ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062748698

感想・レビュー・書評

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  • 村上春樹節恋愛小説。
    懐かしいな。
    銭湯帰りにボロアパートで読んでた頃を思い出すよ。

  • レイコさんの台詞、
    「私たちもみんないつかはあんな風に死ぬのよ。私もあなたも」

    生と死について考えさせられる物語。
    自殺者が多いのでちょっと鬱になるが、
    読んでいると心に刺さることも多い。

    ただ単純に要領よく生きられる人とそうでない人。
    誰しも感じたことのある自分に対する心の歪みを気にする人と気にしない人。
    自己に向く純粋な精神への葛藤にむけられた名作だと思います。

    非常に読みやすいのが素晴らしい。

  • 直子は死んでしまうのか…。
    なんだかやるせないな、と思った。
    ワタナベくんは全く目立ったところがなかったが、
    彼の周りにいるキャラクター達の個性強すぎて、彼を普通に見せてしまっていただけなのかもしれない。
    きっと大人になっても、彼はこのまま生き続けるのだろうと思った。

  • 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が社会現象になった時に、初めて村上春樹の作品を読み、他にも読んでみたいと思い、購入していた本書。先日上巻を読了し、下巻も一気に読了しました。

    村上春樹の作品を読んだのは2作目でしたが、リズムがあり読みやすく、情景描写や表現が巧く、そのストーリーと世界観に引き込まれました。登場人物は皆、心にどこか傷を抱えていましたが、個性的で魅力的でした。その中でも自由奔放な緑が1番好きです。

    ついつい一気に読了してしまいましたが、またいつか、ゆっくり味わって再読したいと思います。

  • 読み終わってみれば、「100パーセントの恋愛小説」というよりは、「100%の片想い小説」という話だった。
    ま、片想いだって、恋愛は恋愛なんだけどさ(^^ゞ

    上巻第一章で、37歳の主人公が語る直子のことって、読んではいても、次の第二章から主人公が19歳だった頃の本編が始まるから、つい頭の中からすっぽ抜けちゃうんだけど。
    でも、終わってみれば、実は第一章にこそ、この話の顛末と「直子が何を思っていたか?」について書かれているんだよね。
    それが端的に書かれているのが以下(上巻)だ。
    “何故彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女の記憶がいつか薄らいでいくであろうことを。だからこそ彼女は僕に訴えかけなければならなかったのだ。「私のことをいつまでもわすれないで。私が存在したことを覚えていて」と。
    そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。”

    おそらく、直子にとって主人公(ワタナベくん)というのは、生きている今、自分を気にかけてくれるという唯一の存在(死んだ後でも自分のことを記憶に留めておいてくれる友人)だったんだろう。
    だから、自分に会いに来てもらうために体を見せたり、手でしてあげたりと主人公(ワタナベくん)に必死にサービスしてあげることで、自分を気にかけてくれる唯一の相手を必死に繋ぎ止めようとしてたってことなんだろう。

    というのは、直子が体を見せるのはともかく、手で…みたいなのは読んでいてすごく違和感をおぼえたんだよね。
    だって、直子というのは主人公と同じ齢で。高校の時につき合っている相手がいたのはいたけど、そういう経験はほとんどしていない女性(というよりも女の子)だ。
    普通、そういう女の子は相手の男に好意を寄せていればいるほど(この場合は、相手を自分に引き付けようとすればするほど)、それをすることで相手の男にふしだらな女だと思われないように、そういうことをしないものだし。
    なにより、男が抱える宿痾wみたいな性の欲望や欲求・衝動を知らないどころか、想像すら出来ないような気がするのだ。
    (もっとも、キズキにそういうことを教えられていたという可能性はなくはない)

    ということは、直子はそのために、(おそらくはその寮で)そういう知識を得ていたということになる。
    そういうところだから、図書館はあるだろうし。
    たぶん、そういう知識を得るための本だって取り寄せられるんじゃないだろうか?
    そこまで考えていて、ふと思い出すのがレイコなんだよね。
    レイコって、どういう人だったんだろう?
    主人公のワタナベが見たまんま、本人から聞いたまんまの人なんだろうか?
    そもそも、レイコと直子って、実際はどういう関係だったんだろう?と、いろいろ想像してしまうのだ。

    レイコというと、自らが語っていた、ピアノを教えていた少女とのエピソードだ。
    もちろん、少女とレイコの関係が実は真逆だったとまでは思わない。
    ただ、それでも、レイコという人は実は同性を求める傾向が強い人なんじゃないだろうか?
    そして、それは多かれ少なかれ、直子との間でもあったんじゃないか?
    ただ、それは直子が自分がレイコの欲望の対象になっていると感じるほど、露骨な関係ではなくて。
    なにより、レイコにとって直子は、世話を焼いてやることで相手が自分を必要と思ってくれることで自らの存在意義を見いだせてくれると思っていたような気がする。

    一方、直子はレイコのことを、肌と肌を合わせることで気持ちを穏やかにしてくれる的な、その場所で自分を庇護してくれる存在だと思っていたように思う。
    わかりやすく言うならば、部活のあこがれの先輩に甘えているみたいな感じ?
    ただ、先輩は先輩で同性愛の傾向がちょっとあり、その後輩にちょっと興味があったからつい…みたいな?(^_^;)

    その関係でいられればよかったんだけど、どこかの時点で直子はレイコに対して、ちょっと踏み込んだ感情を持つようになった。
    それは、主人公が直子に思いを書いた手紙を書いたり、あるいは直子の元に主人公のワタナベくんが訪ねてきたことがきっかけなのかはわからない。
    いずれにしても、直子とレイコの関係にワタナベが入ってくることで、高校時代のキズキと直子+ワタナベの関係に似た3人の関係がまた発生してしまった。
    (この小説は、2人+ワタナベという3人の関係が発生した時、2人の内の1人が自殺する展開が繰り返される)

    その3人の関係が発生したことで、直子は「ワタナベくんは私にこんなにもぞっこんなのよ」と見せつけることで、レイコにジェラシーの気持ちを抱かせようとした。
    いや、それが3人の関係が発生したからかどうかはわからない。
    たんに直子の中で、レイコの存在が自分を庇護してくれる心から信頼できる相手から、恋に近い感情を持つ相手へと変わっていったことで、(直子は)レイコをもっと自分に引きつけるためにジェラシーを抱かせようとしたということなのかもしれない。

    というか、全然そういうことではなくて。
    直子は、青春時代という人生の華やかな時期にそういう寮で療養しなきゃならない自分が寂しくて。
    だから、かつて、キズキとともに3人の楽しい時間を過ごしたその3人の一人であるワタナベくんが自分を恋慕う様子を見て、直子は自分を慰めていただけなのかもしれない。

    いずれにしても、37歳になった主人公が語っているように、“直子は僕のことを愛してさえいなかった”、つまり、ワタナベの勘違いによる100%片想いなんだと思うのだ。
    つまり、直子が当時思っていたことというのは、「私のことをいつまでもわすれないで。私が存在したことを覚えていて」だけで。
    その思いを頼めるのは、ワタナベくんだけだった。
    だから、直子はワタナベくんに体を見せたり、手でしてあげたりした。
    そういうことのように思うかな?
    であれば、直子が主人公にそういったことをしてあげた理由がよくわかる。

    いや、だからって、直子が身勝手とか、ワタナベの好意を利用したとか、そういうことではなくて。
    著者は、そういったことをしてでも自らの生にしがみ続けようとする人の哀しさというものを描いているんだと思う。
    (ただし、そこには著者による茶化しやギャグも多分に含まれているw)



    個人的には、ラスト、電話ボックスから緑に電話をかけていて、そこがどこかわからなくなった主人公のワタナベはその後、自殺したんだと思った。
    もちろん、上巻の冒頭で37歳になった主人公が語っているんだから、それは未遂だったんだろう。
    これはあくまで個人的な考えだけど、自殺しようとして自殺出来る人なんて絶対いなくて。自殺というのは発作的に、あるいは無意識に気づいたら死に向かって行動をしていて、その結果死んでしまったのが自殺なんだと思っている。
    だから、そのタイミングで、ワタナベが発作的に自ら死に向かう行動をとっていてもおかしくはない。

    ワタナベが電話ボックスに入って、緑に電話をかけたのがいつだったのかは書かれていない。
    ただ、それはレイコとのひと時の幸せな邂逅(ワタナベにとっては、おそらく初めての心穏やかにした女性との交わりだったはず)のすぐ後に描かれている。
    それを素直に読んじゃうならば、それはワタナベが自ら死に向かっての行動をしてしまう、まさにそのタイミングだったように思うかな?
    直子という想う相手を失ってしまった主人公にとって、レイコと過ごした穏やかで楽しい時間はあまりに幸せすぎた。
    もちろん、それ以上の幸せを与えてくれるかもしれない、緑の存在はあった。
    でも、直子をなくして心が弱っている主人公にとって、みどりは生の活気に満ち満ちすぎていて眩しすぎた。
    だから、目が眩んでそっちには向かえず、無意識的に自ら死へと向かってしまった…。

    そんな風に思ってしまうのは、上巻の冒頭、1987年のシーンで緑のことが一切語られないからだ。
    おそらく、主人公のワタナベと緑がつきあったとしても、長くは続かなかったろう。
    適当な時に緑に飽きられて(呆れられて?)、一方的に捨てられたはずだ(^^ゞ
    (だって、ワタナベは村上春樹の小説の主人公だw)
    とはいえ、それが短かろうと長かろうと、緑とつきあってさえいれば、ワタナベの心は直子への想いを断ち切ることができる。
    いったんでもいいから直子を忘れられたならば、たぶんワタナベは他の相手ともいい思い出をつくっていたはずだ。
    なのに、そこに直子の名前しか出てこないということは、電話ボックスに入ったワタナベは緑と会うことがなかったということだ。
    緑と会わなくて、緑との関係を持てなかったことで、ワタナベは直子への想いを断ち切ることが出来なかった。
    直子への想いを断ち切れなかったことで、ワタナベは37歳になっても19歳の頃のように性欲を満たすためだけにしか女性とつきあうことが出来ない、寂しい人だったんだろう。
    もっとも。
    そこで、直子以外に緑やその他女性の名前がぞろぞろ出てきちゃったら、このお話が台無しになっちゃうという事情はあるんだろうけどさ(爆)



    そういえば、村上春樹の本の感想を読んでいると、「こんな男なのになぜか女にモテる」みたいに書かれているのをよく目にするけど。
    それは、今はわかりにくいと思うけど、この当時(1968〜69年)というのは二人兄弟、三人兄弟というのが普通だったからというのがあるように思う(兄弟にはもちろん姉妹も含まれるよw)。
    自分はワタナベ(村上春樹)よりはずっと下だから。
    1968年当時のリアルは知らないけど、それでも二人兄弟、三人兄弟は普通で。一人っ子は、クラス(当時は50人弱)の中で2、3人だった。
    兄弟の数が多いから、当然、近所にいる子どもの数も多かった。
    兄弟が多いのが当たり前だったから、あるいは、近所に子供が沢山いるから、当時はどの子供も小さい子の面倒を見たりするのは普通だったのだ。
    特に当時の価値観だと、女の子は小さい子の面倒をみる子が良い子とされた(もちろん、男の子だって、小さい子を面倒みる子は褒められた)。

    このお話の当時というのはそういう時代だ。
    誰しも多かれ少なかれ小さい子の面倒をみるという経験を持っていたから、女性(女の子)からしたらワタナベのようなか弱い男に、つい世話を焼いてしまう。
    そこから男女の関係に進んでいくっていうのは、結構普通だったんじゃないだろうか?(もっとも、それは今でも普通にある恋愛形態だろう)
    思い返してみれば、自分も小学校低学年くらいまでは近所のお姉さんたちから、いろいろ世話を焼かれていた方だった(^^ゞ

    さらに言えば、このワタナベという男は常に受け身だから女性から見たら、人畜無害オーラを発していて近寄りやすい。
    可愛気もある。
    なにより、このワタナベというのは、他の男と違って代わり映えしてる(爆)
    「世界中のジャングルの虎がみんなバターになってしまうくらい好きだ」って言われて、落ちない女はおそらくいない。
    今だと「そんなんじゃ落ちない!」とか「女をバカにしている」みたいに怒り出す変な人wはいくらでもいるんだろうけど、それはその場にいなくてそれをイメージ出来ないだけだ。
    どこまで真に受けるかは人それぞれだろうけど、実際に言われたら、気持ちはふわっと軽くなる。
    気持ちが軽くなるのは誰でも心地いいことだから、相手に好意の感情が芽生える。
    そうなってしまえば、それは女と男だ。
    多少のアバタはエクボに見えてくるから心がわきたってくるから、気づけば落ちている。
    ていうか、誰だって、そういう風に恋に落ちてみたい。
    男も女もそれは同じだ。
    「今の若者は恋愛に興味がない」なんていうマスコミのデタラメを鵜呑みにしているのは主人公のワタナベと一緒だ。
    ワタナベのように寂しく、虚しく、つまらない人生をおくりたいと思う人はいないはずだ(^_^;)

    男だろうが女だろうが、所詮はどれもこれも大差はないw
    異性の心を捉える極意は、なんでもいいから相手に他とちょっと代わり映えすることをみせてやることだ。
    悲しいかな、自分はやったことないけどさ(爆)

    でも、代わり映えすることで異性の心を捉えられても、それだけで関係は続かない。
    だから、主人公はあっちでエッチ、こっちでエッチ、そっちでエッチしても、しただけで終わるw
    それは、主人公のワタナベは男ならではの性の欲求としてエッチしているだけで、相手とコミュニケーションをすることを望んではいないからだというのはある。
    というか、ワタナベの場合は相手とコミュニケーションをすることを最初っから放棄しているって言った方がいいのかな?
    それはワタナベの中にある鼻持ちならない選民意識、というか、たんなる自意識過剰にすぎなくて。
    独り語りの中でこそ相手の女性を尊重しているようだけど、実際やっていることは「カンタンに寝る女なんてオレの性欲処理係でしかないぜ」的な、井の中の蛙にすぎないからこその身勝手な上から目線なわけだ。
    (だからこそ、ワタナベはキズキや永沢といった優れた友人との交友を語るわけじゃん)

    ただ、一方で主人公のワタナベというのは、自分がしている性の欲求を満たすためだけのエッチを虚しくて意味のないものだということもちゃんとわかっている。
    読者からしたら、「こんなチンケなヤツがなんでこんなにモテまくりエッチしまくりなんだ? チキショー。うらやましーぜw」と思ってしまいがちだけど(^^ゞ
    ワタナベからしたら、それは楽しいことでも、ワクワクすることでもなくて。
    だから、どんなにそれをしようとも、ワタナベは不幸せなのだ。
    ワタナベにとっては、自らの中にある唯一の無邪気な幸せだったキズキと直子+自分という3人の思い出こそが最上の価値観だった。
    だから、他の女性と関係を持っても、その女性のつまらないところを見ることしか出来ない。
    そんな相手とエッチしたところで、それは性欲を処理するだけの快楽でしかない。
    結局、ワタナベというのはどんなに女性と関係を持っても幸せを感じることの出来ない、言ってみれば不幸せしか感じることの出来ない人だった。
    ある意味、ワタナベというのは、キズキと直子+自分という3人の関係の一人である直子を想いさえすれば自分は幸せになれる、という幻想にすがっていただけなんだろう。


    そんな不幸せな主人公のワタナベがした、(このお話の中で)唯一、幸せな女性との性的な交わりが最後の第11章のレイコとのそれだった。
    というか、ワタナベは、レイコとの性的な交わりだけが幸せだったのではなくて。
    レイコという、齢が離れていたとしてもお互いに心と心を通わせられる、対等な関係の男女のコミュニケーション(ビール飲んで、すき焼き食べて、おしゃべりして、ギター弾いて、笑い合って…)の中でしたの中の一つとしてのそれだったからこそ、それはワタナベにとって幸せなことだったんだろうけどね。

    それって、性欲だけでするんでもなければ、永沢のようにゲームのゴールとしてだけするわけじゃないじゃない?
    子孫を残すためはもちろんだけどw、相手への興味とか、相手を思う気持ちとか、相手に喜んで/悦んでもらいたいとか、相手との関係を深めるためとか、たんに相手が好きだからとか、癒やしとか、他にすることがないからとかw、たんなるレクリエーションとかw、ただしたくなっただけとかw、激情にかられたとか、衝動に突き動かされたとか、する理由や目的はいろいろあると思うんだけど(^^ゞ
    することで何かを忘れられるからするっていうのもあると思うのだ。
    言ってみれば、一種の憑きもの落とし?(爆)

    そういう意味で、レイコとの交わりはワタナベの憑きものを落としたんだろう。
    だから、それはこの小説の最後に書かれている。
    そういうことなんじゃないかな?

    ただ、ワタナベの憑きものは完全に落ちたわけではなかった。
    おそらく、生気に満ちたみどりと話すことで、ワタナベは自分が自意識過剰な井の中の蛙にすぎないというコンプレックスを思い出してしまったんじゃないだろうか?
    そう考えると、永沢がワタナベに言った「自分に同情するな」、「自分に同情するのは愚か者だ」というのは、主人公にそういうところがあると思ったからこそ、それを言ったんだろう。
    そして、それは「ワタナベのように自己憐憫に浸ってはいけない」という、著者から読者への注意書きでもあるように思う。

  • 描写が繊細で物語の中に引き込まれるように読んだ。
    有名な恋愛小説って聞いてたけど恋愛小説と言っても王道のやつではなくて人間の深い心の闇の部分を描いたり、思い悩む若い主人公の混沌みたいなのを描いてて一筋縄ではいかない恋愛模様だった。
    もやもや〜とした沼に嵌ったみたいな感覚。
    でもドロドロとした話じゃなく登場人物たちは真っ直ぐでとても人間味があってなんだか切ない。
    性的な描写はどちらかというと多めだなと思ったけど若き日の思い出だからかな?
    自分的にはレイコさんが唯一さっぱりとしてるからか好感が持てて、彼女の過去の話もとても気になってしまった。
    主人公が前に進むのにレイコさんの存在はとても大きかったと思う。でも最後のところはえ?ってなるが考えてみれば彼女も不完全だもんね。
    人は皆弱い生き物なんだろうな。

  • 上巻からは雰囲気が変わり、臨場的で性的な描写の多さを感じた。死は生の対極ではなく、生の中にうごめいているものであるというのを感じる本だった。
    とにかく登場人物は不幸になる者が多かった。最終盤のワタナベとレイコさんの関係においても、それが前に進む選択として正しいものとは思えなかった。
    人間のありのままの姿と、性的な葛藤を描いた作品であり読後感はスッキリしないが様々考えさせられた。

  • 読後、とてつもなく心が暗くなった。

    僕は最後にどこにいたんだろう。「どこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた」という文から、僕が精神疾患を患い始めていることを暗示しているのではないかと思ってしまう。
    キズキが直子を引っ張り、直子が僕を引っ張り、生から死の世界へと連れて行かれる…ある意味で死の連鎖である。

    これからの僕が幸せになることを願うしかないが、緑に任せたところで幸せになれるとは感じない。緑は相当な変わり者だし、なんなら気がおかしいのではないかと感じる言動を取る。(僕はいつも変わり者に引っかかる。)でも、緑は心の傷さえあれど、自身に起きた残虐な出来事をしっかり乗り越えてきたという過去がある。それなりに強い心の持ち主なのだろう。また、僕に対して弱みを曝け出しているという点でも直子とは異なる。こうしてみると、やはり僕は、緑とお互いの弱い点を補完し合いながら将来的に上手くいくのではないか、と改めて感じた。

    この小説が一体何を言いたかったのか、全くもって掴めなかったが、村上春樹の小説はいつもそうかもしれない。これといった大きなテーマを持たず、(この小説に限るがリアリズムを徹底し、それを淡々と描く)、解釈を読者に完全に委ねる。何度も読み重ねることによってこの物語を自分に落とし込み、何か大きなものを得られるようになるかもしれない。

    しかし性の描写があまりにもリアルすぎて、尚且つ頻繁に登場しすぎて参った…。始めの頃は耐えられたが(むしろ興味ころ湧いたが)、後編の怒涛の性描写続きには気持ち悪さを覚えずにはいられなかった。村上春樹さんいい加減にしてください笑



    以下、ネットで納得した感想

    この本を読んで学べるのが、恋愛は「与える」だけではダメなんだということ。同時に「弱み」を見せて、お互いが補完し合わないといけないんだと。直子には自身の現状から、ワタナベとお互い補完し合う関係ができないことを悟っていたし、ワタナベは今になって直子の気持ちに気づいたんじゃないかと思います。

    文脈をわかりやすくすると、ワタナベは、自身が考える「愛する」を実行し続けたが、直子の「愛する」と定義が根本的にずれていた。そして「忘れないで」の一言でそのことを悟り、たまらなく哀しくなった。

    直子が自殺した理由も、この本でいう「公正さ」が保てないと悟ったためじゃないでしょうか。そしてスズキの元にいけば、またお互い弱みを補完できる「公正さ」が保たれた恋愛ができると思ったため、だと私なりに解釈しています。


    この世界においては、明確なことなど何もない、対極的に考えられている生と死においても、それらを明確に分割して考えることはできないだろうということを伝えたかったとおもう。現代社会は西洋科学的な考えによって、事実か否か、現実か空想か、等の二分割をすることが正しいことであり、事実や現実のみに目を向け過ぎていることによって、生きづらさを感じている人たちへのメッセージでは無いか。


    「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」

    死は突如として外部から現れるものだと思いがちではないでしょうか。しかし、実は人間は死を内包しながら常に存在しています。人間は生まれた瞬間から死に向かって生きており、すでに死は約束された確実なものなのです。
    ワタナベの周りで起きた大切な人の死は、突然起こったものではなく、常に仄めかされているものでした。その死というものの身近さ、常に存在するということが本作の柱になっているようです。



    全編にわたって執拗にセックスが出てきますが、これも「生」や「生命力」の象徴として描かれていると思います。その証拠に、直子や施設にいたレイコさんのように「死」に近い場所にいる人はセックスをしません。キズキが自殺したのも、愛する直子とどうしてもセックスできない、結ばれない事への絶望が決定的な影響を与えていると思われます。
    また、かつてレイコさんが愛する男性と出会って絶望から脱した際、それまでは処女だったというのも偶然とは思えません。作者はここでもセックスを「生」の象徴として描いていると思います。一方でその後の女の子との同性同士のセックスは、非常にグロテスクで間違ったもの、不吉なものとして描いています。

    レイコさんは、精神を病んで家族と別れて以降の自分を「ここにいる私は、かつての私の残存記憶でしかない」と言っていました。
    ワタナベとのセックスは、過去の残存記憶の入れ物でしかなかったレイコさんが「生きた肉体」を完全に取り戻した事を意味しています。それはすなわち今までの人生と決別して、前を向いて生きていくという事です。



    ずばり、ワタナベ自身が直子を愛していなかったからに他ならない。

    自分の記憶の中に作り上げた直子を愛していると錯覚していただけだったということを、自己中心的なワタナベは自然と自分が愛されていないとサラっと言ってのけたのだ。
    ワタナベ恐るべし。

    直子の死後、ショックで放浪するが大したきっかけもなく立ち直り戻ってくるのはそうした錯覚した愛が故であるだろう。



    その他にも心に残ったフレーズは沢山あった。付箋を貼った(もちろん貼ってないとこもある)ので、いつか読み返してみたい。
    解釈の仕方が沢山あって大変!笑
    でも本ってこうやってたのしむんだ!っていうのが分かった。

    http://bookclub.tokyo/?p=1812

    https://note.com/mon2/n/n0106e4748572

  • 死は生の一部で生もまた死の一部
    だからこそ真剣に向き合ってもいいし考えることを放り出して流されるように生きてもいいんじゃないか
    人生の意味について分からないまま生きていくが答えでもいいと思った。

  • 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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