自由からの逃走 新版

  • 東京創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488006518

感想・レビュー・書評

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  • 1つの言葉が万人に肯定されるとは限らない。

    その実、その人を苦しめてしまうことがある。それは「自由」という言葉も同様である。
    そんなことがあるのか?

    「愛するということ」に続き、当たり前に脳に刻まれていた言葉がリニューアルされる文章に驚かされます。

    そして、ただ不安を煽るのではなく、解決策も提示してくれるあたりが、フロムの優しさです。
    西田幾多郎や、三木清にも感じる、「全人的」という考え方は、今の価値観の土台になりました。

  • 人間は孤立することをもっとも怖れている。

    人間は、(意識の上では)自らの意思で動いていると信じ、自らの意思で“積極的な自由”を求めているものと信じている。

    だが人間は、自由になればなるほど、心の底では耐えがたい“孤独感”や“無力感”に脅かされることになる。

    そして孤立することの絶望的な恐怖から逃れるため、退行的な逃避のメカニズムが働き、“積極的な自由”を求めることより、自由から逃れることを人間は選択するのである。


    <「自由からの逃走」のテーマの中心点>
    人間が自由になればなるほど、そしてかれがますます「個人」になればなるほど、人間に残された道は、
    愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、
    自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。

    <自由の多義性>
    「・・・からの自由」は、積極的な「・・・への自由」とは同じものではない。

    自由の意味は、人間が「自分を独立し分離した存在として“意識する程度”」にしたがって違ってくる。

    <第一次的絆>
    「個性化の過程」は、個人がその<原始的な絆>から次第に脱出していく過程である。
    子どもは生まれてもなお、かなり長いあいだ機能的には母親と一体となっている。
    比喩的にいえば、個人が外界に結びつけられている“へその緒“を完全にたちきっていない程度に応じて、かれには自由はないのである。
    しかしこれらの絆は、かれに安定感や帰属感をあたえる。
    これらの絆のことを<第一次的絆>と呼ぶ。

    <個性化が進む過程の二つの側面>
    子どもが成長し、第一次的絆が次第にたちきられるにつれて、自由を欲し独立を求める気持ちが生まれてくる。
    この個性化が進む過程には二つの側面がある。
    その一つは、子どもが肉体的にも感情的にも精神的にも、ますます強くなっていくということ、
    他の面は、孤独が増大していくこと、である。

    この外界からの分離は、無力と不安の感情を生みだす。
    ここに個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。

    <孤独と無力を克服する方法>

    ① 【服従】 (退行的解決)

    孤独と無力の感情を克服しようとする衝動から生まれる「新しい絆」は、どうしても“服従”の性格をおびることになる。
    服従において、権威とそれに服従しようとする子どもとのあいだの根本的な矛盾はけっして除かれない。
    子どもは、意識的には安定と満足とを感ずるかもわからないが、無意識的には自分の払っている代価が自分自身の強さと統一性の放棄であることを知っている。
    服従は子どもの不安を増大し、同時に敵意と反抗とを生みだす。
    その敵意と反抗は、子どもが依存しているまさにその人に向けられるので、それだけいっそう恐ろしいものとなる。

    ② 【自発的な関係】 (前進的解決)

    孤独と無力の感情を克服するための、唯一の生産的な方法がある。
    すなわち人間や自然にたいする自発的な関係である。
    それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。
    この種の関係は、全人格の統一と力強さにもとづいている。
    そのもっともはっきりしたあらわれは、愛情と生産的な仕事である。

    中世的社会(封建社会)の崩壊は、個人を自由にし、そして個人を孤独に陥れた。
    - 人間は以前に享受していた“安定性”と“帰属感”を奪われ、外界からは解放されたが、彼は孤独となり不安に襲われた。
    - しかし彼はまた自由となり、自己の主人となることができた。
    もっとも成功した階級だけが、台頭する資本主義から利益を獲得し、実際に富と力を与えられた。
    下層階級や都市の貧困階級、とくに農民たちは、自由への新しい追求にかりたてられて、熱烈な願望にもえていた。
    彼らには失うべきものはほとんどなかったが、獲得すべき多くのものを持っていた。

    しかし我々の主要な関心は「中産階級」の反応にある。
    資本主義の発生は、中産階級には大きな脅威であった。

    自由は力と自信よりも、むしろ孤独と個人の無意味さをもたらした。
    そのうえ彼は、富裕階級の奢侈と権力とに燃えるような憤りを持っていた。
    プロテスタンティズムはこの無意味さと憤りの感情とを表現していた。
    それは神の絶対的な愛への信頼を破壊し、自己自身と他人を軽蔑し信頼しないことを教え、人間を目的ではなく手段にしたのである。

    新しい宗教的原理は、中産階級の一般の人々が感じていたことをただ表現したばかりではなく、その態度を合理化し体系化することによってますます拡大し強化した。
    しかし新しい宗教はそれ以上のことをした。
    すなわち個人にその不安と取り組む道を教えた。
    自己の無力さと人間性の罪悪性を徹底的に承認し、彼の全生涯をその罪業の償いと考え、極度の自己卑下と絶え間ない努力によって、その疑いと不安とを克服することができると教えた。

    また“完全な服従”によって、神に愛されることができ、少なくとも神が救うことに定めた人間に属するという希望を持つことができると教えた。
    プロテスタンティズムは、おびやかされ、くつがえされ、孤独につき落とされた人間が、自らを新しい世界へと方向づけ、新しい世界と関係を結ばなければならないと望んだ要求に対する解答であった。

    この新しい性格構造が、こんどは逆に社会的経済的な発展をさらに推し進める重要な要素となった。
    このような性格構造に根ざした、
    - 仕事への衝動、
    - 節約しようとする情熱、
    - たやすく超個人的な目的のための道具となろうとする傾向、
    - 禁欲主義、
    - 義務の強制的意識、
    という性質こそが、資本主義社会の生産的な力となった性格特性であり、それなしには近代の経済的社会的発達は考えられない。

    近代産業組織は、個人を発展させ自由を増大させたが、かれをいっそう“無力”なものにし新しい“依存”を生みだした。

    <二面性>
    近代社会の機構は同時に二つの仕方で人間に影響を与えている。
    - 人間はよりいっそう独立的、自律的、批判的になったこと、
    - よりいっそう孤立した、孤独な、恐怖にみちたものになったこと、
    である。

    利己主義”は、真の自我に対する“肯定”と“愛”の欠如に基づいている。
    近代的利己主義は、真の自我の欲求不満に基づいた「貪欲」であり、その対象は、個人に対して外から予想される役割によって構成される“社会的自我”である。

    機械的画一性  <自動機械>

    この特殊な逃避のメカニズムは、現代社会において、大部分の正常な人びとがとっている解決方法である。
    簡単にいえば、「個人が自分自身であることをやめる」のである。

    ナチのイデオロギーは「下層中産階級」によって熱烈に歓迎された。
    ドイツ革命以前、下層中産階級の経済的地位は傾きつつあったものの、それはまだ絶望的ではなく、地位を安定させる多くの因子があった。
    しかし戦争後に状態は大きく変化した。

    経済的衰退、敗戦と君主制の崩壊(かれらは君主政治によりかかり一体となることによって安全感と自己満足的な誇りを獲得していた)、インフレ、そして中産階級にとって安定の最後の要塞である「家族」もまた粉砕された。

    君主制や国家のような権威の衰退は、個人的な権威である両親の役割にも影響を及ぼした。
    若い世代にとって、両親から尊敬するようにと教えられた権威が弱体を暴露したとき、両親もまた威信と権威を失った。

    下層中産階級の「古い世代」はますます怨みと憤りを感じるようになったが、それは消極的なものだった。
    それに反して「若い世代」は、行動に突き進んでいった。

    外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる「内的な心理的条件」があってはじめて可能となる。

    自由の勝利は、
    - 個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会、
    - 成功やその他どんなことにおいても、なにも弁解する必要のない生活が行なわれるような社会、
    - 個人が(国家にしろ経済機構にしろ)自己の外部にあるどのような力にも従属せず、またそれらに操られないような社会、
    - 個人の「良心」や「理想」が、外部的要求の内在化ではなく、「真にかれのもの」であって、かれの自我の特殊性から生まれてくる目標を表現しているというような社会にまで、デモクラシーが発展するときにのみ可能である。

  • 人間は勝ち取ったはずの自由を簡単に手放して自らを権威に従属させようとする。もしくは、他人の期待する姿に近づいて承認を得ようとする。
    前近代的な絆から解放されたことで孤独や不安を感じることになった個人は自らを安定させるために敢えて自由を捨てる。これは意識的には自由だと感じている人にも当てはまる。あなたが自分の意志で決断したと思っている事柄は実は多くの外部(常識や教育、正義、正解)をなぞっているに過ぎない。自由な人など1人も存在しない。
    自由を獲得したと思っている我々は実は歴史的に見て最も不安定な時代を生きていることを自覚しなくてはならない。

  • ◯日本で言えば戦中に記されているが、不思議と現代的な状況の考察でも当てはまる。
    ◯個人的な印象として、現代的な状況においては、学校卒業から就活という一連の流れにおいて、類似的体験を誰もが得ているのではないか。
    ◯当時の社会における大衆の心理を分析しているため、もちろん心理学的ではあるが、政治学の観点からも考察すると面白いのかもしれない。
    ◯とはいえとにかく難解。フロイト心理学とマルクス経済学の知識が必要と思われるが、それにしてもしっかり読まないと理解できない。

  • 「社会心理学の仕事は、社会過程の結果として、情熱や欲求や不安が、どのように変化し発展するかを示すだけでなく、このように特殊な形となった人間のエネルギーが、今度は逆に、どのように生産的な力となって社会過程を作っていくのかも、示さなければならない。」
    「人間性は歴史的進化の所産ではあるが、ある種の固有なメカニズムと法則をもっている。そしてそれを発見するのが心理学の課題である。」

  • 288ページ11〜12行目の自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど誇りと幸福をあたえるものはない、というくだりが、琴線に触れた。
    やはり、自分の頭で考え、そして行動し、個性を押し殺さず生きていくことが、幸福なのだと思った。決して自由=幸福というわけではないのだと思う。

  • 心理学や歴史的な観点から、自由が孤独や無力感を生み出し、自由を破壊するような絆や矯正を求めることを学べる。目標を持って、自発的に考えたり動いたりすることで幸福を得られる

  • 自分のことだな、、と思いながら読んだ。社会的性格は両親という代理人から日本文化としてインストールされた。しかし漠然とした「絶望と不安と懐疑」がどこかにくすぶっている。自発的な行動で社会と関係を持つことが、この呪いを解くカギなんだ、、

  • 今年の課題図書。自由を謳歌し続けたい、と思った。自由を脅かす孤独や無力感に騙されないようにする。また、恐怖により服従に向かうような人が周りにいないようにケアしたい。

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著者プロフィール

ドイツの社会心理学者、精神分析家。1900年、フランクフルト生まれ。ユダヤ教正教派の両親のもとに育ち、ハイデルベルク大学で社会学、心理学、哲学を学ぶ。ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーブに移り、1934年にはアメリカへ移住。1941年に発表した代表作『自由からの逃走』は、いまや社会学の古典として長く読まれ続けている。その後も『愛するということ』(1956年)、『悪について』(1964年)などを次々と刊行する。1980年、80歳の誕生日を目前にスイス・ムラルトの自宅で死去。

「2022年 『今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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