- Amazon.co.jp ・本 (680ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087470871
感想・レビュー・書評
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面白い
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なるほど
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戦国時代が好きじゃなかった私が戦国時代を好きになるきっかけになった本です。
兼続のどうしてこうなったのかを考えるのではなく、これからどうするかを考えるという言葉が戦国という時代に反映した考えだなと思いました。
この本はどちらかというと戦の話が中心というよりも兼続と景勝の豊臣秀吉も必死になって引き裂こうとしても引き裂けなかった主従関係やお船との補い合った夫婦関係など、どちらかというと人物関係を重視している感じがします。
兼続とは関係ありませんが、作品を通して山上宗二の惨殺など、自分の豊臣秀吉像ががらりと変わりました。 -
2009.11.24~12.8読了
<伏見城:428頁>
それは"安土・桃山時代"という、歴史時代区分についてだ。ひとことでいえば"安土・桃山時代"といういい方はおかしいのであって、正しくは、
「安土・伏見時代」だ。つまり"桃山時代"などという時代は存在しない。それを"安土・桃山"というのは、誰かがいいはじめた"慣用表現"であって、歴史にもとづくものではない。
桃山時代というのは、「豊臣秀吉の時代」あるいは「秀吉のつくり出した文化の時代」だという意味である。が、秀吉が築いたのは"伏見城"であって"桃山城"ではない。当時、誰もそんな呼び方はしていない。徳川家康もその子秀忠も、この城にいたが、かれらも伏見城と呼んでいた。
そして家康の孫家光が、三代目の征夷大将軍(ここでもうるさいことをいえば、ふつう"将軍"というのはこの略だ)の宣下をこの城でうけたが、この時も伏見城と呼んだ。つまり、この城を築いた豊臣秀吉だけでなく、徳川時代になっても、家康・秀忠・家光の三代にわたって、この城は依然として"伏見城"と呼ばれていたのだ。それがなぜ"桃山城"になったのだろうか。
三代将軍徳川家光は、江戸から上洛して伏見城で将軍になったが、かれは江戸に戻る時に、
「この城を壊せ」
と命令した。
「建物や石垣はもちろん、一木一草も残すな」といった。建物はあちこちに分散させられ、生えていた樹木や花もそれこそ"根こそぎ"切り倒され、引き抜かれた。伏見城は完全な廃墟になってしまった。
徳川家光は将軍になった時、日本の全大名を集めてこう宣言した。
「祖父(家康)と父(秀忠)は、あなた方のご支持で将軍になった。しかし、私は生まれながらの将軍で、あなた方のおせわにはまったくなっていない。文句があるのなら、領国に帰って合戦の準備をしろ」
若い三代目の大バッタリだが、意気は凄まじい。その意気の京都版が伏見城の破却だったのだ。家光のいきおいの凄まじさに、伏見城は徹底的に壊され、跡はそのまま放っておかれた。
やがて、この城跡に付近の人々が桃の木を植えた。つぎつぎと植えられ、元禄年間(一六八八年以降)になると、全山桃の木だらけになった。花の咲く季節は何ともいえず美しい。地域の人々はここに登って桃の花を楽しんだ。しかし、家光が将軍になったのは、元和九年(一六二三)のことだから、すでに六十数年経っている。おそらくここに桃の木が植えられたのも、家光が死んだ後ではなかろうか。
そして、人々はいつかこの城跡を"桃山"と呼びはじめた。したがって、伏見城が桃山と呼ばれるようになったのは、元禄時代からなのである。この前にこういう呼び方はない。そして、伏見地域の入々が伏見城跡を桃山と呼びはじめたのも、レクリエーション地としてそう名づけたので、別に秀吉の"文化"を対象としたものではない。
伏見城が壊されて六十数年も経てば、昔のことはかなり風化されてしまう。まして徳川時代が完全に根づいて定着した時期に、
「これは曲豆臣文化で、またの名を"桃山文化"という」などということが、世間全体で唱えられたとは信じられない。ふしぎなネーミングである。 -
塩辛
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良くも悪くも歴史小説。大河を見る前に読んでおきたかった、というのが実感です。
テレビで伝わりきらなかった直江兼続の人となりがよくわかり、またドラマでは描けないその時代ならではの話もよく伝わりました。
まぁそれでもいろいろ美化されてる気もしますが・・・
もうちょっと歴史上では地味なところ(徳川幕府後)の話も読みたかったかな、と思います。 -
兼続に「褒美じゃ」と言って、着物の裾をまくるお船がエロい。
一般に義を重んじた智将と呼ばれているが、実は内政・外交戦略共に現実主義に則った参謀であったという姿が描かれている。 -
兼続にはデレる景勝さま。
無口だけど、兼続には冗談も言っちゃうお茶目さも。
兼続に対して好意的な政宗が見られるのは「北の王国」だけ!w