- Amazon.co.jp ・本 (50ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062172325
作品紹介・あらすじ
くまにさそわれて散歩に出る。「あのこと」以来、初めて-。1993年に書かれたデビュー作「神様」が、2011年の福島原発事故を受け、新たに生まれ変わった-。「群像」発表時より注目を集める話題の書。
感想・レビュー・書評
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『日常』は さりげなく過ぎ忘れていく
『あのこと』は 忘れることができない
柔らかい手ざわりですが、読んだあと 忘れられない作品です。『神様』収録中の『神様』はデビュー作。『神様2011』は東日本大震災直後に書かれた作品です。名久井直子さんの装丁もすてき。
作者の あとがき より~
2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様 2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。この怒りをいだいたまま、それでもわたしたちはそれぞれの日常を、たんたんと行きてゆくし、意地でも、「もうやになった」と、この生を放りだすことをしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
川上弘美さんの作品を知ったのはまだ数年前ですが、
1993年に書かれた「神様」が…ほんわかして優しくて大好きです。
その後、2011年に「神様2011」が「あのこと」をベースにした神様の物語が書かれています。
あのこととは、2011年東日本大震災による福島原発事故。わたしは、震災のニュースを見、大きな衝撃を受けたが、原発事故のことは、あまり意識の中になかった(というか、わからなかった)。
最後の川上弘美さん自身の「あとがき」は、まるで川上さんが話しておられるような語り調で、背筋が伸びる気がした。非常に訴えを感じた。怒りと受容にも似た。
本の中の前述の「神様」の文は、原文そのまま。
後の方の「神様2011」は、くまとの楽しい一日が、あのことがあって変ってしまった日常に加えて描いてある。例えばくまが防御服を着ているところとか。
日本は大きく変わってしまったけれど、日常は続いてゆく。怒りは最終的に自分自身に向かってくるのだが、(中略)それでもわたしたちは、それぞれの日常を、たんたんと生きてゆくし、意地でも「もうやになった」と、この生を放り出すこともしたくない。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。
と締めくくってある、この文章は(よく思うのは、川上さんの書かれるものはラストは生きることの素晴らしさを訴えているように感じる)、原発のみならず、今起きているコロナ禍に向けてのエールにも感じる。 -
怒っているのだな、ということがわかる。川上弘美は、怒って、怒りながらこれを書いたのだな。
だって、くまと散歩して魚をとったりお昼寝したりする、一読してのんびりとも牧歌的とも感じる「神様」を、いくつもある自作の中からわざわざ選んで、そこに、「あのこと」の後の世界を上書きしてしまったのだから。
読み比べてみればわかる。そこここに彼女が差し込んだ、「防護服」「除染」「被爆許容量」などの、くまと散歩して魚をとる昼寝をする世界とは、明らかに異質な単語。
3世帯しか残っていないマンション、子どものいない水辺。
「神様」には出てくるのに「神様2011」には出てこないものと、「神様」にはなかったのに「神様2011」には当然の顔で居座るもの。
その異質なものが、いつか日常になってしまうことを恐れる。
今だって、まだ家に帰れない人々、故郷をうちやったままで断腸の人々がいるのに、そこ以外では、停電もとりあえずなくなって日常を取り戻したつもりになっている。原発も放射線も、何も解決などされていないのに。
その日常に、かつてはSFの中のものだったガイガーカウンターや除染が、言葉としても実質としても、忍び込んでいる。そして忍び込んでいることに慣れてしまうことが怖い。
人智を超えているからこそ、触れてはいけないものがあったはずだ。今だってあるはずだ。
ウランは自然界にあって、ウランの神様はいた、ずっといた。触れずにいる間は牧歌でいられたけれど、でも触れてしまった。触れてしまった後の世界になってしまった。
知りませんでした、で済ませるには、あまりにも大きな破壊、あまりにも長いこの後の何千何万何億年だ。
それでも、「大いなるよろこび」を信じて最善を尽くしてゆくしか、手だてはない。
と、くまの、思ったよりも冷たい体温を想像しながら、やっぱり思う。 -
前作ができた1993年は私が生まれた年で、「あのこと」がこんなにも風景を一変させてしまったんだなと感じた。『神様』と『神様2011』を読み比べることで、その変化が一層浮き彫りになった。それでも生きるということを熊の神様が静かに投げかけているように感じた。
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川上さんのデビュー作「神様」は、くまにさそわれて散歩に出るという不思議で温かくて、なんか哀しくもなる小さな日常のお話だったけれど、それを今年のあの地震&原発事故を踏まえて少しずつ書き変えたら…。 オリジナルの「神様」で、主人公は三つ隣の305号室に引越してきた くまに誘われて散歩に出る。くまは、たぶん少しシャイながら大人の心を持つ、主人公の見方では、昔気質だったり大時代的だったりする くまなのが、ほんのりと可笑しく、でも、くまはくまなのだから、どこかで全ては通じ合ってない、と思わせるところがまた好きだった。
同じ人間同士だってとことんわかりあえるわけではない、ということ、でも、人間とくまという間柄で始めから何でもわかりあえる存在になれるはずがない、という前提を基に一緒に時間を過ごしてみると、あれこれ気持ちが通い合うところがとても嬉しく感じられ、うん、それでいいじゃないの、人間だってさ、なんて優しい気持ちにもなれたような気がしたり。
そして、思うことは、タイトルの「神様」ってなんだろう、ということ。
小さなハイキングの後に、くまが
「今日はほんとうに楽しかったです。遠くへ旅行して帰ってきたような気持ちです。熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」と言ってくれ、
主人公は、眠る前に日記を書きながら
熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、検討がつかなかった。悪くない一日だった。
と思うところでこのお話は終わるのだけど、川上さんはこのタイトルで何が言いたかったのだろう、と、これは誰でも思うことだろうけど。
私は、特定の宗教は持たない、いわゆる一般的な日本人だけれど、神様という存在はどこかしらに感じているように思う。神様=おてんとうさま、と言ってもいいかもしれないけど、(川上さんも後書きに書いてらした。)どこか人間たちの知恵の及ばないところに大きな存在があり、普段は優しく見守ってくれているのではないか、なんとか道を踏み外さないように、言い方は変だけど味方(*^_^*)してくれているのではないか、とも。
だから、熊の神様もきっとそんな存在で、うん、目には見えないけど、私たちは守られているんですよ、人間だけでなく、熊にもその他の生き物にも、いや、生き物以外にも神様っているんじゃないの? という嬉しさをも含むお話だったのでは、なんてね。
そして、今回の「神様2011」は、一行目から“防護服”が出てくるという、放射能が蔓延してしまった後の地が舞台になっている。でも本文はほとんどオリジナルと変わらず、だからこそ、ほんの少し折々に差しこまれる異変の描写がとても怖ろしい。
主人公とくまは、「あのこと」呼ばれる3月11日の前と同じように、ハイキングをし、話し、昼寝をし、抱擁を交わしあう。でも、たぶん、人の心も風景も「あのこと」以前とは全然違ったものになっているのが静かな怒りを持って書かれているのがよくわかる。
川上さんは、声高に何かを非難してはおらず、ただ、当たり前の生活が奪われたこと、そして、その異常事態である今が既に日常になっている悲しみを描かれている。
私自身、「あのこと」の後の政府や東電の対応には、腕をブルンブルンと振り回したいほど怒りを覚えているけれど、あの事故そのものについては、人智を越えた災厄という認識を持っている。事故が起こってから、後付けで、あれこれの不備や心得違いがあったことがわかっても、今年の3月11日まではそれでよし、としていたじゃん、私だって、あなただって、と思うから。
それはもちろん、いくら後悔しても後悔しきれないことで、誰に対しても、御免なさい、御免なさいと言いたくなるのだけど・・・。
こんな小さなお話が今、大きな評判となっており、売り切れの書店も多々ある、という情報に、なんていうか、まだ日本も捨てたもんじゃないんじゃない?と思えるところが嬉しい。
それこそ、神様っているんじゃないか、何もしてくれなくていいからいてほしい、と思える、とまで言ったら言い過ぎかなぁ。 -
2011年3月11日に東日本大震災が起こり、川上弘美は3月中にこの小説を書き、自ら出版社に持ち込んだ。掲載されたのは「群像」2011年6月号だから、5月初旬発売で原稿の締切はおよそ4月20日あたり。刊行された小説として福島の原発事故をとりあげた最も早いもののひとつだった。本書にはこの時に発表された「神様 2011」の前に「神様」というタイトルの短編がおさめられている。並置されていると言うのが正しい。ぼくは2012年になったくらいか、当時勤めていた会社の同僚女性に本書を、短いし読みやすいだろうなと考えて、貸した。神戸の出身で阪神淡路大震災を経験していて、東日本大震災のすぐあとに東京へ引っ越してきたひとだった。
「神様」は川上のデビュー作だ。『神様』(中公文庫)のあとがきから引用する。
〜” 表題作『神様』は、生まれて初めて活字になった小説である。
「パスカル短篇文学新人賞」という、パソコン通信上で応募・選考を行う文学賞を受賞し、「GQ」という雑誌に掲載された。
子供が小さくて日々あたふたしていた頃、ふと「書きたい、何か書きたい」と思い、二時間ほどで一気に書き上げた話だった。
書いている最中も、子供らはみちみちと取りついてきて往生したし、言葉だって文章だってなかなかうまく出てこなかった。でも、書きながら「書くことって楽しいことであるよなあ」としみじみ思ったものだ。「めんどくさいけど、楽しいものだよなあ、ほんとにまあ」と思ったのだ。
あのときの「ほんとにまあ」という感じを甦らせたくて、以来ずっと小説を書いているように思う。
もしあのとき『神様』を書かなければ、今ごろは違う場所で違う生活をしいていたかもしれない。不思議なことである。
やはりこれもなにかの「縁(えにし)」なのだろう。と、『神様』に登場する「くま」を真似て、わたしもつぶやいてみようか。
(後略)”
「神様」の書き出しは、
くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。
「神様 2011」の書き出しもまったく同じだ。川上はデビュー作を改変して発表した。お茶の水女子大学理学部生物学科を出てから田園調布雙葉高校の理科の先生もしていたひとは、東日本大震災の直後から「原子力」に関する勉強をはじめる。本書のあとがきから。
〜” 1993年に、わたしはこの本におさめられた最初の短編「神様」を書きました。
熊の神様、というものの出てくる話です。
日本には古来たくさんの神様がいました。山の神様、海や川の神様、風や雨の神様などの、大きな自然をつかさどる神様たち。田んぼの神様、住む土地の神様、かまどや厠や井戸の神様などの、人の暮らしのまわりにいる神様たち。祟りをなす神様もいますし、動物の神様もいます。鬼もいれば、ナマハゲもダイダラボッチもキジムナーもいる。
万物に神が宿るという信仰を、必ずしもわたしは心の底から信じているわけではないのですが、節電のため暖房を消して過した日々の明け方、窓越しにさす太陽の光があんまり暖かくて、思わず「ああ、これはほんとうに、おてんとうさまだ」と、感じ入ったりするほどには、日本古来の感覚はもっているわけです。
震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうともしないで来てしまったのだな」ということでした。(中略)
2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様 2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段に構えた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性を持つものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。”
本書を貸した当時の会社の同僚だった女性は、すこしして、もう一度この本を貸して欲しいと言った。小ぶりで可愛らしい本なのだ。川上はデビュー作を書き換えて、もう一度原点から歩こうと考えたんじゃないかとぼくは思う。原子力開発にまつわる諸問題、あらゆる面からまだいっこも解決していないことを覚えていますか? -
熊に誘われて散歩に出るわたし。デビュー作『神様』に「あのこと」が起こった2011年に、書き直した『神様2011』。
「あのこと」により、私たちに生活、日常は大きく変わった。それでも生きていかなくてはならない。日常は続いていく。川上さんは、静に激しく怒っている。自分自身に向かって。『神様』には、熊の神様が『神様2011』には、ウランの神様が描かれている。そして、現在も大きな出来事により日常が変わっている。『神様2021』を読んでみたい。50ページ弱の短い作品ですが、何度も何度も読み返しました。 -
残念なことに私の人生、
川上弘美さんの「神様」を
知らずにやってきました。
しかしこれ読んで、
ちょっと凄味を感じています。
自身のデビュー作である「神様」を、
2011年の3月の末に、あらためて書いたという「神様2011」
そこには、「あのこと」として、あの時に起こったこと。
原発事故以前の幸せな「神様」を原発事故以降の「神様2011」として新たに書いたのですね。
その行動力に驚きました。「神様2011」は、2011年の6月にはすでに、「群像」に発表されている。。
詩人の斉藤倫さんがブックガイドに紹介したものを読んだのが、この作品を手にしたきっかけですが、
紹介文にはこうあります。
_ずれてしまった、いわば、平行世界の、残酷な「神様」がありました。それを読んでしまえば、私たちはあの幸福には、再び戻れない。もう純粋に楽しむことはできない…
ずれてしまった現実に、小説をずらし返すことで、異議を唱えていく。ものがたりで、のような激しく、厳しいことができるのだと…
私は物凄い不安に襲われました。
コロナ以前とコロナ後の今、またはこれからの世界は
こんな風にまたずれてしまったんじゃないかと。。
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2014年の締め括りに改めて読む。
かの震災から早3年、喉元過ぎれば熱さ忘れると言うがだがそれは被災地復興の労働力を奪うことも知らずにオリンピックだなんだと浮かれている部外者に限ったことであり原発事故が起こった福島の人たちにとっては未だ烈火の塊が喉に詰まったままなのである。
20世紀の終わりにのほほんと現れてわたしとピクニックをしお土産に干物を残し抱擁をして去って行ったくまが何故また21世紀に現れなければならなかったか?
目先の利益だけを追い求めるご都合主義の政治家や経済人など放っておいて先ずは私たち一人ひとりがこの国の未来を考えなければならないんじゃないか。
そんなことも怠り次にまたくまが現れなければならなくなった時、間違いなくこの国は滅びる -
1993年に書かれた「神様」を東日本大震災を受けてリライトしたもの。1993年版と2011年版が収録されています。短いのですぐに読めます。非日常は日常に変わりつつあり、風化されずとも薄まる情報や報道に対しての著者なりの怒りや警鐘が伝わってきます。大人はもちろん、子どもにも是非読んでほしい。震災はこれからも続いてしまうのです。評価し難いので、★3にしています。
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収録作品は「神様」と「神様2011」。一瞬木で鼻をくくったような内容に戸惑いも。短いし何のこっちゃっ。それでも次第に熊との自然な関わりがじんわり伝わってくる感覚が何だか凄くよかった。原発事故後の2編目も静かな怒りが心に深く染みた。
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2013.9.15
前から『神様』好きだったけど、2011が出てるのは知らなかった。
書かずにはいれなかったんだろうな。たんたんとしていて、良い。 -
日常はこんなに簡単に変わってしまうんだなぁ。「あのこと」は実際に起こったことなのに、日々実感が薄れているところにかなりの衝撃を喰らった感じでした。
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日常は変わる。
話す熊、よりも不可思議なことが起きる。
体が大きいけれど礼儀正しくチャーミングな、
時に狂気も忍ばせる存在。
「貴方と頭の中で漢字を想像しながら呼びかけてください」 -
それでも日常はつづいていく。
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今は新型コロナウイルそればっかりになっているが放射能の脅威もこの国には変わらずにあって。聞き慣れない単位や物質がたくさん頭の中を回っていたあの当時を思い出す。ウランの神様か。あきれてるかな。自分勝手にいろいろやり過ぎた人間に。穏やかに手の届く範囲で暮らせればそれでいいのに。自然な姿では暮らせなくなってしまう日が来るのかもしれない。抱きしめ合うことを躊躇してしまうのか。既にもう毎日マスクが当たり前の世の中になっている。
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本当によかった
あとがきで泣いてしまった
もともと神様は読んだことがあったので、神様2011だけ初見。
“意地でも、「もうやになった」と、この生を放りだすことをしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。”
川上作品は一見世紀末や退廃的な匂いのするSF系の設定が多いけど、根本はどれも生きていくうえでの意志みたいな、意識みたいなものが感じられていたのだけど、このあとがきを読んでそれが確信に変わったし、改めてこういうところが好きなんだよな〜と思えた
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世界が変わってしまった。神様に抱きしめられて、いや、神様を抱きしめてか?立ちのぼってくるこの「ニオイ」。川上弘美さんが、世界はここにあるといっている。
そんなふうに、世界を去後していると、高橋源一郎さんが「非常時のことば」で案内してくれていた。スゴイ。納得!
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202002140000/ -
高橋源一郎『恋する原発』の「震災文学論」で紹介されていて興味を持ちました。川上弘美さんの小説はほとんど読んでいるつもりだったけど、なぜかこれは抜け落ちていたようで。
「神様」は1993年に書かれた川上弘美のデビュー短編。しかし2011年に「あのこと」が起こり、リメイクされたのがこの「神様2011」。ハードカバーだけどとても小さなこの本には、この2作が両方収録されている。牧歌的な1993年の神様に比べ、2011年の神様はディストピア的だ。もはやそこに子供はいないし、くまが獲ってくれた魚は食べられない。
余談ながら高橋源一郎が「震災文学論」で紹介していたのはこの「神様2011」と、石牟礼道子「苦海浄土」、宮崎駿「風の谷のナウシカ」で、震災文学論とはいえ、実はこの3作いずれも天災ではなく人災を扱っていることに今更気づく。苦海浄土は水俣病、ナウシカは核戦争後の地球、そして神様2011は、地震でも津波でもなく原発事故を。
あとがきで作者が書かれている「静かな怒り」がひたひたと伝わってくる。そしてその怒りは「最終的には自分自身に向かってくる怒り」だということも。自分に何ができるのか、何をするべきか、改めて考えさせられます。 -
有名な原作に加え、先の震災を踏まえリライトした2011版の計二作が収められた本。
高校時代、現代文の問題集で原作に出会って以来、通しで読みたいなあと思いながら5、6年。ようやく本棚に並ぶ姿に惹かれて手に取ったわけだけど、完全に消化不良感。あの頃、2011版は世に出てなかったのかと思うと、不思議な気持ち。
読み手の受け取り方も大きく変わるだろうに、原作を書きかえる。二作並べて本にする。この作品を肯定も否定もできないけど、その決断を実行した作者の思いがあるってことは心のどこかで覚えていたい。 -
過去の作品と、時を経て書き直した作品とを載せている本。
最初なんで熊が普通に三つ隣りの部屋に住んで、散歩なり普通に会話をしたりなどしているのかと思い、何処か童話か寓話なのかと思われたが、これが福島原発事故を受けて、リメイクとなり、ところどころにストロンチウムやセシウムなど熊との会話で出てくるのであるが、全体的に柔らかい文体だけあって、逆に何処かそれらの言葉か生々しく、おどろおどろしさを感じた。
題名からも神様ということで、熊やセシウムは、人為を超える別のベクトルでの神々であり、それらの対象を描くことで、軽いながらも「悪くない日」を過ごしていく人としての生き方について考えさせられる。
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東日本大震災を受けて、デビュー作「神様」を題材に「ポスト震災」「ポスト福島第一原発」を描く。既存作を題材にして改変を行うことで、日常の在り方が変わってしまったこと、そしてそれは二度と戻ることがないことを描き出した方法論が見事だと思う。実際、10年が経っても東日本大震災、福島第一原発の事故は消し難い傷跡を残しているのだから。
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神様 のほんわかした感じがすき。このくま、すき。
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「神様」は以前読んだときと同じく、不思議でぽかぽかしたお話で好きでした。
「神様2011」と並べられることで、「あのこと」が起こって変わった日常と、それでもここで生きていくわたしのくまとのひとときが心に迫ってきます。
2011年からは何年も経ちましたが、薄れさせてはならない思いです。
あとがきも好きです。 -
著者のデビュー作。
くまと私が散歩するファンタジー。
熊の神様が印象的。
微笑ましくて、クスッと笑えるストーリー。
気軽に何度でも読み返したくなる本。
非日常体験よりも、
日常でちょっと楽しかったことを重ねていく方が
安心して幸せな気持ちでいられる。
今回、新たに作品が加えられているのだが、
(タイトル神様のあとに2011が追記されているように)
原発事故後を時間軸に置かれている。
同じ登場人物、同じ場所、同じシチュエーション。
けれども日常そのものが変わってしまった。
著者のあとがきが印象的。
「日常は続いてゆく、
けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう
可能性をもつものだ。」
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短編。ファンタジー。
ショート・ショートと言ってもいいくらい短い作品。
クマと人間の交流。不思議。
ここにも震災の影響が。 -
一度ハマると抜け出せない作家、と愛する小川先生が著書で述べていらっしゃったので、図書館で、書店で、ふと目につく名前になった川上弘美作品。
これ以上好きな作家を一同時期に持ちたくないなァという意味不明なセーブがかかってて、気になってるのにそれほど作品を読んでいない川上作品ですが、今作はタイトルと背表紙の質感に呼ばれました。
川上先生は、クマと青年のファンタジックな交流を描いた「神様」という作品で1993年にデビューを果たしました。
本作は、そのデビュー作をリライトした作品です。
2011年、3月11日。
当時を生きた全ての日本人の心に、深い影を落とした大震災。
あの悲劇に触発され、きっと矢も盾もたまらず改稿されたのではないでしょうか。
こういう作品を読むと、言葉で伝えることの力を改めて感じるよなー。言葉そのものは力持たないと思うんだけど。言葉を並べて誰かに発信する、その言葉で誰かの心の琴線に触れるものを書くことを仕事にしてる人達、ほんと尊敬するわー(語彙…)。
1993年当時、誰も想像だにしなかっただろう原発事故。
あえてリライト作にデビュー作を選んだ川上先生の心中はいかばかりだったのでしょう。
日常生活のシーンの中に差し挟まれる、かつての非日常に、思わず息が詰まるようでした。
川上先生の静かに訴える声が聞こえてくるような作品です。
でも、元々の作品のファンで、今作にはガッカリしたって人も少なくないだろうし、その気持ちも分かるんだよね。難しいなぁ。 -
偶然装丁が名久井直子さん。(いつもは知ってて読む。)あとがきまで読んで。