徒とコミュニケーションをとる意欲などなかったのかもしれないが、インドユーロピアン外の言語を母国語とするものにとって英語はそこまで難しいものだろうか。どうもそうは思えない。当然、日本語で良い文章というのが稀少であるのと同じように、英語でもそれは同じである、それは母国語かそうでないかと言う話とは別の次元であるようにも思える。

    There but for the grace of you go I --Kathy's Song by Paul Simon
    (人の)道を踏み外してないのはあんたのおかげ[訳責著者]

    このフレーズはThere but for the grace of God go Iをもじったものである(私はサイモンのバージョンの方が気に入っている)。例えば、サイモンのバージョンを私が会話かブログかで使ったとすると、教養ある(が、Simon& Garfunkel好きではない)アメリカ人の友達に"正され"てしまう(可能性が高いし、事実この経験がある)。でも、私がサイモンの詞にあると説明すると、それで良しとなる。ネイティブだからではなくてサイモンだから良いのかも知れないが、我々ノンネイティブにはオーソリティーの問題が付きまとうのは間違いない。この、オーソリティーは言語をどこまで曲げたりねじったりしてよいかというライセンスとも言い換えられる。シェークスピア(個人であれ、グループであれ)は英国人でしかありえないのである。私が、前例ナシにあんなものを書いたら、中の下の進学校でも"2"を貰ってしまう、私の母国語が日本語である限り、アメリカでも日本でもだ。
    そして、小説をはじめとした文学にはこのことばの使用の「遊び」の部分がモノをいうのである。

    英語の普遍語化がほぼ完成の域に達したときこのライセンスの制度が崩れるかのか多少の見直しがあるのかどうかについては、長くなりそうなので他の機会に(nativeがよりAuthenticityを主張することにはなると思うが)。

    中学高校の国語の先生には読んでおいてほしい一冊。

    余談:国際会議でWitにとんだスピーチや質疑応答をするのはそれほど難しいことではないし、これも、英語とか日本語ではない。どちらかと言うとヤマアラシか坊ちゃんかという問題だ。

  • 再読。
    何よりも文学の本であって、英語の本ではない。
    文学に特別な思い入れがない人にはなかなか核心が掴めないかもしれません。
    エッセイ風の軽い書き出しから普遍語としての地位を得た英語、国民文学としての日本文学が危ういバランスの上に成立したことなどへ、徐々に核心へとラディカルに迫る筆致は実に読ませます。
    本書の問題提起は日本人として今後考えて行かなければならないことです。ただし、私自身は日本語は「亡びる」ことなく生き残ると思っています。

    以下、本書に関して感じたふたつの疑問。
    (1)基本的に知識人階級限定の話であって、一般大衆が日本文学の高みに達することを想定していない
    (2)純文学以外のジャンル…例えば著者が「漫然と流通している」と切り捨てた大衆文学や、あるいは漫画やアニメに使われている日本語をかなり低く見ているが本当にそう言えるのか?

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著者プロフィール

水村美苗(みずむら・みなえ)
東京生まれ。12歳で渡米。イェール大学卒、仏文専攻。同大学院修了後、帰国。のち、プリンストン大学などで日本近代文学を教える。1990年『續明暗』を刊行し芸術選奨新人賞、95年に『私小説from left to right』で野間文芸新人賞、2002年『本格小説』で読売文学賞、08年『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』で小林秀雄賞、12年『母の遺産―新聞小説』で大佛次郎賞を受賞。

「2022年 『日本語で書くということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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