- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784043853014
感想・レビュー・書評
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しみじみと良い本だった…。梨木さんの文は、心が洗われるって表現がぴったりくる。急いで読んだらもったいない気がして、じっくり読んでしまう。
トルコのゆったり流れる日常の空気感がたまらない。そして日本人特有の生真面目さを発揮する村田君が良い。国籍も宗教も違う人たちが、お互いを認め合って共同生活をしているのっていいもんだなぁ。家守綺譚の綿貫君と高堂も出てきて嬉しかった。そういえば家守の方にも村田君の名前が出てきてたなぁ。ラストには、彼らの間を引き裂いた戦争の非情さを感じ、切なくなった。鸚鵡が泣かせてくれます…友よ! -
2014.10.30 am2:10 読了。
異文化理解とよく言うが、そもそも「異文化」という考え方が、性に合わない。「異」なんて使わずに、もっと柔らかい適当な語はないだろうか。境界線なんてはっきり引かない、境界線の太さをもっと広くした表現はないのか。いっそのこと境界線を幅広に拡大し続けて、内と外という区別をなくしたい。外国と日本。国という線を消してはじめて、個人として違う文化的背景や、風土を持った人(=外国人)に、もっと寛容になれるのではないか。けれども国の概念がなかったら、成立しないのが現代。「およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない」(84頁)この考え方は大切だと思う。ただずっとこの考えを持ち続けるのはきつい。情報量もやるべきことも膨大すぎてつぶされそう。妥協点をどこにするかが課題。
「人の世は成熟し、退廃する、それを繰り返してゆくだけなのだろうか」ー「ええ、いつまでも繰り返すでしょう。でもその度に、新しい何かが生まれる。【略】繰り返すことで何度も学ばなければならない。人が繰り返さなくなったとき、それは全ての終焉です」(97頁)
何かが生まれることは無駄ではない。確かに。変化の可能性は常に維持されるべき。善悪はともかく、その可能性が消えたときが、それの終わりなのだろう。 -
眠気と戦いながら読み始めた本にこんな泣かされたのは初めてです。
この作品には、言葉にしないことで、
互いへの信頼感がよくわかる描写が端々にあってとっても心地よかった。
書かないことで伝わる心地よい距離感があることを初めて知った。
登場人物みんなを好きになる。のに、
彼らをほんわり愛し始めたところでこの展開になって泣くしかできなかった。
でも泣くしかできないことが戦争なのかな。分からないけど。悲しい。
鸚鵡はムハンマドの肩から離れたくなかっただろうな。
でも村田の元にきてくれてありがとう。友よ。
歴史というのは物に籠る気配や思いの集積なのだよ、結局のところ。 -
鸚鵡は身じろぎし、首を私に寄せたかと思うと、突然夢から覚めたように、
ーー友よ。
と甲高く叫んだ。
異文化にふれて、なおぶれない村田エフェンディの生き様が素晴らしい。出会う人の宗教や過去に謙虚に怯えずに踏み込み、しかし、「まあそんなこともあるだろう」と大らかに飲み込む様、自意識にとらわれない好奇心が大変羨ましくも思えます。文化を超えた友情を育み、それがわずかに色あせて思い出になって行くラストの筆致は、本当に奇麗で、しみじみと心に響きます。 -
舞台となるのは斜陽の時代のオスマン・トルコ、第一次世界大戦を目前に控えた1899年。
「文明開化」という名の列車に乗せられた、一人の日本人留学生の物語となります。
著者の梨木さんは「西の魔女が死んだ」という本で知ったのですが、
その、どこかその突き放したかのような文体が中々に新鮮で、たまに手に取ったりしています。
ちょっと興味深かったのは、この本の中で「エルトゥールル号」の逸話が取り上げられていた点でしょうか。
トルコでは日本に対する友誼の根拠の一つとして教科書にも載っているそうです、自分は2002年に初めて知りました。
さて物語では、歴史学を学びに留学して来た村田青年とその下宿先の、
人種も階層も考え方も、何もかもが異なっている仲間達の交流の日々が、淡々と綴られていきます。
日常のちょっとした事件、ちょっとした不思議、そしてちょっとした楽しみと、そして哀しみ。
最後に再会するどこか達観して見える「鸚鵡」がまた、哀しみの余韻を残します。
青春というにはどこか、セピア色に包まれた一枚の写真を眺めているような、そんな一冊。 -
『西の魔女が死んだ』を読んで彼女のファンになったのなら、ぜひとも一読して欲しい一冊。
宗教や思想とも絡め、人と人とが理解し合うことについて考えさせられる、文学小説である。
『西の魔女』とあまりにも違う文体に初めは戸惑うが、ちりばめられた表現に梨木香歩であることを気づかされる小説である。 -
「家守忌憚」の村田君が出てくる話
↑の文体が凄く好みだったのでこれも面白かった^^ -
まずタイトルについて。
「村田」とは、主人公の名前。
著者の作品 『家守綺譚』 の主人公・綿貫と高堂の友人(同窓生)だ。
本書の最後の最後で 『家守綺譚』 と一致する場面がある。
「エフェンディ」、これは本文中の説明をそのまま引用する。
「おもに学問を修めた人物に対する一種の敬称だが、彼からそう呼ばれると、
ちょうど日本で商売人が誰彼となく先生と呼ぶのと全く同じ印象を受ける」とある。
要するに、尊称であり、意味は「先生」って感じのものだ。
「滞土録(たいとろく)」の「土」は、「土耳古(トルコ)」の「ト」。
ということで、つまりは 『村田先生トルコ滞在録』 という意味になる。
また、本書の位置づけは、『家守綺譚』の姉妹編ってところ。
物語の時代は1899年(明治32年)。
村田は、トルコ政府の招聘によって、考古学の研究の為、トルコへ留学し
英国人女性(ディクソン夫人)の屋敷に下宿滞在している。
この屋敷には、村田のほかにも、
ドイツ人の学者「オットー」、ギリシア人の研究者「ディミィトリス」が下宿しており、
トルコ人の「ムハンマド」という男が、下働きをつとめている。
主だった登場人物はそんなところだが、
忘れてはならないのが、「ムハンマド」が拾ってき鸚鵡だ。
『家守綺譚』の犬のゴローのように、重要な役割を持ち、しっかりと全体を見渡している。
彼らの下宿には「神」もいる。
日本のお稲荷さんやエジプトの神(置物)を村田が持ってきたときは傑作だった。
お守りも置物もその都度、たまたまやってきただけなのに…
夜中に、壮大な覇権争いが巻き起こるんだもん。 アハハ
よそ者との縄張り争いで、八百万の神々が騒ぎだし… 五月蝿いのなんのて。
堪りかねた村田が、大声で説教すると…急に物音がやんだの。 シーン(笑)。
その様子がね、なんだか物凄く微笑ましかった。
本当に日記のような、生活感に溢れる描写で、日々村田をはじめ、
同居人が活き活きと生活し、鸚鵡が絶妙なタイミングで鳴くのだ(笑)。
いやぁ、鸚鵡って賢いんですね! 飼いたくなりそう。
村田の綴る日常の語り部は、とても臨場感があった。 見事です。
既読者なら、誰もが心にずっしりくるセリフ・・・
醤油を手に入れてくれたことに感激して、お礼をいう村田に…ディミトリアスは言います。
「私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない。」
物語は次第に、第一次世界大戦へ向かっていきます。
また、土耳古という、西洋と東洋、そしてイスラム文化の接点のようなこの国の
歴史や時の流れの気配を、濃厚に感じます。
故に、宗教も文化も考え方も全く違う5人が、この宿で友情を育んでいく様子が、
とても、とても美しい。
後に、村田は考えます。 国とは、いったい何なのだろう。
ラストは、胸を打たれます。
「──ディスケ・ガウデーレ。」 ※?
「──友よ。」
『家守綺譚』 同様、余韻の深い作品でした。
余談ですが、【味噌玉】※? 作ってみようかな。
※?=ラテン語で「楽しむことを学べ」 の意。
※?=兵糧食。
削った鰹節を炒って粉末にし、葱と共に味噌に突き込んで球状に丸め、焼いたもの。
お湯をかけ、味噌汁として食す。