- Amazon.co.jp ・本 (194ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101290386
感想・レビュー・書評
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10年前の小説
出会い系、露出
まあまあおもろいけど時代のもの感はすこしある
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『私とは何か――「個人」から「分人」へ』を読み、この本を手に取ったが、内容がハード。それでも平野さんはやはり凄いと思わせた一冊。
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平野さんの分人主義を表現した小説だという。ネット社会とセクシュアリティの問題を題材にもしている。ということで読んだ。実験的な感じかな。
Amazonの書評を読むと「分人」への言及がほぼなかったのに対して、ブクログの書評では「分人」へ言及している人の割合が相当数いる。Amazonブックレビューとブクログのレビュワーの層の違いがこの辺に反映されていたりするのかもしれないな。
『私とは何か――「個人」から「分人」へ』
http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062881721 -
いまいち。
事件の種類が違えど、社会に適応できない主人公とそれを取り巻きややもするとそれを助長させる環境や社会、というテーマは決壊とかぶるし、決壊より後に出ているのに比較にならないくらいしょぼい内容だし、別にって感じだった。
普段見ることのできない変態の世界が見えた、という意味で好奇心が満たされたくらいかな。 -
作家、平野啓一郎氏が描くネット社会の齎す『闇』を取り扱った小説です。地方の中学教師・吉田希美子と歪んだ女性観を持つ地方公務員・片原盈。出会い系サイトを介して二人が出会った先にあるものは…。
芥川賞作家、平野啓一郎氏が『現代』と『性』をテーマに描いた衝撃的な作品です。最初にこれを読み終えたときはあまりのショックでしばらくの間考え込んでしまいました。もともと、このようなテーマで平野氏が執筆を考えたのは、伝え聞いたところによると平野氏があるときネットサーフィンをしていて、偶然、いわゆる『露出プレイ』をしている人たち向けの専門サイトで「そのテ」の写真を見たことに端を発するのだそうです。
物語は二人の主人公によって進められていきます。どこにでもいるような生育暦を経て中学校の社会科教師となり、滋賀県の中学校で教鞭をとる吉田希美子の物語からスタートします。彼女は生徒の実態調査から『出会い系サイト』に「ミッキー」というハンドルネームを持ち、出入りするようになります。彼女の存在そのものが『欲望』の対象として見られるということにある種の『恍惚感』を感じつつある彼女は、地元の市役所に勤める陰気で歪んだ女性観を持った独身公務員・片原盈(みつる)でした。
彼の生育暦や女性観に関しては具体的な描写が記されているのですが、あまりにあまりな内容ですので、ここではあえて記さないことにします。出会った二人は居酒屋でおざなりの会話を交わしたあとで、ラブホテルに行き、関係を持つことになります。それから、彼等二人のものすごく倒錯した心身のやり取りと、吉田希美子が中学校の教師として営む日常の『水と油』のように決して交わらない『二つ』の世界が続いていくのです。『行為』のどこまでも倒錯した世界は書き方によってはどこまでも下品に書くことが出来るのですが、そこをあえて行わず、本書が文学作品たらしめているのは、平野氏の持つ硬質な文体のなせる業であり、これがなければ単なる『変態カップル』の顛末というだけになっていたでしょう。
エスカレートした二人はあらゆる『行為』を映像に、画像に収めていくようになっていきます。ある日、吉田希美子が投稿サイトに《ミッキー&ミッチー》として投稿された顔を消された自分の裸体が大量に溢れているのを目にするのです。思えばここから先が『賽が投げられた』瞬間だったのでしょう。『野外露出』や『野外プレイ』にエスカレートしていく吉田と片原。そして、ある日、学校に憎悪を持つ片原が『行為』に選んだところが自身の卒業した母校でありました、『真っ最中』に見つかった二人。捕まえようとした教師をサヴァイバルナイフで切りつけ、刺し。最後に取り押さえられる片原。何も出来ずにただおろおろする吉田希美子。崩壊へのカタルシスと、これが事件化され、二人の『行為』がマスメディアを通して世の中に晒される、というところで物語は終わります。
本書を読み終えて、まず思ったことは、平野氏の唱える『分人』という考え方で、(この段階では言葉そのものはない)平野氏いわく「すべての分人を統合するのは『顔』である」という言葉から考えると『ミッキー』という片原盈の前で痴態を曝す分人と、中学教師・吉田希美子という分人は『モザイク』によって分断されていたのですが、事件化されてモザイクで隔てられた『分人』が統合され、『ミッキー』と『吉田希美子』という『水と油』だったものが『ひとつ』になってしまった…。そんなところに彼女の『悲劇』があるのではなかろうか…。読み終えた後にそんなことを考える自分がいるのでした。 -
若干人間の想像力を見くびった発言だが、男性の作家が生理の苦痛を適切な表現で過不足なく記述しているのを読むと一瞬ぎょっとする。本書の肉体に対する描写はとてつも好きだ;抑制されており端的で、性的なのに煽情でない。
2005年12月出版。それは2002年の池田小事件からしても、出会い系サイトや素人投稿系サイトが流行りだした00年頃からしても少し遅れている。でもその時期だからこそ冷静にかけたのかもしれないし、それだから考察が深まっているのかもしれない。
作家自体がインタビューで言っている:インターネットの世界の住人ならなんなく書ける話かもしれないが、それだと一部の世界の話とされてしまう。僕の厳格な描写でもう一度物語にして社会にちゃんと位置づける必要があった。そこまでの意識があれば言うことはない。
以上のレビューからみてとれるように、とても共感や意義を感じる作品なのだけど、完成度という意味では中庸です。 -
露出系カップルが起こした社会事件を題材に、男と女の表と裏の顔を描く本作。
一体いつから、セックスという名の性器の擦り合いを、肉体的接触のないフェティッシュ的な行為においても、性的興奮を得られるように現代人はシフトさせていったのか??
今や変態が変態でなくなっているメディアによって描かれるエロに迫り、一気に読ませます。
そして。
「事件直後の取材では、犯人の周囲にいた者たちは、大抵彼を『ふつうの』」と評するものだが、これは無意識の社会的な責任の回避である」
まさしく、みんながそうやって何とか世間という自分たちの住み処を保っているんだよな。 -
男の思考が童貞をこじらせすぎてる。
決して理解したくないのにわかってしまうのは私も寂しい人間だからなのかも。