富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003109014

感想・レビュー・書評

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  • [13][130530] ひとに送るついでに再読。『女生徒』『富岳百景』『駆け込み訴え』が相変わらず好き。

  • 以下引用。 

     ことし、はじめて、キュウリをたべる。キュウリの青さから、夏が来る。五月のキュウリの青みには、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさがある。(「女生徒」p.84)

    私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ。女は、自分の運命を決するのに、微笑一つでたくさんなのだ。おそろしい。不思議なくらいだ。気をつけよう。(「女生徒」p.92)

    金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだいっぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。ふと、病気になりたく思う。うんと重い病気になって、汗を滝のように流して細く瘦せたら、私も、すっきり清浄になれるかも知れない。(「女生徒」p.99)

    ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので笑っちゃった。名答である。美しさに内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。(「女生徒」p.108)

     おふろがわいた。おふろ場に電燈をつけて、着物を脱ぎ、窓をいっぱいに開け放してから、ひっそりお風呂にひたる。珊瑚樹の青い葉が窓からのぞいていて、一枚一枚の葉が、電燈の光を受けて、強く輝いている。空には星がキラキラ。なんど見直しても、キラキラ。仰向いたまま、うっとりしていると、自分のからだのほの白さが、わざと見ないのだが、それでも、ぼんやり感じられ、視野のどこかに、ちゃんとはいっている。なお、黙っていると、小さい時の白さと違うように思われて来る。いたたまらない。肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。なりゆきにまかせて、じっとして、自分の大人になって行くのを見ているよりしかたがないのだろうか。いつまでも、お人形みたいなからだでいたい。お湯をじゃぶじゃぶかきまわして、子供のふりをしてみても、なんとなく気が重い。(「女生徒」p.115)

    私たちみんなの苦しみを、ほんとにだれも知らないのだもの。いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさわびしさは、おかしなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかもしれないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長いいやな期間を、どうして暮らしていったらいいのだろう。だれも教えてはくれないのだ。ほっておくよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。ほうっておくのは、いけないことだ。私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなにくやしがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとそのとおりで、みじんもうそのないことは、わかっているのだけれど、現在こんな激しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の頂上まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、だれかが間違っている。わるいのは、あなただ。(「女生徒」p.122~123)

     あすもまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。(中略)幸福は一夜おくれて来る。ぼんやり、そんな言葉を思い出す。幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、すばらしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。幸福は一夜おくれて来る。幸福は、――(「女生徒」p.124)


    人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。(「東京八景」p.243)

  • 富嶽百景、満願の軽やかな感じが心地良い。

  • 『魚服記』

    『ロマネスク』

    『満願』

    『富嶽百景』

    『女生徒』

    『八十八夜』

    『駆け込み訴え』

    『走れメロス』

    『きりぎりす』

    『東京八景』

  • 太宰治作品の中で初めて読んだのはこの富嶽百景。





    事実すらフィクションにしてしまうのが面白い。

  • 「富嶽百景」

    確か学校の教科書に載っていたのだが、当時は流し読み程度で、始めから通読したことはこれまでなかった。読んでみると面白い。

    『晩年』の中に収められている諸作品と比べると、形式的な工夫はほとんど見られないが、その分だけ随分と読みやすくなっていて、また言葉のセンスが良い。

    「実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり」
    「やはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり」
    なんて、富士の描写としてはいまだに斬新。

    棒状の素朴!

  • 走れメロスを読みました。
    読んでみようと思ったきっかけは、子供が通う学校の学習発表で、6年生が演じた走れメロスを観劇したためです。

    劇はたいへんよくできていました。保護者を中心とした観劇者は、みな、しんと静まり、劇の世界に引き込まれていました。わたしも感動しました。

    感動しながら、小林よしのりの漫画で読んだ「南の島に雪が降る」のことを考えていました。
    「南の島に雪が降る」とは、大東亜戦争でパプアニューギニアに駐屯していた日本陸軍の部隊で、慰安のため、隊員同士で劇を催し、その劇の中で降らした紙の雪に、劇を見ていた隊員が感動し涙を流した、という実際の話です。

    6年生の劇でも感動するレベルの劇に仕立てられたのですから、陸軍部隊の劇も、それは高いレベルだったでしょう。
    もちろん、戦地では物資に限りがあります。しかし、徴兵された兵隊は、元々さまざまな職についていたはずです。そのさまざまな職のスキルを活かして、衣装や小道具、舞台装置などを工夫したはずです。そしてなにより、故郷を思う気持ちは、だれしも強かったに決まっています。演ずる側も観る側も感動はいかばかりだったか・・・。

    劇もいいものですね。

  • 黄色い花の力強さと、富士への憧憬と落胆。
    何故「富士には月見草がよく似合う」のか。
    自己投影について考察が必要。

  • 太宰治って、自虐的でくら~いイメージがあって読まず嫌いしてたんですが(走れメロスは除く)、改めて読むと面白いね。
    収録作もバリエーション豊富でよかったね。
    「駆け込み訴え」なぞは、なかなかアイデア小説でしたな。

    作者の半生を、描いた「東京八景」ちゅうのが一番面白かったですな。
    うすうす知ってはいたものの、すんごい人生歩んでますなぁ

    井伏鱒二のあとがきも、なかなか読み応えあり。

  • 20年ぶり?に読んだ名作は、やはり感動。

著者プロフィール

1909年〈明治42年〉6月19日-1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名は津島 修治。1930年東京大学仏文科に入学、中退。
自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、戦前から戦後にかけて作品を次々に発表した。主な作品に「走れメロス」「お伽草子」「人間失格」がある。没落した華族の女性を主人公にした「斜陽」はベストセラーとなる。典型的な自己破滅型の私小説作家であった。1948年6月13日に愛人であった山崎富栄と玉川上水で入水自殺。

「2022年 『太宰治大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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