今を生きるための現代詩 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882095

感想・レビュー・書評

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  • 詩とは色々な読み取り方が出来るものなんだ。
    日本語は美しく、素晴らしい!

  • 以下引用(途中)

     「解釈」ということを、いったん忘れてみてはどうだろう。
     詩を読んでそのよさを味わえるということは、解釈や価値判断ができるということではない。もちろん、高度な「読み」の技術を身につけたらそれはすてきなことだが、みんながみんなそんな専門的な読者である必要はないはずだ。もっと素朴に一字一句のありさまをじっとながめて、気に入ったところをくりかえし読めばいいと思う。わたしはふだん自分のたのしみのために詩を読むときは、そのように読んでいる。(p.12)

     一般に人は、実力が足りないときには、対象を否定することしかできない。肯定や受容は、否定の数十倍のエネルギーを必要とするものだと思う。だから、小さいこどもは、新しく接する未知のものを否定ばかりしている。いま自分が、好きではない詩を否定するやりかたではなく、好きになった詩を肯定することばを書けるのは、つまり、おとなになったということである。(p.39)

     教科書は、詩というものを、作者の感動や思想を伝達する媒体としか見ていないようだった。だから教室では、その詩に出てくるむずかしいことばを辞書でしらべ、修辞的な技巧を説明し、「この詩で作者が言いたかったこと」を言い当てることを目標とする。国語の授業においては、詩を読む人はいつも、作者のこころのなかを言い当て、それにじょうずに共感することを求められている。
     そんなことが大事だとはどうしても思えなかった。あらかじめ作者のこころのなかに用意されていた考えを、決められた約束事にしたがって手際よく買い得することなどに魅力はない。わたしはもっとスリルのある、もっとなまなましい、もっと人間的な詩をもとめていた。(p.40)

     わたしの思う「なまなましくて人間的」な表現は、たとえば書である。
     書の作品を前にしたとき、筆を持って紙のうえにその文字を書いた人の肉体の躍動や呼吸が、作品を見ている自分の肉体に実感をもって再現される。「こう書こうというプランの機械的な達成」ではなく、「結果としてこんなかたちを書きつけることになってしまった(失敗かもしれないし意味がないかもしれない)肉体と精神の運動の記録」であるからこそ、書は魅力的なのだ。(pp.40-41)

     人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。(p.41)

     しかし、なにかを伝えるためではなくてただ書いた、ただことばの美を実現したくて書いたので「ねらい」などはない、と思われる詩は無数にある。(p.58)

     ふたつの詩(谷川俊太郎「沈黙の部屋」・入沢康夫「『木の船』のための素描」:引用者注)に共通していえることは、「あらすじ」を言うことができないということである。つまり、どのことばもひとしい重みをもって書かれているために、詩のなかのことばを取捨選択することができない。あるいは、全体としてなにかを伝達する文章ではないので、ようやくという行為が意味をなさないもである。(p.67)

     船室や鳥や木箱がじつはなにかほかのものごとをほのめかしていると考えてその「正解」をさぐったり、作者の感動の中心はどこにあるかと考えることに意味はない。われわれにできるのはただこのとばを読むことだけであり、読んでなにかの教訓をえようなどというさもしいことは考えなくてよい。
     絵画を見ていっぺんで気に入るようなとき、われわれはその絵をなにかの寓意として見ているわけではない。構図だとか描かれているもののかたち、色彩、そういったものの全体的調和を見て、それを好きになるのだ。(p.69)

     ある詩が、そのときその人にとって「わかりやすい」ということはつまり、あたまやこころのなかの既知の番地に整理しやすいということである。(中略)
     もちろん、一定の番地に整理しおえたらただちにその詩に興味がなくなるとかぎったわけではなく、古今の有名な詩句をくちずさむたのしさはわたしにもおぼえのあるものだ。しかしそれは、いってみれば「自分が上手に演奏できる曲をおさらいするときのたのしさ」であり、自分の姿勢としては、未来や未知のほうではなくて過去を向いている。
     いっぽう「わかりにくい」詩とは、どの番地にしまってよいかがわからないものだ。その詩をしまうために、あらたな詩ペースを開拓し、番地をつくらなければならないかもしれない。それはとても時間のかかる、やっかいな作業だ。(pp.70-71)

     詩を読むことは、効率の追求の対極にある行為だろう。
     なるべく道を一直線にして、寄り道や袋小路を排除し、誰でもおなじ道をまちがいなくたどれるようにマニュアル化する。そういう行為を、われわれは詩の外であまりにもたくさんこなしてきた。(中略)しかし、いまやわれわれは効率のあじけなさを知り、効率を最優先にした行動がいかに人間的なこころをだめにするかも知っている。
     かんたんにはわからない詩をいつまでも読みつづけることは、効率主義にうちひしがれ、すっかり消耗した精神の特効薬になるかもしれない。(pp.71-72)

     ある詩を何年経っても読みあきないということは、番地をさがしつづけていることでもあるし、謎をときつづけているということでもある。短期的に答えが出てしまうのは「謎」ではなく、謎というのは角度や深さをかえながらさまざまなアプローチをつづけていくことによってしか接近できない。この「接近しようとするこころみの途上」にあるとき、人はじつにいろいろなことを知り、感じ、考える。あらたなアイディアをもってその詩の謎に向かうとき、あらたな自分がうまれる。(p.72)

    (前略)詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。(p.72)

  •  詩と言われても、イマイチわからなかったのだけれども、確かにこれを読むと、分からなくてよいのだと安心する。
     文学より絵に近いものなのかなぁ……と感じた次第。
     しかし、この後、どの詩を手に取ればいいのか……というか、本屋に行ってどこに詩集があるのか、そしてどうするか、というのは悩ましい。

  • 学校で習う詩の読み方、学習の仕方とは異なる方法を教えてくれる。詩ってなんだかわからない、わかりづらそう、理解できない、難しい、と思っている人に、新しい視点を与えてくれると思う。
    書く側の人も一読しておいて欲しい一冊。

  • 図書館より。
    解説やただの評論ではなく、著者(詩人)の目線での詩とのふれあいの思い出が語られているのがよい。

  • "詩は、雨上がりの路面にできた水たまりや、ベランダから見える鉄塔や、すがたは見えないけれどもとおくから重い音だけひびかせてくる飛行機や、あした切ろうと思って台所に置いてあるフランパンや、そういうものと似ている。"

    "「わからない」と「わかった」とのあいだを往復しながら、われわれの内部で詩は育っていくのだ。"

  • なかなか読み応えがある。

  • あとだしじゃんけんみたいで恥ずかしいけれど、序盤から、そうそう、私もそういうことを言いたかった!(ような気がする)と思ってばかりいた。自分ではことばにできなかったことがらを、美しい物言いで表明してもらう喜び。おもしろかったなあ。
    わからないままに置いておいちゃいけないのかなあ、というもやもやがいつもどこかにあった。明らかにことばにできたからと言って、それがわかったことになるのか、わかった、とすることで見えなくなることがあるんじゃないか、そういうもやもや。わからなくても好きなものもあるし、わからないものをまるごと持っていることもできる。理解できた、という気持ちになったことだけを自分のものにできるわけではない。わからなくても、なにかもっとひらめきや直感的な部分で、自分に必要なものは、というか、これは自分の持っていたいものだ、というものは感じるものなのではないか。わかることを前提に置くと、そういう感覚って、衰えるような気がする。
    感じることはできる、からわかるまでは時間をかけたっていい。というか、そのほうがたのしい。そういう諸々のこと。

    「すぐにわかったつもりになるのをやめて、簡単にわかってしまわないようにする」態度のたいせつさ。
    早く決まるのがいいとは限らない。

    出てくる詩は、知らなかったものばかりで、わくわくした。まだこれから出会えるものもたくさんある。
    たのしい読書体験だったなあ。

  •  子供の頃、教科書で谷川俊太郎さんの詩を読んで、単純に素敵だな、と感じた記憶があります。たぶん題は『春』だったと思う。クラス全員で、何回も音読していました。
     ずっと大人になって、谷川さんがお金にはかなりシビアな方だ、という事を知りました。もし子供の頃に、その話を知ったら多少幻滅したでしょう。しかし今では、一層谷川さんに親近感を抱いています。詩人だって、大金持ちになりたい、と思う気持ちはみなと同じなのですから。
     この本を読んだことを機会に、詩や短歌も見て行きたいです。

  • 例えば、

    水を
    ください。

    と、


    をください。

    の違いが、
    読んだ、
    あとに、
    わ、
    かります。

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著者プロフィール

渡邊十絲子(わたなべ としこ)
1964年東京生まれ。早稲田大学文学部文芸科在学中、鈴木志郎康ゼミで詩を書きはじめる。卒業制作の詩集で小野梓記念芸術賞受賞。詩集『Fの残響』『千年の祈り』(以上、河出書房新社)、『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田)。書評集『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)。エッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社)。ことばによる自己表現の入門書『ことばを深呼吸』(川口晴美との共著、東京書籍)。本を読み書評を書くこと、スポーツ観戦、公営ギャンブルに人生の時間と情熱をささげる。月刊専門誌「競艇マクール」のコラムは連載14年め。

「2013年 『今を生きるための現代詩』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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