江戸は根津宮永町にある裏長屋。人呼んで『鯖猫長屋』。その名の通り、ここでは鯖縞模様の雄の美形三毛猫・サバが一番偉い。
この三毛猫、めっぽう賢くしかも不思議な力を持つ様子。鯖猫長屋に越してくる、訳アリ美女や売れっ子戯作者、謎の浪人や果ては迷い犬が持ち込む不可解な事件を、サバに住まいとご飯を提供する下僕(つまり飼い主)であるれない画書きの拾楽と、同心の掛井を子分のように使っては、毎度上手に解決させていく。

今日も炊きたての白飯におかかが美味い!

表紙イラストのサバが可愛くて可愛くて、思わずジャケ買い。
サバの下僕、拾楽の過去が絡む事件の謎を一冊引っ張っていく根底にしながら、日々起こる小さな事件を解決していく連作短編集になっている。
短い尻尾をぷりぷりっと振りながら、長屋のパトロールに勤しむサバの活躍を楽しむ謎解きシリーズ一冊目。
アン・マキャフリーの『だれも猫には気づかない』、時代劇バージョンといったところ。

19世紀フランス絵画を専門に研究しながら、パリの小さなオークション会社に勤める冴。ある日彼女のもとに、一丁の錆びだらけのリボルバーが持ち込まれる。
リボルバーを持ち込んだ女性・サラは、ゴッホを撃ちぬいたリボルバーだと言う――。
それは、ゴッホが自らを撃ちぬいたものなのか。それとも、誰かがゴッホを撃ちぬいたものなのか。そもそもの持ち主は一体誰なのか。今まで、どこにあったのか。
冴はリボルバーの来歴と真贋を探りはじめるが、それは未だ解明されていないゴッホの死の真相を探る行為でもあった。
ゴッホは自殺したのか。それとも他殺だったのか?
ゴッホがゴーギャンとつかの間共同生活を送り、決定的な決別の瞬間まで多くの傑作を描いていたアルル。そしてゴッホ終焉の地、オーヴェール。
ゴッホのかつての足跡をたどり、今もゴッホを追い続ける人々の証言をたどる冴。やがて明らかになる、驚くべき真相とは――。

多くの研究者が調査と考察を尽くしながらも、未だ謎のままのゴッホの死の真相。歴史の空白を埋めるようにマハ先生が描く、ゴッホとゴーギャン、同じ時代に生きた二人の天才の狂おしいまでの『彼方』への羨望と、その行きつく果てを描ききる美しく烈しい、唯一無二の"作り話”。
「タブロー! この胸の中にはタブローしかないんだ!」
ただの作り話、小説の筈なのに、ゴッホの心から迸る叫びに胸を引き裂かれるのは、何故なんだろう。

1923年9月1日、その日関東一円を襲った関東大震災。それが多くの人々の運命を変えた。
東京を離れ、何者かから身を隠すように名前さえ変えて、弟と共に秩父の山村に暮らす慎太。
だが彼らの元を父が訪れた日、それを追うように謎の男たちが現れ、少年たちから全てを奪っていった。
慎太たちを匿った老退役軍人・国松は彼に一人の女性の名前を告げる。小曾根百合。かつて政府の特殊機関が育てた諜報員。今は玉ノ井の銘酒屋の主人。彼女はきっと助けてくれる――。

陸軍が隠し持っていた、莫大な軍事資金が消えた。その行方を知る鍵を握る慎太。慎太を追う帝国陸軍の精鋭部隊たち。
秩父から熊谷、熊谷から東京都内へ。
震災から復興しつるある東京の街並みを巻き込み、繰り広げられる壮絶な銃撃戦。かつて東アジアの各都市に悪名を轟かせた「リボルバー・リリー」の、正義なき逃避行の行方。

大正時代末期を彩る浪漫と退廃美溢れる、さながら和製『レオン』と言ったところ。銃撃戦にも格闘にも潜伏にも不向きな、しかしこだわりのワンピースとヒールで戦う百合の美しさと強さが、血みどろの殺し合いをエンターテインメントに変える。
そしてヒロインたる百合をはじめ、事件の中核となる慎太少年も彼らを助け、または命を狙う人々も、どいつもこいつも自分が生きるためのエゴ丸出しで参戦してくるあたり、現代の人にはかなり薄れた人間の生々しさが感じられて大好きです。

額に「332」の焼き印を捺され、両手両足に外されることのない鎖の戒めを引きずり、奴隷として生きることに絶望した少女ミミズク。
彼女は魔物のはびこる森を訪れ、美しき夜の王に身を差し出した。
「あたしのこと、食べてくれませんかぁ?」

しかし王はミミズクを喰わず、それどころか他の魔物たちですら、ミミズクに食指を伸ばさない。
逆に王のしもべである"クロ"などはミミズクに果物や魚をどっさり与える始末で――。
お腹が満ちて、王の館に好きに出入りし、そして王が描く美しい絵を見つけて、心が動き――。

他者に命令されて生きてきて、搾取されて、心が死んでしまった少女が、他の存在に対して何かを「してあげたい」という気持ちを抱いた瞬間から、運命が変わっていく。

ねえ、あんなにも。あたしあなたに、食べられたかったのに――。

自ら死を望む。その夜から始まる物語。その文章は、孤独な奴隷少女と孤独な魔物の王が出会う場面は冷え冷えとして凍えるようなのに、ミミズクが人間らしくなっていくにつれ、魔物の王の過去が明らかになるにつれて、だんだんと温もりが備わっていく。
この本には、きっと紅玉さんによって不思議な魔法がかけられているに違いありません。
人間の残酷さと優しさ、魔物の恐ろしさと寂しさがしみじみと心に沁みわたる、終わりのない幸福なファンタジーでした。

“それ”はこの惑星上に恐竜よりも以前から存在し、その誕生と滅亡を見ていた。4億年前に翅を手に入れ、1億5千万年以上もの時間地球の空を支配し、地質時代に5回もあった大量絶滅を生き延びて今も存在している。
その数、ヒトひとりにつき2億匹以上。
数を数え、太陽や月、天の川から方向を知り、教師役を務めることもでき、仲間やヒトの顔さえを識別できる。分泌物は毒物になり薬になり、乾燥した体は稀有な染料となり、また吐く糸は極上の布となる――。
もう、それを知ったら奴らを虫けらなんて呼べやしない。尊敬の念を抱かねば、滅びるべきは我々ヒトの方なのだ。
いや、地球はヒトが滅びてもきっとなにも変わらない、けれど虫が激減でもしたら、ましてや一種でも滅びたら、驚くほど精密にできているその自然環境を大きく狂わせてしまうことだろう。

ノルウェーの昆虫学者アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソンの著作を、『昆虫はすごい』の著者、丸山宗利氏が監修。奇妙で、美しく、風変わりで、驚異的な能力をもつ昆虫たちの生態を、体の機能と仕組みから種としての多様性、植物との関係や現在置かれた状況まで、ひとつのテーマを2ページ程度のコンパクトさで、ユーモア交じりに紹介する。
知れば知るほど面白く興味深い、驚きの昆虫世界!
昆虫が苦手なひとも多いが、それでもきっと面白く読めるはず。私も虫は苦手だけど夢中で読んでしまった。ただし、見知らぬ名前の昆虫が出てきたからって調子に乗ってネットとかで検索するのは、おすすめしません……。

冬の奈良公園、春日大社表参道南側に広がる飛火野の芝生の原を、おかあさんを探して彷徨う一頭の子鹿がいます。名前はこつぶちゃん。
観光客が触れたために人間の匂いがついてしまったのかもしれません。おかあさんはこの子を置いてどこかへ行ってしまい、姿を見せてはくれません。だから、お乳も満足に飲めず痩せっぽちで。毛繕いをしてもらえないから被毛はぼさぼさで。眠るときは枯葉のベッドに蹲って寒さを凌いで……。

「ねえ、おかあさん、
こつぶの こと きらいに なったの?
もう むかえに きてくれないの?」

みんなが心配して、見守って、でも、誰かの庇護なしで生きられない小さな命は、一月の寒さのなかで消えてしまいました。
こつぶちゃんは、なぜ5か月しか生きられなかったのでしょう。その原因を作ったのは、奈良公園を訪れるたくさんの観光客たちの悪気なくも心無い行動の連鎖だったのでしょうか?
これから、いつか、奈良公園を訪れる多くの人に知ってもらいたい、いくつもの約束がある。二度と、ひとりぼっちで死んでいく子鹿がうまれてこないように。


涙なしでは読めません。おかあさんとはぐれた子鹿が感じていたであろう、寂しさと心細さ、ひもじさと寒さに押しつぶされそうです。
どうしてこんなことが起きたのか。こつぶちゃんを、観光客の人たちが撫でてしまったのではないかと推測されています。人間が撫でて、子鹿に人間の匂いがついてしまう。すると鹿のお母さんは人間の匂いのする子を忌避し、育児放棄してしまう。動物によくみられる習性だと思います。
奈良公園で、他の場所でも、動物の子どもに安易に触れてはいけないのです。人間の匂いがする子は、親に見放されてしまいます。
そんな警鐘を、こつぶちゃんを見守った人たちが取り続けた写真と文章でつづった写真絵本。

奈良公園を訪れる人たちのマナーの向上も大切ですが、迎え入れる自治体の観光協会や公園の管理団体側も、人の心に訴えるだけでなく、公園への入場規則や条件を設ける(入園前に一定時間マナー講習を行う)とか、監視員を配置する、人間が入れるのは一定コースのみとする、多言語のルールブックを作成する。など、鹿を守る論理的・現実的な対策を設けなければいけないのではないでしょうか?
「公園の鹿は野生動物で、動物園でふれあえる動物とは違う」と言われても、「じゃあなんで鹿せんべい売ってるの?」って疑問が湧くばかりです。
何をされても物言えぬ鹿たちを、観光資源として消費される存在にはしないでほしいと願っています。

この写真絵本はISBNコード、Cコードを取っていますがバーコードがありません。一般の書店さんやAmazonなどネット書店での購入は難しいと思われます。
版元のCATパブリッシングさんのサイト(https://ecatpub.stores.jp/items/643e304d4c27e8003340fc14)で購入でき、売上の一部は「奈良の鹿愛護会」に寄付され、鹿を守る活動に使われるとのことです。

自分に戦闘機の精霊が憑いているという老女がいる。彼女はその精霊が空襲の被害が出る場所を教えてくれると語る。ペストの予防接種を頑なに拒む部落の長老がいる。彼は日本軍がペスト予防として捕えたネズミを逃し、集落の者たちが予防接種を受けることを頑なに拒む。
第二次世界大戦下のビルマ北部。山の部落から集めた労務者たちをまとめる西隈軍曹は、ビルマの人々を疑いつつ信じ、信じる努力をしつつ疑いながらも己の軍務をこなす日々を送る。案内役の少年モンネイは達者な日本語を話すが、9歳にしてその口調は新品少尉そのもので周囲の笑みを誘ってやまない。しかしモンネイに日本語を教えた少尉・中津島が彼に与えた思想が明らかになり――。

時々英国軍による空襲がある以外は、いたってのどかな山の部落が舞台。西隈が子どもたちに日本式の凧の作り方を教える光景すら見られる日々。しかし短編形式で物語が進むごとに鮮明さを帯び像を結ぶのは日本軍の敗色と、少年モンネイに日本語を教えて他の戦地へと赴いて行った少尉・中津島がモンネイに託した願い、ビルマに見た夢だ。
これまで古処さんの著作は何作か読んでいるが、どれもみな「もうここにいない」「決して作中に登場してこない」人物の、もう誰にもわからず、決して明らかにされず、確かめることもできない思いや願い、人物像までが、未だ戦場に身を置く兵士たちの行動や彼らの気づきによってくっきりと浮かび上がってくるような構成だ。
淡々とした筆致で綴られるそれを淡々と読んでいくと、ふいにはっきりとした顔貌と意思を持って、ビルマの原風景の中に佇む帝国陸軍軍人の姿を見出す瞬間がある。
この作品にも、そんないつもの古処マジックが施されている。遠い異郷の地まで来て苦しむ日本軍兵士たちが感じたビルマという国への羨望。託す夢。とてもよく似ていて、けれど親和するようでできなかった二つの民族の心の隔たりを描きだす短編集。

おそらく、日本の獣害史上で最大の惨劇といえば大正4年の苫前三毛別事件だと思う。吉村昭著の『羆嵐』、木村盛武著『慟哭の谷』によってそのストーリーや実際の内容はよく知られている。
そしてこれらの著作のなかでは触れられていない事実がある。この事件には確かな予兆があった。苫前付近では、事件以前から恐るべき人喰い熊事件が続発していた記録が確かに残っている――。

明治21年から昭和20年までのおよそ70年間の地元紙に目を通し、約2500件にのぼるヒグマの関連記事を拾い上げデータベース化、事件のあった場所をマッピング。市町村誌や郷土史、公文書、林業専門誌の記事なども参考にしながら人喰い熊の事件と北海道開拓進展の推移の一致、広がっていく鉄道網の沿線と共に広がる被害を可視化。苫前三毛別事件をはじめとした上川ヒグマ大量出没事件、丘珠事件、剣淵村人喰い熊事件、美瑛村連続人喰い熊事件、北見連続人喰い熊事件、伊皿山事件。今もメディアで頻繁に取り上げられるような事件から、歴史に埋もれた事件まで開拓時代に発生したヒグマによる殺傷事件を網羅し、開拓や自然災害、炭鉱の盛衰がヒグマに及ぼした影響と、生活圏を奪われたヒグマがどのように「人喰い熊化」していくかを丹念に考察した読みごたえのある一冊。

報道する側、記録する側、それを見る側もそれぞれの事件を当然別個のものとして扱ってきていたという指摘に思わず唸る。著者が行ったように事件をデータベース化して時間軸、地図上に配置して面として各事件の「流れ」を視えるようにすると、いくつかの事件が一個体によるものとも推測でき、人間を獲物とする習性が母熊から子熊へと受け継がれていたかもしれない可能性も浮かび上がってくるというから恐ろしい。
けれど忘れてならないのは、人食い熊となるヒグマの確率は生息数から換算して1パーセントにも満たないという事実。
タイトル『神々の復讐』の「神」はヒグマそのものを指しているのか。アイヌの文化では、ヒグマは山の神と呼ばれている。神々の棲み処を奪ってしまったから、人間は復讐を受けているのだろうか。人を殺した山の神は「悪い神」に堕ちてしまうという。それが本当なら不憫で仕方がない。

デトロイトで生まれ育ち、40年ものあいだ自動車工場で溶接工として働き、長引く不景気の影響を受けて今は無職となったフレッド・ウィル。亡くなった妻・ジェシカとたびたび訪れていたDIA(デトロイト美術館)にひとり向かえば、今日も「彼女」がフレッドの到来を待っている。
ポール・セザンヌ作《マダム・セザンヌ(画家の夫人)》。
美人ではなく、微笑みを浮かべるわけでもなく、けれど何度向き合っても飽きることがない。不思議な魅力を持つ肖像画に、フレッドは妻の面影を重ねていた。

“アートはあたしの友だち。だから、DIA(デトロイト美術館)は、あたしの「友だちの家」なの”

ジェシカが愛した友だちをフレッドもまた愛していた。しかしある日、デトロイト市が破綻。市営であったDIAのコレクションは売却の危機にさらされる。
「友だちの家」を守るために、フレッドが差し出したささやかな、そして精一杯の気持ちとは――?

2013年7月、米国自治体として過去最大の負債を抱え財政破綻したデトロイト市。財政再建のために市立美術館であったDIAはコレクションの売却を迫られる。デトロイト市で人生のほとんどを過ごしてきた老人フレッド・ウィル、とDIAのキュレーター、ジェフリー・マクノイドの出会いと、デトロイト美術館を支援し数多くの作品を寄贈した近代美術コレクターの一人、ロバート・タナヒルの最晩年とともに描かれる、デトロイト市民に育まれ守りぬかれた彼らの奇跡の美術館の物語。
アートは友だち。DIA(デトロイト美術館)は、あたしの「友だちの家」。
ピカソやゴッホ、名だたる名画を集めた美術館に、私もそんな風に美術館に親しみを持てたなら。一葉のセザンヌ夫人の肖像画に、じっと見入ってしまう不思議を、私も感じられたなら、その時、いったい何を思うだろう。

人体で、人生の記憶が刻まれる場所は脳だけではない。成人にして200以上の骨で構成された骨格ひとつひとつにも物語は刻まれていく。母親の子宮のなかで生成が始まり、体の土台となり、二足歩行を可能にし、体型を保ちながら、成長し死ぬ瞬間までの一生を通して変化を続けるそれは、死後、皮膚や脂肪・筋肉・臓器などの軟組織が土に帰った後も後々まで残り続け、その持ち主の生きている間に起こったこと、死ぬ瞬間に起こったこと、そしてその後のことを、耳を傾ける者に語り伝える。
驚くべき骨の構造の世界を、スコットランド生まれの法人類学者スー・ブラック氏が第一部の「頭部」頭蓋骨からはじまり、背骨などの第二部「体」、骨盤や手足などの第三部「四肢」と人体を分けて章立てし、ブラック氏が携わった数々の実際におきた事件や捜査をもとに、解剖学を学んだ法人類学者がどうやって遺体の身元特定、死の様態と死因を特定していくのか紹介する。

完全な白骨のほか、腐乱、バラバラ、焼死体etc.現場に残された被害者の“骨”から証拠を見つけ、事件を解決に導いていく女性法人類学者を主人公にしたアメリカの犯罪捜査ドラマ「BONES―骨は語る―」が好きな人には特にお薦め。
新しい、または古い、指先ほどの大きさすらない骨片にさえ驚くべき情報量が詰まっているという事実、時にその事実は小説をも超える顛末を呼び起こす。
専門的な分野を扱っているが、文章が平易で読みやすいので敬遠せずに手に取って見てほしい。科学ノンフィクションとして秀逸な作品であると同時に、読み物として純粋に面白い一冊。

シベリアの荒野をろんろんと高鳴る風の響きに、千キロ彼方に広がる生まれ故郷の日本海の海鳴りを聞く。

生きて必ず日本に帰ること、家族と再会すること、それまでの間うつくしい日本語を忘れぬこと。終戦直後からソ連軍に捕われ、極寒と飢餓と重労働に苦しむシベリア抑留が続くなかで、同じ収容所(ラーゲリ)に捕らわれている人々に希望を与え続けていた山本幡男という人がいた。しかし彼は病に倒れ、生きて日本に帰ることは叶わない。
ところが彼が生前、家族にあてて認めた数通の遺書は、敗戦から12年目にして遺族のもとに確かに届けられた。シベリアで俘虜となった元兵士や、民間人たちがどんな仕打ちを受けていたか、真実の漏洩を恐れる厳しく執拗なソ連の監視網を搔い潜る驚くべき方法で、かつて山本によって心を救われた収容所の仲間たちによって――。

第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソ連によってシベリアなどへ連行された。その数およそ60万人。死者は約6万人とされているが、アメリカの研究者によるとさらに多く、今もその実数は不明。長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により、多数の人的被害を生じたこの一連の悲劇をシベリア抑留という。
いくら慕っていたとはいえ、自分自身が過労と飢餓と酷寒に苛まれるなかで、その遺書の長文を一字一句たがえぬように暗記して、それをいつか日本に帰ったあかつきには必ず彼の妻子のもとに会いに行って伝えて見せる。そこまで仲間たちに行動せしめた彼――山本幡男という人は、一体どんな人物だったのか。本書はその知性と人間性を、人々の記憶をつなげて再現していく。
実際に起き、生き残って日本に帰ってきた人々によってたくさんの証言が残り、おそらく、それ以上に口を閉ざさざるを得なかった人類の悲劇を、体験者や遺族への丹念な取材をもとに明らかにしていったノンフィクション。

クリスマスに帰郷する”わたし”。その身の上に今まさに起こっていること……実家で実母とその姉妹が大ゲンカの挙句、手首を切って自殺未遂。彫刻家の夫は妊娠した”わたし”を捨てて渡欧して帰ってこない。なんでも勝手に決めてしまう従姉妹のベラ・リンが手配した闇医者の元へ国境を越えて行って、中絶手術を受けようとしている。
「虎に嚙まれて」で始まる19篇の物語が納められた『すべての月、すべての年』。先に出版された『掃除婦のための手引書』と合わせると全部で43篇。もともとはすべて一冊の本に収録されていて、邦訳して出版する際に2冊に分けることになったようだ。
2分冊とはいえ、描かれている43もの物語はすべからくルシア・ベルリンの人生を追想させる。濃密で暴力的で、愛があってとても孤独な、そしていつも薬か酒で酩酊している、その間に不意に思い出す人生の断片のような短い物語。凍るように冷静で突き放したような筆致なのに、ひとつ読むたびに、ひとつ心に生傷を負うような、こんな作風の作家はほかにいないと思う。

大事なことなんてこの世に一つもありはしない、本当に意味のある大事なことは。

最低で最悪の人生の底から、ハッとするような真実を見出して、それを自分の身を守る大事なナイフのように握りしめて離さない。そしてその鋭い言葉を、読む人に投げつけてくる。けれどそれは怒りでも絶望でも諦めでもない。

それでもときどきほんの一瞬、こんなふうに天の恵みがおとずれて、やっぱり人生にはすごく意味があるんだと思わされる。

ルシアはきっと知っていた。本当に意味のある大事なことはこの世には存在しない。けれど心揺さぶるかけがえのない一瞬があるから、生きていけるのだと。最低で最高の人生を。

宮崎県の港町で叔母とふたりで暮らす高校生のすずめ。ある朝、登校途中で出会った青年を追って入り込んだ廃墟の中にそれはあった。かつて明るい未来を信じて疑わなかった多くの人びとで賑わい、今は廃墟となってしまった寂しい場所に忽然と現れる『扉』。その向こうから、厄災がやって来る。
扉を閉めて。
愛媛、神戸、東京そしてさらに北へ。短くも烈しい、まるで往年の大規模被災地への巡礼。すずめを駆り立てるのは、扉を閉じる「閉じ師」を名乗る不思議な青年・草太への想いと、何度も夢に見る寂しく懐かしく、決して行くことのできない場所への郷愁だった。

あなたがいない世界は、私には怖くてたまらない。だから起きて。目を覚まして。帰ってきて――。

『君の名は』『天気の子』そして今作と、新海監督の描きたいテーマは一貫しているよう。もう叶わない願いを想う身も世もないやるせなさ。それでも一番大事なものを掴み取りにいく一途な情熱の愛おしさ。そこに作品最初期の『秒速~』などにあったような、古傷の瘡蓋をそっと剥がしてくるような感傷も復活していて? 11月の劇場公開が楽しみな作品。

カバーの写真の女性。これは著者自身。吸いかけの煙草を掲げたまま、彼女の視線は遠くを見つめる。いくつもの言葉が彼女の口や胸の内からあふれ出したあの瞬間を。何度目かの結婚生活の頃、ごく幼い子供の季節、息子たちが独立した後のひとりの朝から、見送った母や妹との別れを予感した夜へ。また子供に佇んだ庭の風景へと。そのうつろな眼差しはまるで、とりとめない記憶の海を漂うようだ。

――他人の苦しみがよくわかるなどという人間はみんな阿保だからだ。
原則、友だちの家では働かないこと。遅かれ早かれ、知りすぎたせいで憎まれる。でなければいろいろ知りすぎて、こっちが向こうを嫌になる。
待って。これにはわけがあるんです。今までの人生で、そういいたくなる場面は何度となくあった。
わたしには話す相手がいなかった。ごめんなさいという相手が。
死には手引書がない。どうすればいいのか、何が起こるのか、誰も教えてくれない――

彼女の物語を読んでいる間は、心がざわざわと波打って仕方なかった。どうして私は、あんなに彼女の言葉に動揺していたのだろう。こんなふうに、彼女のように、言いたかった場面が、今までの人生のなかで何度もあったから?
まるで誰かに自分の人生の、見られたくない場面を見られているみたいで落ち着かない。
この作家さんが、アメリカ本国においても発見されたのはごく最近のことだという。それも死後10年を経て。
この『掃除婦のための手引書』はもっとたくさんの読者に届いてほしい。そうしてもっとたくさんのレビューを書かれるようになってほしい。他の読者のひとたちは、この物語に触れた際の心の動揺をどう表現し、どう分析するだろう。
かつて、波乱万丈の人生を送ったひとりの女性が生み出し残した数々の言葉は、その死後もなお、彼女の物語に触れる人の心を揺さぶり、そこに新たな引っかき傷を作り続けている。その生々しさに、ひとりでも多くの読者に気付いてほしいし揺さぶられてみてほしい。

72歳となった老狙撃手ボブ・リー・スワガーが隠棲するアイダホの牧場に一人の女性が訪れる。ミセス・マクダウェル。彼女の息子は海兵連隊兵士として2003年にバグダッドへ行き、棺に納められて帰ってきた。以来、息子を狙撃した敵スナイパーを探し、行方を追い続けている。
私財をなげうち借金を重ね、バグダッドに七度赴き、四度レイプされ、三度暴力を振るわれ重傷を負わされた。アラビア語を習得しイスラム教徒になり、イラク各地の路地裏で自ら聞き込みを行い、情報を集め、狙撃について学び、そしてたどり着く。
その男こそは「ジューバ・ザ・スナイパー」。凄腕のシリア人テロリスト。
息子の仇を追うミセス・マクダウェルの壮絶な執念に突き動かされ、スワガーは「ジューバ・ザ・スナイパー」の情報を得るためにイスラエルへと飛ぶ。

ミセス・マクダウェルは息子を殺されたことで。イスラエルの人々は、スクールバスに乗っていた学童たちを皆殺しにされた事件のことで、そして海兵隊はバグダッドでのことで。みな、「ジューバ・ザ・スナイパー」の命を欲しがっている――。

何者かを狙撃するために「ジューバ・ザ・スナイパー」はアメリカに入国した。その痕跡を追い、舞台はシリア、イスラエル、アメリカはミシガン、オハイオ、カンザスへと目まぐるしくかわる。いくつもの機関に追われる、イスラム最強の天才狙撃手の標的とはいったい誰なのか?
熟練の狙撃手ボブ・リー・スワガーの分析力。ジュ―バの狙撃に対する忍耐力。そして何より、息子を喪った母親の、敵を探し出す執念に圧倒される。
刻々と迫る「狩りのとき」へと向かって、読み進める手が止まらないハードボイルド追跡劇。

和牛は結局、最後は食用になる。
ハツカネズミは生まれてから死ぬまでを実験室の中で過ごす。
シロアリの女王は最後は部下に見捨てられて死ぬ。
カメラのフラッシュがストレスになり、自殺するメガネザル。
ラボードカメレオンは効率よく子孫を残すためにあえて超短命。

リミットが短くて。不運のために。繊細すぎて。不器用なあまりに――。
なぜ、いきものは死んでしまうんだろう?
日常のなかではほとんど目にすることのない、いきものたちの「死」。
そもそもそれぞれの寿命はどのくらいなのか。そしてほとんどはその寿命をまっとうすることなく死んでいくという驚きの事実。
自らの死を恐れる感覚を持たず、ただ本能に従い、確実に次の世代へと命をつないで生きて死んでいくいきものたちのもつ美しさ。

少しかわいそうで、たくましく生きる、そんないきものたちの死に方を紹介しながら、その命の終わりかたの意味、寿命の秘密と生存戦略を読み解く一冊。

秋がきて、いろいろな虫が庭でなくようになった。おかあさんねこはおよしなさいって言うけれど、どうしても秋の虫を食べてみたい白吉。だってあんないい声をしている虫は、食べたらきっとうまいにちがいない。
夜も更けて、みんな寝る時間になっても、白吉だけは虫を捕まえたいと庭で頑張ってまちぶせていました。でも待ちくたびれて眠くなって、大きなあくびをしてしまったとき、白吉の口の中に何かが飛び込んできて、思わずごっくん!
それからです。眠ろうとすると、白吉のおなかのなかで「スーイッチョ!」 なにかの拍子に「スーイッチョ!」
おなかの中はまっくらで、虫にとってはいつも夜。スイッチョのうるさい鳴き声のせいで不眠症になって、兄弟たちからも仲間はずれにされて、ふらふらでさびしくて、白吉は困り果ててしまいます。おかあさんねこはお医者さんに連れて行ってくれたけど……。

夏に生まれた子猫たちが初めて過ごす短い秋を描く、大佛次郎氏自ら「私の一大傑作」と呼んだ名作の新装刊行。朝倉摂氏の挿画が、鮮やかなのに秋の夜のようにしっとりとしていて、子猫の無邪気な好奇心や戸惑いを美しく象ります。

古今東西の、起業して成り上がっていく人々のいわゆる立身伝みたいな話が好きだ。出自や時代や派閥や予算など、様々な問題を乗り越えて何者かになり、何かを作り上げていく過程は、父親のいない家庭に生まれ、経済的困窮と古い価値観をもつ親戚たちの無理解から進学できず、バブル崩壊後の不況のなかでの社会人人生をほとんど非正規で働いてきた私にとって、心折れずに生きていくための幾ばくかのお手本になるエピソードが満載だったからだ。
同時に、成り上がった一族が零落したり、大企業が倒産したり、または大事故や事件がおきた、その過程を追うルポルタージュも大好きだ。
自分とは全く関係のない企業や家庭や世界の話でも、ニュースを聞いたら、どうして潰れてしまったのだろう? どうしてこんな事故が起きてしまったのだろう? と、気になってしまう。資金的に体力のある大企業が、信頼厚い老舗店が、最新鋭のシステムを搭載した機器や、高度に訓練された人員が、なぜ悪いニュースになるような結末を迎える事態が起こるのか。興味は尽きない。
自分が勤めていた会社や取引先の倒産をやたらとみてきたせいもある。なぜ、どうしてという疑問に、主に経済面で答えてくれるのが、この『あの会社はこうして潰れた』だ。帝国データバンクの、倒産を扱う情報部で25年間企業取材を行ってきた藤森徹氏が、日本経済新聞電子版に3年間連載していたコラムをまとめた新書である。

私自身は潰れる会社や店舗を結構数見てきたと思っているが、世の中では実は2010年以降、7年連続で企業の倒産件数が減少している「無倒産時代」が続いているという。とはいえ、2016年には8164件の企業が倒産している。
原因は様々。時代や嗜好の変化に対応できずに売上低迷。経営幹部や社員による不正。業績が好調で、だからこそ急速に事業を拡大した末の失敗。本業とかけ離れた業種に手を出すことの無謀。過剰投資で資金繰りが立ち行かなくなることも。そして取引先や同業者や銀行や顧客から信用を失った企業は倒産する。

他人の不幸は蜜の味か。ちがう。明日は我が身だ。200年続く老舗企業でも、誰もが知っている有名企業でも、倒産は突然やってくる。失敗体験はできるだけ多くのパターンを知っておくほうがいい。自分の人生経験だけでは失敗が足りない。だからこういう本をたくさん読む。失敗体験を参考にすれば、リスクを回避することができたかもしれないと。経営活動の分野において、リスク回避のためのケーススタディとして大いに役に立つ一冊。

ハンブルク港を見渡すバルコニーでのんびりと日光浴を楽しむ黒猫ゾルバのもとに、オイルにまみれた瀕死のカモメが墜落する。彼女は最後の力を振り絞り、ゾルバに3つの約束とひとつの卵を残して息絶えてしまう。卵は食べない。ひなが生まれるまで、その卵の面倒を見る。そのひなに、飛ぶことを教える。その日からゾルバの、前人(猫)未踏のカモメの育児~卵から巣立ちまで~の奮闘の日々が始まる。
港の猫の長老〈大佐〉、その〈秘書〉、百科事典をこよなく愛する〈博士〉、何度も人間と航海の旅に出たことのある〈向かい風〉。猫仲間の助けをかり、時にネズミとさえ協力しながら守り育てたひな・フォルトゥナータは、銀色に輝く絹のような翼を持つ、すらりと優美なカモメに成長する。
しかしフォルトゥナータは飛ぶ必要性をまったく感じていなかった。

「でもわたしは、飛びたくなんかないの。カモメにだって、なりたくない。わたしは猫がいいの。そうして猫は、空なんか飛ばない」

野良猫たちにさんざん揶揄われても毅然として対峙し(片方の前足をゆっくり伸ばし、マッチ棒のように長い爪を1本出して「同じモデルがあと9本ある。試したいか?」)、卵を守り、卵から孵ったひなを守り、愚直に母カモメとの約束を果たそうとするゾルバ。
そしてゾルバを「港の猫の誇りにかけて」支え続ける仲間たち。
彼らはとうとう人間さえ巻き込んで、フォルトゥナータに飛ぶことを、一番大切なことを教えるための、霧雨の静かな夜を迎えようとしていた――。


一言でいうと、雄猫が突然未婚のシングルファーザーになってカモメの雛(女の子)を育てるひと夏の物語。
展開も訳文もテンポよくサクサク読み進められて、始まりから終わりまでは本当にあっという間。でもその短い物語のなかにはユーモアも、スリルも、仲間たちとの友情も、種をこえた父娘の絆もありと、要素が盛りだくさん。劇団四季でミュージカル化されたことも納得の、幅広い年代に愛される名作だと思う。
ゾルバがもう、いい男でいい猫でいい母親でいい父親で、ラストシーンなんか抱きしめたくなってしまうから、読んでみてほしい。

"戦争はもう何千とあった、小さなもの、大きなもの、有名無名のもの。それについて書いたものはさらに多い。しかし、書いていたのは男たちだ。私たちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。
女たちが話すことは別のことだった。「女たちの」戦争にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていた。
その戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを。"

"人間は戦争の大きさを越えている。"

戦争はなんでも真っ黒よ。血だけが別の色……血だけが赤いの……

一九四一年の乙女たち……まず、訊いてみたいのは、ああいう娘たちはどこから現れたのかということ。ああいう行動をした乙女たちがなぜあんなにたくさんいたのか? どうして男たちとともに銃をとろうと決断をしたのか? 銃を撃ち、地雷をしかけ、爆破し、爆撃する……つまり殺すという選択を……

私、父、兄弟とも森のパルチザンの仲間になったんです。だれかに誘われたわけではなく、自分からそうしたんです。母と一緒に残ったのは 雌牛だけ……

戦争の本って嫌い……。英雄たちが出てくる本……。私たちはみな病人だった。咳をしていて、寝不足で、汚れきっていて、みずぼらしい身なり。たいていは飢えていて……。それでも勝利者なの!

想像できます? 身重の女が地雷を運ぶ……赤ん坊がもうできていたんですよ……。愛していた、生きていたかった。もちろん怖がっていました。それでも運んでいた……。スターリンのために行ったのではありません。私たちの子供たちのためです。子供たちの未来のためなんです。跪いて生きていたくなかったんです。

退却のとき、恐ろしかった。もう泥だらけであちこちで煙があがっていた。それなのになぜかハイヒールが買いたくなった。昨日のことのようにはっきり憶えているわ。

「幸せって何か」と訊かれるんですか? 私はこう答えるの。殺された人ばっかりが横たわっている中に生きている人が見つかること……

死というものがどんなにありふれたことで、しかも分かりにくいものだということをまだ知らなかった。死にお願いしたり、言いきかせても無駄。

"ここでも戦争は終わっていない、決して終わらないのだ。"

"この人たちがなぜやはり話すことにしたのか、今はわかる……"

あの人たちが死ぬときの顔……何という目で見ていたことか……あの目……

私は思いました、おかあさんは私のことを結婚には若すぎるけど、戦争には若すぎないって思ったのね、と。私の大好きなおかあさん

負傷者が叫んでいるのはものすごく恐ろしいけれど、撃たれた馬の悲鳴のいななきはもっと恐ろしいんです。馬はまったく罪がないのに。

憶えています……あの感覚を。雪の中では血の匂いがことさら強かったのを、はっきり憶えています

何でも燃えるんだ、とそのとき分かったの。血液だって燃えるって

晩秋に渡り鳥が飛んで来るでしょ? その列がとても長く伸びているの。味方の大砲もドイツ軍も撃っている。でも、小鳥たちは飛んで来る。どうやって知らせたらいいの?『こちらに来たら危ないよ。ここは撃ち合っているんだから』って。どうすれば?! 小鳥たちは落ちてくる、地面に落ちてくる……

今、すべてを思い返して、あれは自分じゃなかった、だれか他の女の子だったんだという気がします

"彼女たちと話していると、小さなことが大きなことに勝っていて、時にそれは歴史全体より勝ることもあった。"

ただひとつだけ恐れていたのは死んだあと醜い姿をさらすこと。女としての恐怖だわ。砲弾で肉の断片にされたくなかったんです。そういうのを自分の目で見ていたし、その肉片を集めもしたから

今でも思い出すと泣きたくなります。おしろいの匂い、...

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ミャンマーの国境地帯で軍事機密を持ち出した日本人が拘束された。日本初の国産機甲兵装のサンプルを隠匿したその人物を確保せよ。しかしミャンマー政府が指定した引き渡し場所は紛争地帯。日本政府は警察官の犠牲を出したくない。そして姿、ユーリ、ライザ、3人の突入班龍機兵搭乗員たちに白羽の矢が立つ。すべてが罠。わかっていてなお、進むしかない汚泥にまみれた道がある。かつて史上最悪の作戦『インパール作戦』の失敗によって日本兵の死骸が累々と倒れ伏した白骨街道で、今再び多くの兵士が命を落とす激戦が繰り広げられる。

「この国はね、もう真っ当な国ではないんだよ」
「だが、それでも――我々はできる限りのことをする」

菩薩の微笑みを浮かべる裏に修羅の憤怒を隠し持つ。慈悲深く人を救いあげる、その同じ手で人を地獄に突き落とす。人間の複雑な本性を、ミャンマーと京都、深く仏教の影響を受けるふたつの地域を舞台に描き出す第6弾。

6作目にして第四の男シェラーが登場。”敵”の妖気もますます濃くなり、一体特捜部はどうなってしまうのか……。
本書刊行時に催されたトークショーで著者の月村さんは「政府や警察の現実は私の書いている小説なんかよりももっと下品であってそこが薄い」と語っていたけれど、下品で底が薄い警察機構の宿業を、このさきどう描いていくのか、続きが早く読みたくてたまらないシリーズです。

ヨーロッパの覇者になれると愚かにも信じて戦場を邁進し、学生志願兵たちが突撃の果てに全滅したランゲマルクの戦いですら愚かしい。ここは「おバカの帝国」なのだ――。
1939年ナチス政権下のドイツ、ハンブルク。軍需会社の経営者を父親に持つ御曹司、15歳のエディ。独裁政権にも優生思想にも、ユーゲントの制服にも冷めた眼差しを向ける彼が熱狂するのはスウィング(ジャズ)。
天才的なピアノの才能を持つ、1/8ユダヤ人のマックス。ユーゲントのスパイ、クー。卓越したクラリネット奏者で恋人のアディ。ナチスに尻を捲り、最高の仲間たちと最高にいい格好をして道楽に耽るやりたい放題の青春。
戦争が始まってスウィングが退廃音楽から敵性音楽になり、禁じられてからは、防空壕代わりの地下室を占拠して裏庭でパーティ三昧。19歳になっても戦争に行く気はないし、兵役を逃れる手段ならいくらでもある。レコードがなくなれば仲間たちとラジオから録音し、量産して闇で売りさばき利益を上げる。一部の者はUボート(地下に潜る)し、一部の者は表向き完璧なドイツ市民として振る舞い……そんな終わらない夏のような享楽に満ちた日々にも、逃れようのない戦火が迫る。

――誰にでも永遠に手の届きそうな瞬間はある。――不思議なことに、誰もその瞬間に留まろうとはしないが。

しかし弾圧が迫り、刑務所にぶち込まれ、街が焦土と化しても、なにものも彼らから音楽を奪うことはできないのだ。彼らは叫ぶ。
「スウィングしねえんじゃ意味がねえんだよおおお」


1993年制作の『スウィング・キッズ』という映画がある。本書と同じようにナチス政権下で敵性音楽と見做され禁じられたスウィング・ジャズを愛したハンブルクの少年たちが主人公で、「引き裂かれた青春」という副題のとおり、思想や戦火の中で少年たちの友情が無残に引き裂かれていく有様を痛切に描いた作品だった。
だからこの本を読もうとした時は、ちょっと覚悟した。辛いラストシーンが待っているのではないかと。結論を言ってしまうとそんな心配はなかった。佐藤作品のスウィング・ボーイズ&ガールズたちは実に太々しくずる賢く、要領よく外面もよく、スウィングを捨てることも奪われることもなく生き延びていく。決して無傷ではいられず、時に大きな代償を払い、時に喪失もあるけれど。それでも誰も、彼らから音楽を奪うことはできなかった。
巻末の『跛行の帝国』にあるとおり、彼らは実在した。エディたちのように生き延びた子たちもいれば、自ら命を絶ったり、収容所での過酷な生活や前線のただ中で死んでいった子たちもいただろう。そしてスウィングを捨てて大人になっていった子たちも。

持ち物をすべて取りあげられ、身分を証明するものを一切失い、番号だけの存在になる。だがそれで、名前と職業がなくなるわけもない。
ヴィクトール・E・フランクル。心理学者であった彼が、「番号119104」というごく普通の被収容者となって、強制収容所で過ごした経験を余すところなくひも解いてゆく。それは人類史上最悪の悲劇という地獄絵図でなく、鉄条網の内にあったおびただしい小さな苦しみの記述。

強制収容所で自分やほかの人々を観察して得たおびただしい資料、そこでの体験のすべてを整理し、分類された被収容者の心の反応。
施設に収容される段階、まさに収容生活そのものの段階、そして収容所からの出所ないし解放の段階。
人間は正常であるほど異常な状況に置かれると異常な反応を示す。それ自体は正常な反応……やがて感情は消滅する。内面がじわじわと死んでいく。心が麻痺し、やがて内面に逃避していく。離された家族の気配を間近に感じ、世界の美しさに気付く。ついに解放の時を迎え、数えきれないほど夢の中で見つめていた懐かしい家に帰っても、ドアを開けてくれるはずの人はもういないことを知る――。

専門家ならではの、淡々とした冷静な観察眼と分析力を下支えに、論理的な言葉で綴られる体験記。しかし、行間のそこかしこに、抑えきれない感情が迸る瞬間がある。
――とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずにいう事ができる。いい人は帰ってこなかった、と。

そこには、おそらくそれまではどの時代の人間も知らなかった人間の姿がある。人間の偉大さと凄惨さ。そして、夜陰に乗じ霧に紛れ、人びとがいずこともなく連れ去られて消えていった時代の恐ろしさが。
原著の初版は1947年、日本語の初版は1956年、1977年に改訂版が出版され、それをもとにこの新版が翻訳された。本書の中に記された悲しみは、終わってしまった遠い過去の物語ではない。まぎれもなく現在進行形の現実でもある。

5月の南ロシア。愛人に裏切られ、パリでの生活に行き詰まった当主ラネーフスカヤは、実娘アーニャに連れられて白い花咲き誇る「桜の園」へと5年ぶりに帰還する。養女や老従僕たちは女主人との再会を喜ぶが、その屋敷はまもなく競売にかけられようとしていた……。
身分違いの結婚をした夫と、幼い息子を立て続けに亡くした悲しみに耐えきれず、従僕を従え大金を懐に愛人と出奔し、高級リゾート地に別荘を持って遊興にふけっていたラネーフスカヤ。その資金の出どころは「桜の園」にほかならないが、あとに残った兄ガーエフにも、事務員エピホードフにも、ラネーフスカヤにかわり家政を守る養女ワーリャにもまるで経営能力がなく、一千ヘクタールあまりある大領地から満足に収益を上げることができない。
かつての「桜の園」の農奴の末裔で、今はひとかどの実業家であるロパーヒンが領地を分譲して別荘を建てることで収益を得るよう提案をしても、彼らは「低級」と拒絶するのだ。
全ての登場人物たちが互いのために良かれと願い、しかしなに一つ成就せぬまま、とうとう舞踏会の夜に「桜の園」はロパーヒンによって競り落とされてしまう。

「祖父さんや親父が奴隷だった、台所にさえ入れてもらえなかった、その領地をわたしが買った。(中略)皆さん、揃って見に来て下さいよ――このエルモライ・ロパーヒンが斧を取って桜の園を打ちのめすところ、樹々が大地にひれ伏すさまをね!」

家計は火の車なのに、華やかな生活をやめられない没落貴族がおり、自らの労働によって財産を築くかつての農奴の子供や孫がいる。
歳月は流れ季節は移ろい、桜は花を咲かせては散ってゆき、やがてその風景を愛した人たちは惑いながら旅立って行き、その木を切り倒す人々がやってくる。
農奴解放令から約40年を経た19世紀末、過渡期のロシアの一家庭の悲喜交々の風景を描く四幕の喜劇。
一時代の終焉を経て、それでも人生は続くという前向きさと、屋敷に一人残された老従僕の耳に届く桜の木を打つ斧の音響く寂しい終幕に感じ入る、チェーホフ最晩年の戯曲。

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