- Amazon.co.jp ・本 (413ページ)
- / ISBN・EAN: 9784488013516
感想・レビュー・書評
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本格的な長編推理小説でした.
ウィリアム修道士は,リチャード・ドーキンスさんなのか?
キリスト教に限らず,宗教の異端論争は難しい.しかし,教祖とされる人物は,このような難しい理屈は言わなかったと思う.
2022.12詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/TW00054870 -
閉ざされた僧院に探偵と助手が到着するなり、1日1人の割合で黙示録の見立て殺人が。迷宮、禁書、C.ドイル、ボルヘス。愛書家のために書かれた、外連味たっぷりの贅沢な『遊書』。天文ファンのよい子のみんな、渾天儀はこんな使い方しないように。
(ところで、探偵が現れると連続殺人が…とは物語の構成上やむを得ぬミステリの常套だが、探偵よもしやお前が犯人か、と疑ってしまうのは私だけだろうか?)
エーコは小説の形を借りて自分の専門分野と本の歴史を一冊の書物=図書館に詰め込みたかったのだろう。ゆえに、冒険推理小説や、行動する主人公の成長物語を期待して読んではいけない。 -
EU企画展2022「Ciao!イタリア」で展示していた図書です。
▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BN0437356X -
3.85/3059
『中世イタリアの修道院で起きた連続殺人事件。事件の秘密は知の宝庫ともいうべき迷宮の図書館にあるらしい。記号論学者エーコがその博学で肉づけした長編歴史ミステリ。全世界で異例の大ベストセラーとなった話題作。
*第1位『もっとすごい!!このミステリーがすごい!』1988-2008年版ベスト・オブ・ベスト海外編
*第1位『このミステリーがすごい!'91』海外編
*第2位「週刊文春」ミステリーベスト10/20世紀海外部門』
(「東京創元社」サイトより)
冒頭
『一九六八年八月十六日、修道院長ヴァレという者のペンによる一巻の書物『J・マビヨン師の版に基づきフランス語に訳出せるメルクのアドソン師の手記』(一八四二年、パリ、ラ・スルス修道院印刷所刊)を私は手に入れた。』
プロローグ
(冒頭)
『初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。これは初めから神とともにあった、そして敬虔な修道僧の務めとは異論のない真理と断言しうる修正不可能な唯一の事件を慎ましやかな頌読によって日々に反覆することであろう。』
原書名:『Il nome della rosa』(英語版:『The Name of the Rose』)
著者 : ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)
訳者:河島英昭
出版社:東京創元社
単行本 : 413ページ(上巻)
メモ:
・100分de名著(80) ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』 2018年9月
・松岡正剛の千夜千冊 0241夜
・20世紀の100冊(Le Monde)「Le Monde's 100 Books of the Century」
・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」
・西洋文学この百冊 -
助けてー。最初の数ページで頭がこんがらかってきた。碩学って何ー(ググれよ)?プロローグ以下はアドソン師の手記でOK?解説や読む前にしっておいた方が良いことがあったら教えてほしい。
と、書いたのだが、アドソンではなくアドソですね。そしてアドソの手記を「わたし」がさらに翻訳して書いたものでした。そして教皇と皇帝の対立があって、さらにその対話をするために集まる修道院で殺人があってウィリアムとアドソが謎を解くという話みたいです。なんとなく読んで、なんとなく満足しました。謎以外で印象的だったのは、ウィリアムがアドソに言った、異端者が発生するメカニズムです。 -
30年ぶりに再読。
犯人はなんとなく覚えているが、かなりの部分を忘れていたので面白く読めた。
14世紀イタリアの修道院を舞台に、ホームズ役の修道士「バスカヴィルのウィリアム」とワトソン役の見習修道士「アドソ」が連続殺人事件に挑むミステリー。
時代背景として教皇のアヴィニョン捕囚や皇帝派×教皇派、フランチェスコ修道会とベネディクト修道会の対立があり、迷宮に暗号解読、薬草や鉱物等についての自然科学と盛り沢山な内容。
ウィリアムとアドソの掛け合いは年齢差もあって経験豊富な師匠と才気煥発な弟子のような楽しさがあり、ウィリアムと登場人物の会話には哲学的な命題が散り嵌められ、自分も賢くなったような気分になれる。錯覚だが。
ウィリアムの思考はイギリス経験主義をベースとし、裏付けのできる事実を重視して、善悪や正邪については慎重に判断する。
他方、神の名のもとに自身の理念を正統とし、異論や疑問を悪魔の振る舞いと断罪する修道士たちの思考には、自分自身の憤怒や偏見、欲望の正当化が見え隠れして、現代のポリコレやサヨク同様、見苦しくおぞましい。
アドソが抱いた疑問「修道士ドルチーノに象徴される、キリスト教会を清貧に立ち返らせる運動がなぜ異端とされるのか。」に対するウィリアムの回答は興味深い。
社会からはじき出された弱者への救済は、実際に行動を起こせばそれは富者への攻撃すなわち体制への反抗であり異端である。体制の中にとどまり、体制の変革を主張するのは善だが、体制の中に止まる時点で、それは今はじき出されている弱者を体制の外にあるものすなわち異端とすることである。
30年前は肝心な部分を読み取れていなかったようだ。 -
感想は下巻。
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とにかく早く続きが読みたい!文字の多さにしてはスラスラ読めてしまった。西洋史が苦手な人には辛いかもしれませんが。