- Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061490970
感想・レビュー・書評
-
今まで知らなかったオスマントルコ帝国の成立から成熟までを大雑把に知る事ができた。
ただ、この一冊だけで細かい部分を知る事ができたとは言えず、いかにしてオスマントルコが大きな版図を得て、維持したのかを知る事ができた。
特に多民族?多宗教を包括しつつ、帝国を維持する仕組みは凄く感心してしまった。
[more]
というか現代のニュースで言われているのと同じ地域なのかと地名を何度か確認してしまうほどに安定統治がなされている事には驚いた。
現代でも同様にできないのかと思ったが、最後のあたりで『ナショナリズム』の台頭がムスリム優位な不平等な共存に不満を抱かせたと書いてあるのを読み、同じ仕組みでは統治は無理そうだと感じたよ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
・最盛期のオスマン帝国の領土は、アナトリアとバルカンを中核に、現在のイランとモロッコを除く中東のほぼ大部分におよんでいた。現在この地域は、民族紛争と宗教紛争の巣窟と化している。民族紛争のるつぼとなってしまった旧ユーゴスラヴィア、アラブ人とクルド人の抗争の場と化したイラク、宗派紛争の代表例となってしまったレバノン、そしてイスラエル人とパレスチナ人の闘争の続くパレスチナ。これらはすべて、かつてはオスマン帝国の領土の一部であった
・西欧では中世封建社会の遺制が残っていた時代に、オスマン帝国はすでに君主専制的かつ中央集権的な支配の組織と、強大な常備軍を擁していた
・サファヴィー家のシャー・イスマイールは、1501年にはアゼルバイジャンを制圧し、その後10年ほどの間に全イランをほぼ制圧した。そしてシーア派を、イランの歴史ではじめて公式に国教とした
・チャルディランの戦い(1514年)でサファヴィー軍を破ったセリムの次の標的は、エジプトのマムルーク朝だった。当時イスラム世界は三極構造の世界となりつつあった。一つは、イスラム世界の本来の中心だったアラブ地域で、当時もっとも豊かだったエジプトとシリアを支配し、イスラムの二大聖地メッカとメディナを庇護下に置く、スンナ派のマムルーク朝だった。いま一つは、イラン地域のサファヴィー朝。そして最後の一つが、イスラム世界のフロンティアであるオスマン帝国であった
・スレイマン即位の前年にあたる1519年にハプスブルク家出身のスペイン王カルロス一世は、神聖ローマ帝国皇帝カール五世として即位した。かたやイスラム世界の、かたやキリスト教世界の、大帝国の繁栄を築いた二人の君主は、ほぼ時を同じくして登場しているのである -
オスマン帝国の建国と国家的性質についての概説。この国が多様な要素を包含しながら、大帝国として繁栄できた理由について解説する。オスマン帝国史の概説としては、衰退以降の言及がほとんどなく、不満に思うかも。
-
荳頑ゥ玖除遨ょュ先嶌蠎励h繧翫?
-
20170901
-
考えてみたらオスマン帝国のこと何も知らないなぁと思ったので購入。
そりゃメフメット2世がコンスタンチノープルを落としたことくらいは知っていたけど、まさか帝国がまだ小さい頃とは知らなかった。
なんとなくエジプトもシリアも抑えて最後にコンスタンチノープル、と思ってた。
スレイマン大帝と神聖ローマ帝国皇帝カール5世の話なども面白かったけど、一番面白かったのは筆者のオスマントルコ愛(あるいはイスラム愛)と学者的誠実さの葛藤が感じられる部分。
例えば、当時のオスマン帝国内にはキリスト教徒もいて、お金を払えば迫害されることもなかったんだけど、行動はある程度制限されていたという話。
今の基準から考えればよくない話だということは明確で筆者もそれはわかっている。
でも愛があるので「いや、そうは言っても当時の西欧はもっとひどかったよ」と言ってしまう。
裁判やら貴族制やらいろんな場所でこの言葉が出てくるw
あと、仕方ないんだけど、人の名前が覚えにくいのが難点。
まぁ向こうからしたらこっちも同じなんだろうけど。 -
スレイマン一世までの歴史は割と詳しく、でも帝国の仕組みや政治的なお話と帝国の没落から終焉までは手短にという構成が読みやすかった。
-
歴史好きで多く本を読んできた私ですが、この本の主題である、西洋文明の前に栄えていた、東洋文明については殆ど読んできていませんでした。世界史の授業においても、西欧に関する部分が多く、ローマ帝国の後、かなり長い間、欧州において勢力を持っていた「オスマントルコ」について、私はこの本で初めてといってよいほど、学びました。
キリスト教国と異なって、自分たちの信じている宗教(イスラム教)を、征服した国に強要しなかったこと、家柄にとらわれず実力主義を採用したなど、現代の考え方に通じる先進的なものを持っていたと感じました。
今後、トルコについても興味を持ちたいと感じさせてくれた、記念すべき本となりました。
以下は気になったポイントです。
・オスマン文化の発展と成熟を支えた要因の一つは、東西交易の繁栄であった。オスマン帝国は、北のアナトリア、南のシリア・エジプトという、当時のユーラシアの東西交易の二大センターを押さえていたので、15-16世紀にかけて屈指の経済大国であった(p18)
・キリスト教は合理的で寛容な宗教とイメージされ、これに対して、イスラム世界は閉鎖的・非合理的な社会、不寛容な宗教とイメージされているが、歴史的事実においては、少なくとも中世から初期近代までは逆であった(p19)
・オスマン帝国が驚くほど長期にわたって存続しえた秘密の一つは、ゆるやかな統合と共存のシステムにあった。宗教も言葉も強制しなかった(p22)
・すべてのムスリムにとって、1日5回の礼拝は必須の義務、とりわけ金曜日の昼にモスクに赴き、共同礼拝に参加することは、絶対に欠かせない義務であった(p78)
・メフネット二世は、イスタンブール再建にあたって、異教徒を3つの、ミレットと呼ばれる宗教共同体に組織した。ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒で、このいずれかに属させた。貢納の義務を課したが、彼ら固有の信仰と法・生活慣習のもとに、自治的生活を営むことを許した(p87)
・非ムスリムは、2種類に分かれる。偶像崇拝者である、コーランか剣かの選択を迫られる人たち、もう一つのカテゴリーは、唯一神を奉じ、神の啓示の書物を持つ人々で、啓展の民と呼ばれる。キリスト教徒とユダヤ教徒である、彼らには、コーランか、貢納か、剣かの3つの選択肢が与えられた(p91)
・西欧人による、いわゆる「大航海時代」は、このルート(シルクロード・海上の道)をムスリムが掌握していたことに起因する。大航海時代は、ポルトガル人やスペイン人などの西欧人の一部が、香料を産地で直接入手して大きな利益をあげるために起こした運動である(p109)
・1481年にメフネット二世が49歳で亡くなってから、オスマン帝国はイタリアへの本格的進出は永久に放棄された。ルネサンス文化を開花させつつあったイタリアがオスマン軍に席捲されていたら、世界史の歴史が大きく変わっただろう(p116)
・オスマン朝では、兄から弟へそして最年長の甥へという「年長者相続制の原理と、父から子への「父子相続制」の原理の二つが併存していたが、父子相続制が定着していた。しかし子供間の相続順位は不定であった(p117)
・アリの支持者の一部は、あくまでアリーとその子孫のみが全ムスリムの指導者たりえると主張しつづけた、対立する人たちは、彼らを「アリー派=(シーア・アリー)」を読んだ。シーアとは、「派、党派」の意味に他ならない。後のシーア派である(p122)
・ムルマーク朝(エジプト・カイロ)の領土を手に入れたことで、シルクロードのシリア・エジプトルートを入手、第二の交易路である海の道もオスマン朝の支配下に入った。メフネット時代の第三の交易路とあわせて、ユーラシアとアフリカを繋ぐ当時の海陸の交易ルートのほとんどを支配下においた(p135)
・16世紀当時の西欧と比較すると、オスマン帝国は、はるかに整然とした統一的な裁判制度を持っていた。中世から初期近代にかけての西欧には、領主の所領ごと、社会的身分ごとに、様々な法体系と裁判制度が混在していた(p194)
・幸運とコネさえあれば、一地方名士の子であっても、帝国中央でキャリアの頂点に到達できたのは事実、そういう意味でオスマン社会は開放的であった。(p215)
・オスマン帝国の社会には多くの事実上の世襲が存在していたが、血統や家柄にのみもとづいて自己固有の権利を主張するという、真に世襲的な貴族は存在できない構造になっていた(p234)
・1571年秋、西欧キリスト教世界の人々は歓喜にわきたった、10/17日に行われたレパントの海戦で、キリスト教連合艦隊が、オスマン艦隊に大勝した(p236)
・レパントでの敗戦後、8か月もたたない1572年6月には、250隻からなる大艦隊を再び地中海に送り出していた、西欧側は解散していた。(p239)
・徴税請負制の拡大は、新しい土地制度、農業生産の在り方をもたらした。初めは一年間であった期間は、次第に長期化していった。それにともなって、国有地であった土地が、徴税請負人の私有地的なものに転化していった(p244)
・後期オスマン帝国の領土喪失で最も大きいのは、1699年のカルロヴィッツ条約によって、ハンガリーの大部分をハプスブルク帝国に奪われた、1718年には、パサロヴィッツ条約で、ベオグラードさえ一時奪われた(p251)
2016年12月31日作成 -
新書文庫