映画を撮りながら考えたこと

著者 :
  • ミシマ社
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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903908762

感想・レビュー・書評

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  • 是枝裕和は映画監督。樹木希林との最後の作品となった「万引き家族」でバルムドールを受賞。
    今でこそすっかり映画の人ですが、もともとはテレビマンユニオンに入社したテレビの人。そんな監督が、どんなことを考えて、テレビに映画に作品を生み出していったか、制作当時と執筆時の思いが綴られている、構想8年、ボリュームのある本です。

    自分が是枝監督の作品を意識して見るようになったのは、テレビドラマの「ゴーイングマイホーム」あたりからで、その後「そして父になる」「海街diary」「海よりもまだ深く」までが、この本で書かれている時代に対応しています。是枝監督の作品は、日常を刻み、括りだすのが上手だなあと思うのですが、テレビでドキュメンタリーを担当していたことも影響したのだろうと推測しています。撮影、制作の中での思い出となるシーンについての回想もありますが、自分が映画でみたものを追体験するという楽しみがありました。出版はミシマ社という独立系の書肆ですが、特色のある本を出版しているなあと思います。

  • 映画監督の是枝裕和氏のこれまで撮ってきた映像作品に対する回顧や映像に対する想い、考えが書かれている。
    過去作品の作成秘話などもあり、これを読んでから監督の作品を観直すと新しい発見がありそう。
    映画だけでなくテレビ番組やテレビ業界にも触れられていたり、国際映画祭に対する話もあり、幅広く「映像」について伺うことができる。
    400ページ超の大作だが、サクサク読める。

  • 映画作家の記したものとしてはおそらく完璧なのではなかろうか。作家性と社会、経済と視点や立場を変えて、映画にまつわる総体として欠けるところがない。
    作家としてのパーソナルな葛藤、技術論、心情、そしてスタッフ、役者はもとより社会や世界にまでつながる人間への意思と行動。さらにはテレビはじめマスコミ論やドキュメンタリーとジャーナリズム、果ては世界の映画祭の現状やビジネスに至るまで。本当に映画と映画製作と、世界を愛しているのだなあ。
    なにより文章が巧い。絵が巧い映画作家と文章が巧いのとがいるように思う。自分としては文章が巧い作家が肌に合う。

  • 【最終レビュー】

    予約著書・図書館貸出。

    『NHK地上波「クローズアップ現代」是枝裕和監督×ケン・ローチ監督対談』

    チェック以降、本格的に続きを読み進め、本日、既読したばかり。

    時代の流れを見据えながら、一作、一作、試行錯誤の連続。

    監督自身の環境が変化していく中においても

    数々の世界の映画祭の生々しい空気感を通して、実りある収穫を得ていく。

    着飾らない作風をベースにしながらも

    クオリティーの高い、観客に対する視点を上げるための

    『意識化・想像力・記憶』を介しての

    『内面に問いかける作風=様々なディテール』

    流石である。

    ただ、今の邦画に対しては、危機感を噛みしめていること。

    このことにおいても、監督自身、本質的な想いを丁寧に綴っている。

    『このままでは、邦画は、崩壊=衰退する』

    以前、監督自身があるインタビューで語っていた。

    [ライフスタイルの多様化にも関わらず『逆行している風潮』]

    その背景に関することも綴られている。

    なかなか、表沙汰には伺いしれない

    『的を得たメッセージの数々…』

    『作品のひとつひとつに対しての率直な想い』

    を掘り起こしながら

    [映画は、突き詰めれば、深い深い世界観に満ちている文化の一つ]

    そういった想いに、ただただ、ヒシヒシと実感するのみであった。

  • とにかく是枝裕和監督は自分の考え、感覚を大切にしている素晴らしい映画監督だとよく分かります
    読み終えると彼の作品がとにかく観たくなります笑

  • 世界的映画監督の書いたエッセイ。

    難しい映画論ではなく、どういったことを考えながら作品を生み出してきたかがわかりやすく、書かれています。

    技術論や裏話もさることながら、いかに映画を愛しているかという思いが伝わってきました。

    これほどの情熱をかけて、作品を作るという行為をしてみたい。

  • まさしくタイトル通りの内容。是枝監督が映画を作るに当たって何を考えて作っているかが、作品ごとに書かれている。反省点などもあって、それを知った上で映画を見るのも面白そう。当然ながら全編映画の話ではあるが、お金の話、映画祭にまつわるビジネスの話なども書かれていて、「クリエイティブな仕事」のヒントになる話が満載。

  • ・「どこにカメラを置くかは、その人間の芝居を現場で見つめてから、初めて決まるものなんじゃないか。君はドキュメンタリーをやっていたからわかるだろう?」

    ・ドキュメンタリーのカメラマンである山崎さんにとっては、現場でおもしろいと感じたものにカメラを向けるのは普通のことなのかもしれませんが、脚本から外れようが監督から望まれなかろうが、撮りたいものは撮るのだ、という姿勢は驚きでした。でも、本来カメラというのはそうあるべきなのではないか、と僕はこのとき感じました。

    ・振り返ると、このころの僕にはドキュメンタリー監督の小川紳介の存在が大きかった。小川は『映画を穫る』という本の中で「ドキュメンタリーというのは被取材者の”自己表現の欲求”というものにカメラを向けていくのだ」ということを書いています。取材される者は自分をこう見せたい、ああ見せたいと演じようとするものであり、その演じようとする姿が美しく、カメラはそれを撮る。つまり、取材者がこう撮りたいという欲求と、被取材者がこう撮られたいという欲求が衝突するところからドキュメンタリーは生まれていくのだ、と言うのです。

    ・編集を始めてつくづく感じましたが、彼らが「これはセスナではないよ」とスタッフに指摘したり、「私、どうやってハンカチ持っていたかしら」と戸惑ったりするシーンは非常におもしろかったです。それらは自己表現の欲求というよりはむしろ、自分の話と再現されていくもののズレや自分の話と記憶のズレに本人が気がついて、何かしらのアクションを起こす瞬間であり、僕が求めていた以上の生成の瞬間と言うか、ドキュメンタリーでした。

    ・「放送」とはいったい何なのだろう。僕は悩みました。報道ではないテレビドキュメンタリーはどういう根拠で相手にカメラを向けられるのだろう。知る権利ではなくカメラを引き受けてもらう被取材者の根拠をどう捉えたらいいのだろう。そこを構築しないと自分がカメラを持つ理由・根拠がないのです。
    知子さんの言われた「個人的な死」と「公共的な死」という言葉は、この理由・根拠について考えるきっかけを与えてくれた言葉です。

    ・もちろんそれに付随するかたちでパーソナルなものが見えてくることもあるし、取材者と被取材者の関係性のなかでパーソナルが中心になるものもつくっています。でもそれもパーソナルなものだけを撮るのではなく、パーソナルなものの向こう側に常にパブリックなものを見つめている。そういう目線があるかないかで、番組で描く対象が開かれるか閉じてしまうかという大きな違いが生まれます。

    ・もうひとつおもしろかったのは、同行してくれた歴史研究家の人が地図を広げて、「ここがお城で、ここに川が流れている。だとするとこのへんかな・・・・・」と予想して行った先にほぼすべて部落があったことです。常に権力との関係で生み出される明快な差別性が地理的にもある、ということをこの先生に教えてもらいました。

    ・<現代>から<過去>へ客を運ぶのが志ん朝で、<過去>をグイと<現代>の岸に引き寄せるのが談志である。


    ・家族だから分かり合える、家族だから何でも話せるというのではなく、例えば「家族だから知られたくない」とか「家族だからわからない」ということのほうが実際の生活では圧倒的に多いと思います。山田太一さんは間違いなくそういうホームドラマを描いていたし、向田邦子さんも男の安息の場所はみんな家の外にあるというホームドラマを描いていた。だから僕も自分なりのリアルな家族の物語を描こうと思いました。一言で言うと、「かけがえないけど、やっかいだ」。

    ・それまで自分が描いてきたのは「不在」や「死者」など、ネガティブな匂いをまとわざるを得ないものでした。この作品のテーマ「空虚」も通常であれば間違いなく同じネガティブな匂いをまとうものですが、業田さんが描かれたほんの20ページの作品からは、他者の息を自分の身体のなかに吹き込まれて満たされていくという、他者との関係の持ち方の豊かな可能性が感じられました。
    つまり、空虚は他者との出会いの場に開かれている。空虚は可能性であるー自分が満ち足りていないことは他者とつながる可能性である、という捉え方をしており、非常にポジティブな作品だと思ったのです。

    ・たとえば土屋さんの『電波少年』は、そうとう用意周到な準備をされた番組です。しかし制作側にそのことを読み込む力がないと、ただ乱暴にキャストを扱えばいいという誤解が生まれる。表面的な過激さだけを真似るのは危険な行為です。その方法論がなぜ選ばれたのか、背景には必ず哲学が存在するということに思い及ばなければならない。

    ・他の挑戦としては、「クーナ」という小人の妖精たちのシーンでCGを使わなかった。なぜなら、CGを信用していないからです。そこにいない人はどう合成してもいるようには見えないし、そこにないものは、ない、というのが現在の僕の感じ方です。嘘はばれる。

    ・テーマやメッセージを語るのは無粋なことだし、好きではないのですが、この作品に関しては、「人のいるところは場所なのか、人なのか、記憶なのか」というテーマを念頭に脚本を書きました。

    ・現代の日本は、地域共同体はもはや壊滅状態だし、企業共同体も終身雇用制の終焉とともに消えたし、家族のつながりも希薄になっている。そこで、共同体や家族に代わる魅力的なもの・場所・価値観(それを「ホーム」と言ってもいいかもしれませんが)を提示できない限り、彼らは国家という幻想に次々と回収されていくでしょう。

    ・さて、僕の映画やドラマに顕著なのが「何を見せないか、何を語らないか」ということに挑戦することです。

    ・パブリックに参加をするというのは、つくり手もスポンサーも何かの利害関係・利潤追求のためではなく、多様で成熟したパブリックの空間をそこに形成するために集うということです。いちばん曖昧で目に見えないけれど豊かな世界=パブリックというものに、みんなで参加し、寄与し、加担する。それが放送の根本にある哲学であり価値だと思うのです。

    ・そうこうしているうちに、やっと「なぜ願わないのか」の理由につながる「世界」という言葉も出てきました。、その死者を一方に見ることで、いまの大人を客観的に批評することができると僕は思っています。
    これは長男が離れて暮らしている父親と電話をしていて、その父親に言われる言葉です。長男はそのときは意味がわからないけれど、その言葉が心のなかで大きくなり、新幹線がすれ違う瞬間に「自分の両親はもう二度と元通りにならないし、世界は自分の思い通りにはならないんだ」ということに気がついて帰ってくる。そして弟へとその言葉は受け継がれ、弟が父親へと返していく、という一連の流れがイメージできました。

    ・ところで僕は第五章で、「なぜ死者を撮りつづけるのか?」という外国人記者の問いに「日本にはご先祖様に顔向けできないという考えがある」と答えた話を書きました。こうした価値観は現在薄れつつありますが、死者とは揺るぎない存在であり、その死者を一方に見ることで、いまの大人を客観的に批評することができると僕は思っています。
    子どもというのも、大人にとってそういう存在です。まだ社会の一員になりきっていない子どもの目を通して、僕たちが暮らすこの社会を批評することができるのです。
    僕のイメージでは、過去、現在、未来を縦軸にすると、死者は縦軸に存在し、時を超えて僕たちを批評してくれる存在。子どもは同じ時間軸にいるものの、水平に遠く離れたところから僕らを批評してくれる存在という感じです。

  • 好きだと思ってた是枝監督、持論をみて少しさめちやった

  • 2017/12/20

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著者プロフィール

著者)是枝裕和 Hirokazu KORE-EDA
映画監督。1962 年東京生まれ。87 年早稲田大学第一文学部卒業後、テレビマンユニオン に参加し、主にドキュメンタリー番組を演出。14 年に独立し、制作者集団「分福」を立ち 上げる。主な監督作品に、『誰も知らない』(04/カンヌ国際映画祭最優秀男優賞)、『そ して父になる』(13/カンヌ国際映画祭審査員賞)、『万引き家族』(18/カンヌ国際映画 祭パルムドール、第 91 回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート)、『真実』(19/ヴェネ チア国際映画祭オープニング作品)。次回作では、主演にソン・ガンホ、カン・ドンウォ ン、ぺ・ドゥナを迎えて韓国映画『ブローカー(仮)』を 21 年撮影予定。

「2020年 『真実 La Vérité シナリオ対訳 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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