ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101006031

感想・レビュー・書評

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  • なかなか明るい気持ちで読めない一冊。
    まず、「親友交歓」
    とにかく、読んでいてイライラ~ってなる。自分ならこんな黙って好き勝手言わせておかないなぁって。はっきり断れば良いのにって。

    表題作「ヴィヨンの妻」
    これは、なんというか結局のところ似た者夫婦だったんだろうな、というのが最後まで読んだ感想でした。ただ、虐げられて居ただけの妻だとばっかり思っていたのにこの先はきっと大谷よりも・・・と想像してしまう。

    「家庭の幸福」
    この話はもう、最後の一言に尽きる。
    無条件に「怖っ!」ってなる。言葉にしてしまうことの怖さというのだろうか?本当は悪いことではないとは思うんだけど。

  •  戦後の晩年に近い作品。自分のことを嫌に思っている陰や死が見え隠れする作品が多い。でも初期と違って、どこかまとまった文体・世界になっているのは積み重ねと言えるか。
     「トカトントン」は、最後にもあるように、自身の性格の何物でもないと思った。音があるからと自分に納得出来る解釈を与えているだけ。学習効果と言うべきか……。
     「おさん」や「ヴィヨンの妻」などの女性による語り口は作者の影を忘れさせる。
     最後の方の作品である「家庭の幸福」は、官僚を批判する珍しい作品。過去に同人で農作の上下関係を批判するような作品を書いて、長兄から取り消すよう言われたことがあるそうで、その事もあるのだろうか……。弱者に優しいと言われることがあるけれど、それを感じられる作品でもあった。

  • 映画化されて話題になった「ヴィヨンの妻」は、本書の5番目に収録されている約40ページの短編。
    「私たちは、生きていさえすればいいのよ」という映画のキャッチコピーは、物語の最後で妻が大谷に言う言葉である。

    全部で8編の短編が収められているが、その多くは酒に溺れて腐敗している1人の男を描いており、さながら太宰自身の死を予告しているようである。
    官僚を皮肉っている「家庭の幸福」がいちばんおもしろかった。

  • 太宰後期の短篇集。
    「親友交歓」のブラックユーモアは太宰らしく面白かったです。
    終戦直後を舞台とした家族の描写が多く、この頃には道化が慢性化して表面的には穏やかに明るいけれど、頽廃的な生活や恋での破滅から「死」という革命へ急速に進行している印象を受けました。
    考えても答えは出ませんが、もしも戦争という生を絶望視させる時代でなく華族や地主や百姓などの社会的地位の格差が緩和し、
    酒も煙草もコンビニで手軽に買えて衣服を売らずとも生きていける現代に太宰が生まれていたら..とどうしても考えてしまう短篇集でした。

  • 言いたい気持ちは、分からないでもない。
    ひかる言葉もある。が、私には太宰が分からぬのかなぁ。

  • 少し前はこういう文学はなかなか読めない人間だったはずだけど今はさらりと読むことができるようになったなぁと思う。それがどういうことなのかっていうのはよくわからないけれども。

    これから『走れメロス』を扱うにあたって、他に『人間失格』くらいしか読んだことがないのも何だかなぁと思って2冊借りてきてみたうちの1冊。
    「親友交歓」は森見登美彦が太宰作品を集めた『奇想と微笑』で読んだことがあったもの。ラストの「威張るな!」があまりにも突然すぎていっそ清々しくてなんだか「ふふっ」と笑ってしまう。

    「トカトントン」はタイトルは知ってた。そういうことか、という感じだった。いつ自分の耳にも「トカトントン」が聴こえるかとひやひやする。

    他の作品の中では「母」と「ヴィヨンの妻」と「家庭の幸福」が好きというか、印象的でした。その他の作品はなんだかどれも駄目男と不憫だがたくましい妻の物語といった感じで似たり寄ったりかなと。ヴィヨンの妻もそんな話だけど。
    登場する女性はみな不憫な人なのだけど、不幸そうには感じられないのが不思議です。駄目男も憎みきれないのも不思議。

  • ほとんどどれを読んでも不快指数の高まるような作品群。ダメ親父が妻子に後ろめたい思いをしながら自分の楽に逃げ、("社会で認められるような")"家庭的""道徳的"となることができず、反対にそれを憎んでいく、という話の構図。
    これを執拗に執拗に各編で繰り返し、しかもますます口を閉ざしては病んだ自問を深めていく。しまいには、敵視する"家庭的""道徳的"キャラクターの呼び名に、適当に理由をつけながらわざわざ作者の本名を当てるという風に、敵視対象をあげつらいつつ自嘲を含めるとかいう転倒したようなことをやっていて恐れ入る。

    登場人物の繊細で神経質な気性。それと対になる行動の厚かましさ。自己正当化と自己矛盾。主役も脇役も、多くはうんざりするような、付き合い切れないようなところがある。薄暗さ。締めの言葉を投げつけて寄越すような感じ。
    ただ、件の"家庭的""道徳的"であることの異臭も、全く分からないではない。

    以下、印象的な一編と表題作。
    トカトントンはリズムの良さ。一方でカオスに落ち窪んでいくような、でも実際何でもないような。
    ヴィヨンの妻は終盤で急激に沈んでいくのが重苦しい。"泥棒"をキーワードに表面的な善し悪しが見える前半に比べ、後半は見えない・見えにくい部分での善し悪しが混ぜこぜになる。善し悪しそのもののを投げ捨てるかのような態度。

  • 太宰最晩の作品集。桜桃は絶筆らしい。家族に対する絶望と、しかしそれでも持ち続けた新しい家族に対する希望。その辺が描かれている。

    ・ヴィヨンの妻
    太宰的な流れ、投げ出されるようなゴチャッとした結末。いつも背景にラジオのノイズが流れているような、そんな印象を彼の作品には持ってしまう。ダメな男と、こなれた妻。深く考えたもんが負けだよ、といわれてしまうような、軽快さと深刻さがある。ただこれは嘘ではないから、頭を抱える。

    ・トカトントン
    金槌で釘を打つ音、トカトントン。戦後の失望と、人生に対する仄暗い欲望と、舞い上がる砂ぼこりをも弛緩させ地に落とすよな響き。ある学生が、憧れる作家先生に自身の人生の悩みを書にしたためる。それがこのトカトントン。なにも手に付かない。要するに集中できない。つみあげたものが、ずるりと滑る。緊張がカタルシスを前に、ゆるむ。私はどうしてしまったんでしょうという具合。
     結論はイエスの言葉。

    ・親友交歓
    これも青空文庫。盗人猛々しい、友だとも、この表現が当てはまってしまっては、分を越えていることのほかはない。太宰の作品で主人公に感情移入することはほとんどないが、これはさすがに、主人公に同情せざるをえない。しかし、我がこうなっていないかと、ひやひやと思いを巡らせたりもしましたが、今の人間ここまでずうずうしくなること自体が奇跡のようなものです。完全にではなくても、少しの交わりの中でも、こういった分を過ぎる行いがないことを戒めつつ。

    ・父
    青空文庫にて。冒頭は旧約聖書のアブラハムとイサクの有名な物語。息子を殺してまで神に従おうとするアブラハムの義。義とは男には言い訳のようなものであると。自分の子供をほっといてまで賭け事に向かう男。

    「義。義とは?
     その解明はできないけれども、しかし、アブラハムは、ひとり子を殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。」

    13/7/21

  • 大人になってから太宰を読んで思うのは、実は思うほどネガティブではなく、むしろいたるところにユーモアのセンスが感じられるところ。本作は晩年の短編集ですが、どれもほぼ主人公は作者自身を投影したと思しき駄目な男。でもその描写は、自虐的諧謔とでも言いましょうか、むしろ開き直りのようなものが感じられて、いっそ笑ってしまいたくなるような駄目さ。一周まわって、いっそポジティブ。太宰は大人になってから読んだほうがいいですね。

  • そんな妻(女)には私はなれない。
    ただ、生きてればいいのよと最後の言葉。
    強い人だ。

  • 書店で、遠藤周作の書籍を探していたが見つからず、ふと「太宰は人間失格だけじゃない」というキャッチコピーにわかってるよと思いながらも、あまり読んでいなかったことにふと気付き、手にとってみることに。3つの印象的な文章に出会った。

    この人たちが、一等をとったって二等をとったって、世間はそれにはほとんど興味を感じないのに、それでも生命懸けで、ラストヘビーなんかやっているのです。別に、この駅伝競走によって、所謂文化国家を建設しようという理想を持っているわけでもないでしょうし、また、理想も何もないのに、それでも、おていさいから、そんな理想を口にして走って、以て世間の人たちにほめられようなどとも思っていないでしょう。また、将来大マラソン家になろうという野心もなく、どうせ田舎の駆けっくらで、タイムも何も問題にならん事は、よく知っているでしょうし、家へ帰っても、その家族の者たちに手柄話などする気もなく、かえってお父さんに叱られはせぬかと心配して、けれども、それでも走りたいのです。いのちがけで、やってみたいのです。誰にほめられなくてもいいんです。ただ、走ってみたいのです。無報酬の行為です。幼時の危ない木登りには、まだ柿の実を取って食おうという欲がありましたが、このいのちがけのマラソンには、それさえありません。ほとんど虚無の情勢だと思いました。それが、その時の私の空虚な気分にぴったりあってしまったのです。(P.60 トカトントン)

    →“その時の空虚な気分”を表現するために、これほどまでに流暢な文章を一気に書いたんだろうか、それとも何度も推敲を重ねて書きあげたのあろうか。この一端を見るだけでも、繊細な作家ということが自分の中で改めて感じた。もちろん、この文章に表現されている彼なりの「空虚」への視点も何かと乾いて世間を見ているような、人間も観察しているような気がして、独特さを感じずにはいられなかった。どことなく、違和感を感じないでもないが・・・



    私は、あなたに、いっそ思われていないほうが、あなたに嫌われ、憎まれていたほうが、かえって気持ちがさっぱりして助かるのです。私の事をそれほど思ってくださりながら、他の人を抱きしめているあなたの姿が、私を地獄につき落としてしまうのです。
    (P.164 おさん)

    →これはどうしようもない主人公の妻のセリフである。どこまで本当のことを書いているのかわからないが、こんな奥さんの気持ちをここまで考えることができるということが単純に驚きに感じる。この書籍の後半はほとんど家庭を顧みないしょうもない男が描写されているわけだが、果たして彼はこれを知りながらそんなことをしているのか。いっそ全く妻を考えずに、他の女を愛しているのか。どちらにしろ、恐ろしいことだと思うが、その中に一つ可能性を示す著者の幅が印象的。


    所謂「官僚の悪」の地軸は何か。所謂「官僚的」という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当たり、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。曰く、家庭の幸福は諸悪の本。(P,188 家庭の幸福)

    →こう断言できる作家は世界にそうそう多くはいないのではないか。あまりに断言するあまり、その結論をうすうす感じながらもキョトンとしてしまった。たしかに、仕事やその他課外的な活動を優先するときには、家庭の一部と代替にしなければならない時や場面が来るであろう。自分だってそのように考える時はある。でも著者のように考えるのが怖いから、必死に仕事と家庭での両者における幸福を確立しようと考え、動き回る。多少、どちらかに「犠牲」(表現が過激だが・・・)が出たとしても、頭の中ではそれは起こっていないとなだめようとする気持ちが働いてしまう。でも著者は断言した。家庭の幸福が諸悪の本だと。彼の生涯が平凡だとは言いがたいのは確か。しかし、そう言えるのは一つの勇気であり、不思議な光を放つからこそ彼が今日まで読み継がれる所以なのかと思ってしまった。

    こう3つを断片的に取り上げただけだが、こう自身の所感を書けば書くほど太宰治という人間への魅力を勝手に高めてしまったのは自分だけではないであろう。もう一回、人間失格を読まずにはいられなくなった。

  • 私の中では読まず嫌いの太宰治。
    なぜってすぐ死にたがるんですもの。
    そして、しっかりクズなんですよね…。
    しかし、それでこそ太宰治!ですよね。

    彼の生き方とか人間性に魅力は感じないですが、
    面白い文章を書きますね。
    個人的には「おさん」が好き。

    どの作品も男の貧弱さと女のしなやかさの対比が素晴らしい。この時代にこの角度で性別を見れた人は少ないのではないでしょうか?

    さて、つぎはどの太宰作品を読もう。太宰を嫌いと言うにはまだまだ読まなければならないものがたくさんある。

  • 本来あるべき父像、夫像を知っておきながら、お金は無駄遣いし、妻がいつのにもかかわらず、外で遊んだりしてるのだろうか。芸術のためとは言うが、それはなぜだろうか。こういう夫のことを知りながら、彼に咎めるよりも、ただおおごと、もめることを避けることを優先する。
    最後のお話では、より夫婦の関係性の緊張感のようなものが良く描かれたいた。お互いの関係性の表面的な和を取り繕うと、お互いがお互いのことを察し合いような、思い込みような心情が描かれていた。これは、8つの短編でなっていくが、だんだんと後ろの話に向かうにつれて、悲壮感がだんだんと強くなっていくような感じがした。
    戦時中のひとびとの生活の苦労もこれらの話で垣間見ることができた。
    トカトントンに出てくる手紙のお送り主の心情は、なんだか理解できなくもない。一生懸命やっているところで、ふと気持ちが白けてしまう感じ。バカバカしくなってくる感じ。なんかわかるし、たまに自分にもやってくる。

  • 読みやすかったがwbcの後で大谷が翔平に変換されて変な感じがした。

  • わたしには難しい感じ方ばかりだった
    もう一回読み直す

  • 6/19が太宰治の桜桃忌だったので、桜桃を読んだ。

    子供より親が大事、と思いたい。
    桜桃では、親が子供より弱いと主張されている。
    確かに、色々と気苦労を背負い込み精神的な負担を持つため、親の方が弱ってしまうことはあると思った。
    私は子供を持ったことはないが、性格のために子供を持つと参ってしまうことが目に見える。

    この作品の登場人物の“父”は妻や子供を大切に思っているからこそ、彼女たちのことで気に病んでしまうのだろう。
    私が病むのも誰かを大切に思っているからなのだ。

  • ただ生きてさえいてくれればいい。全てを許す人。そんな人は私の周りにいるんだろうか。どうしようもない、という人たちがたくさん出てきて、それを読み進めるどうしようもない私。まだマシかもしれないというかまだマシやろうけどなんか、全て許し受け入れてくれる人がいる大谷より私の方が不幸な気がしてきた。あれなんか病んでんな。ははは。どうしようもなさを改善するとか救うって話じゃなくて嬉しいし悲しい話だった。

  • 太宰がなぜ自殺未遂や薬物中毒という自己破滅的な行動を取らなければ生きていけなかったか、その理由について“言い訳”をしているような自叙伝的な小説。

    環境がそうさせるんだし、みんなもそうやって汚れてながら生きてるし、というような開き直りが見えながらも、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」という有名なフレーズはさすがで、ギリギリで生きる人間だからこそのしたたかさを感じる。

  • ヴィヨンの妻が読みたくて購入。
    短編集なので、すらりと読み終えることができた。

    親友交歓がとても面白かった。
    イライラしてるのがわかりやすくて。

    ヴィヨンの妻はいいですね。
    生きてさえすればいい、すごく良いです。
    この台詞を書いていたときの太宰の心情はどんなものだったのか想像して、なんだか悲しくなってしまった。

  • 99
    太宰作品3作目読破。
    文学は自分はかなり理解するのが難しいなぁーと思いつつ、その時の時代背景や、この物語ができた背景などを知ることで少しは感じれたのかなー。
    家庭や夫のあるべきとされる姿へのアンチテーゼだったのかなーと。

  • 戦後直後の昭和の時代に書かれた短編集。

    どの短編も暗く重々しいが、敗戦による日本全体に横たわる喪失感と、太宰自身の絶望感がクロスオーバーする。

    現在とは時代背景は異なるが、義を得として、ひたすら空虚に向かってひた走る心情は今の日本と相似をなす。

  • ヴィヨンの妻
    そんな夫からは離れろよ。なんで離れないのかって好きだから?らしくてじゃあしょうがないと思うと同時になんで好きやねんの気持ち。
    理想にそれこそ紙の上で生きたい夫と現実的な妻の話?

  • 主人公の「妻」が居酒屋で働くという、社会に出ることで、ロマンチストからリアリストに変貌するのがよかった。

  • 死の予感、罪の意識と戦いながら放蕩する夫の苦悩を、妻の視点から描き出す。生きていさえすればいい、と言える妻のしたたかさよ。籍も入れず、お金も、立派な家もない。たしかな形がなくても彷徨った果てに帰ってくる場所が家庭なのだ、と新しい家庭の形を見た。

  • 文明の進歩による代償を「大笑い」して悲観し、自分に対して「死ね!」と言い切ってしまう太宰の清々しさ。

    「文明の果ての大笑い!!!」

  • 桜桃が印象的だった

  • 2021/12/06-12/07

  •  

  • 朗読の時間
    軽く面白い展開。

  • なぜかお盆休みはダークな本を立て続けに読んでしまった。でも私は遅れてやってきたダザイストだからなあ。この短編集の中だと「母」のユーモアが気に入った。「親友交歓」は短編ドラマにもなってた、威張るな!

著者プロフィール

1909年〈明治42年〉6月19日-1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名は津島 修治。1930年東京大学仏文科に入学、中退。
自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、戦前から戦後にかけて作品を次々に発表した。主な作品に「走れメロス」「お伽草子」「人間失格」がある。没落した華族の女性を主人公にした「斜陽」はベストセラーとなる。典型的な自己破滅型の私小説作家であった。1948年6月13日に愛人であった山崎富栄と玉川上水で入水自殺。

「2022年 『太宰治大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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