復活(下) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (375ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102060193

感想・レビュー・書評

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  • ロシアの文豪レフ・トルストイの晩年の傑作『復活』を読了した。

    非常に面白く、一気読みだった。

    ほぼ2日で下巻も読了。上下巻で1週間かからないで読んでしまったことになる。

    本書のあらすじであるが、

    ロシアの貴族ドミトーリィ・イワーノヴィッチ・ネフリュードフ公爵は、ある時強盗殺人事件の陪審員を務めることになる。彼が出席した裁判で被告人として現れたのは、10年ほど前、彼がかつて恋仲になり、一度の過ちにより子供まで身ごもらせてしまった美少女カチューシャ・マースロワであった。
    その時、彼は彼女に金を渡してそのまま捨ててしまったのであるが、彼女の人生はそこから坂を転げるように堕ちていき、今は娼婦に身をやつしていた。
    裁判では、彼女は強盗殺人事件について無罪となるはずであったが、形式上の手違いから有罪となってしまいシベリア送りの懲役刑を言い渡されてしまった。
    そんな彼女を救うため、ネフリュードフ公爵は刑務所に赴き、カチューシャだけでなく数多くの囚人や役人等と面会し、その結果、裁判制度や貴族と農民との関係、そして上流階級の人間のためだけに作られたこの社会全体の不条理に疑問を抱き、それを変えようと奔走する。

    というものである。

    本書は、非常に分かりやすく、手に汗握る展開で、この先ネフリュードフとカチューシャがどうなってしまうのかとむさぼるように読んでしまった。

    この『復活』という題名の意味であるが、2つの意味があると思う。

    まず、良いところも悪いところも含めた貴族社会の風習にどっぷりと浸かっていたネフリュードフが社会の底辺の人々の生活を目の当たりにし、上流階級の人間が庶民を搾取して良い暮らしをしているという社会のいびつさに気づき、精神的に別の人間に「復活」するという意味。

    そして、二つ目は、カチューシャの精神面での「復活」である。
    彼女が若かりし頃、心底愛したネフリュードフに捨てられて人間不信となり、売春婦に身を落としたものの、そこで彼女の若く美しい美貌が武器となって「売れっ子売春婦」という立場にまでなり、それに対してある種の優越感すら抱きはじめ、すべての社会に対して斜に構えるような精神状態になってしまったカチューシャであったが、刑務所内で出会った刑法犯囚人や政治犯囚人の心情や考え方に共感を抱き、真の人間性を取り戻すという、彼女の精神面での「復活」の意味が込められているのだろう。

    最初、読者はネフリュードフとカチューシャの恋愛物語として本書を読み進めていけるのだが、本書が進むにつれ、次第にネフリュードフやカチューシャの心情に自己投影させていく。
    そこには恋愛論だけでない深い社会に対する洞察が込められている。
    単なる恋愛ものの小説であれば、これほど時代を超えて多くの読者の心に残ることはないのであろう。

    ネフリュードフは、自分の所有する領地に赴き、そこで働く極貧の農民たちの暮らしをじかに感じ、刑務所ではほとんど罪が無いにも関わらず、社会的に底辺の人間であるという理由で有罪となり、刑務所につながれている多くの囚人たちの姿を見、さらに、この社会のいびつさを声だけに主張したということだけで、政治犯として獄につながれた政治犯囚人たちと交流し、この社会のいびつさに全く気が付かない上流階級の人間や軍人、役人たちの言動を聞いた後のネフリュードフは
     「今まで自分がいた社会」と「本当にあるべき理想の人間社会」
    について思い描くようなる。

    一方のカチューシャは、純粋無垢であった少女時代の価値観を次第に取り戻していき、真の人間的な愛のカタチを思い出していく様が生き生きとつづられていく。

    本書の後半には非常に個性的な政治犯(政治犯といっても、読者から見ればごく普通の人たち)が多数登場し、彼らとネフリュードフやカチューシャとのやりとりは当時のロシアの現状を垣間見ることができ、非常に興味深い。

    本書が書かれたのは1899年であり、それから約6年後に起きる1905年の「血の日曜日事件」を発端としたロシア第一革命直前であるといえる。
    つまり、この小説で描かれている背景を知ることにより、ロシア社会主義革命の最初の道筋を垣間見ることができるのである。

    本書は、まさに当時、その社会を痛烈に批判した風刺小説でもあり、将来、革命の嵐が吹き荒れるロシアの姿を予言する「予言の書」であるともいうことができるだろう。

  • いつから読み始めたのか、もう覚えていないが、ようやく読み終わった。長編小説を読む元気が長らくなかったため、読みさしでかなり長いこと放置していたが、ひさびさに開いて読んでみたところ、わりあい容易く読み終えてしまった。長編小説って、読めるときは読めるし、読めないときは読めないもんですね。

    内容について、改めて何か書く必要など無いくらいに有名な本だと思うので、とくに内容についてまとめたりはしません。そういうのは不得手ですし。

    印象に残った部分をひとつ引用したい。

    「《人間の内部にひそむ野獣の動物的本能はいとうべきものだ》彼は考えた。《だが、それが純粋な形であれば、人は自分の精神生活の高みから見下ろして、それを軽蔑することができる。たとえ堕落しようと、自制しようと、これまでどおりの自分でいることができるからだ。ところが、この動物的本能がいつわりの美的で詩的なヴェールの下に隠れていて、自分に対する跪拝を要求するような場合には、人はややもするとその動物的本能を神聖なものにしながら、もはや善と悪の区別がつかなくなって、その中へ没入してしまうのだ。そうなったら、恐るべきことだ》」(pp. 180–181)

    私たち人類は今もなお、「いつわりの美的で詩的なヴェール」に隠れた「動物的本能」の陥穽に嵌ったままで、ずっと抜け出せないでいるように思います。もうずっと「恐るべきこと」の渦中にいるのだと思います。いったい、いつになったら自由になるのでしょうか。この本にはそのヒントも書かれているように思いますが、そうなる時が来る気配はまだまだ感じられません。フロイトはアインシュタインとの書簡で、人類が十分に文化的になれば自ずと争いを嫌悪するようになり戦争はなくなる、といったことを言っていましたが、文化的には程遠いように見えます。

    また、「文化」的なものにも注意しないといけないのではないかと、そんなことをふと思いました。そこにもヴェールに隠れた「動物的本能」が紛れており、われわれに跪拝を要求している。となると、いったい何を信ずべきで、何を遠ざけるべきなのでしょう。それはどのようにして、見分けられるのでしょうか。

    ……そんなことを考えると恐ろしくなってしまうので、程々にしておきましょう。

  • 上巻を読み終えた際、
    数奇な運命に翻弄され、再び引き寄せられた二人は、
    この後一体どうなってしまうのかと思った。
    しかし、あのような結末を迎え、
    その結末を読者の自分は受け入れつつも、
    他にも違った物語の終わり方があったのではないかと
    考えさせられた。

    ハッピーエンドなのか否か、
    といった次元では判断できない結末だと思う。

    いつの間にか喪われていた、
    人としての誇りや生の実感を「復活」させ、
    お互いが「己にとっての正義」と信じた事の実行に向かい、
    突き進んだ二人の姿は美しい。

    物語もいよいよ終わりを迎えようとした時に、
    刑務所の事務室で二人で交わす会話がしみじみと美しくて、
    自分は好きだ。

  • ネフリュードフとカチューシャの物語のしてみると、報われない恋というかきっとこの先それぞれにとっての人生での幸福や充足が期待される展開でよかったなと。ラブロマンスとしては物足りないような気もするが、きっとトルストイの描き出したかったのはそこじゃないと思うからどうでもいいっちゃどうでもいい。
    最初の方は格差社会に対する強い批判を感じていたけど、実はそうではなく当時のロシアの徹底的警察主義を批判していると言うもの。たしかに批判の標的になるのは司法や刑罰に関するものばかりで、貴族を糾弾するわけでもないし社会主義を強く擁護したりするわけでもない。最終的にネフリュードフがたどり着いた救いの道は、ある意味基本にかえるということのように感じた。福音書に書いてあること、ただの理想と思っていたけれどもいざ心境が変わってから読むと真理が浮き彫りになってくる。世界の真理というは絶対的に単純なもののはずだけれども、抽象的すぎるために現実世界で実践するには幾多もの解釈が生まれて複雑になるような気がする。

    みな人間はその愚かさを自覚すべきであり、そうなると人間が人間を裁く、罰するということはちゃんちゃんらおかしいというのがイエスの教え。右の頬を張られたら左の頬を差し出しなさい。神を信じず自分を信じる、といった老人の主義は、本質的にはこのイエスの教えと通ずるもののはずなのに、キリスト教を布教するイギリス人の目にはそう映らなかったのはなぜか?こんなに言葉で説明するのが難しいことを、小説という形にして見せてくれるトルストイ、やっぱり大文豪だ。

  • トルストイ晩年の作。クロイツェルソナタなどと同様、信仰や性、生き方に対する厳格な姿勢が読み取れる。作者自身が人生の中で到達した境地を、ネフリュードフという若い主人公に託しているため、主人公の改心は少し性急な感もあるが、その後の揺れ動く心理描写など、文豪の筆が冴え渡っている。登場人物のその後が気になる、深い余韻を残す作品。
    前半、主人公に結婚を申し込んまれたカチューシャが言った、「改心という自己満足の材料に利用されるのはまっぴら」という意のセリフが、物語の結末と呼応しているように思った。
    (2015.6)

  • トルストイ『復活』新潮文庫

    陪審員のネフリュード公爵は我が目を疑った。被告人はかつて自分が犯した女カチューシャ…そしてシベリアへ流刑されることとなった彼女と自らを救うべく、ネフリュード公爵は奮闘する。

    ”ー社会や秩序が存在しているのは、他人を裁いたり罰したりしているこれらの合法的犯罪者がいるからではなく、むしろこうした堕落した現状にもかかわらず、人びとが互いに愛しあい、憐れみあっているおかげなのだー”

    解説によると、題材はトルストイの実体験と知り合いの実体験。
    知り合いの実体験はストーリーにおけるドラマティックな部分を担っていて、トルストイは知り合いに
    「そのエピソードめっちゃおもろいやん!小説にし!え、書かんの?ほな俺書きたいからそのエピソードもらうで?」的なことを言って、10年もかけて書いたのが本作品。

    話の筋道からそれてトルストイの批評文みたいなのがちょいちょい出てきて、そういうの好きじゃない人は鬱陶しく感じるかもしれない。私はそこが好きだったけれど。

    トルストイの他の作品に凄く惹かれる。
    読みたい。
    けれど、それはまたのお楽しみに。

    非常に読みやすく、面白い小説。
    凄く好き。
    一気にファンになりました。
    ロシア文学が合っているのかも。

    てかネフリュード公爵はポジティブ過ぎてワロタ。
    カチューシャがあんたをふったのは、別にあんたのためじゃないと思うよ。
    あいつのことを本気で好きになったんだよ。
    決してお前の為ではない!
    結局は全部、金持ちおぼっちゃまの自己満足でしたなかった感は否めない。
    カチューシャに利用されてただけだよ?
    どんまい。

  • 結論がキリスト教に丸投げになってしまっており非常に残念でしたが、テーマ、心理描写などは大変面白かったです。
    堕落しきった男が、自分の犯した罪のために堕落した女と再会することで、かつては信じていた善の原理に立ち返る(=復活する)…という、まあありきたりな道徳劇といえばそうなのですが、なかなかどうして、主人公であるネフリュードフの復活に対する周囲からの冷たい反応や、これまでの安楽な生活への様々な誘惑など、復活に至るまでの苦しい心理描写が真に迫っており、『現実に魂の復活なんてありえないのではないか?』と思わされるほどにそれが困難である部分にトルストイ自身の血が通った想いが感じられ、こういった物語にありがちな薄っぺらさ、白々しいわざとらしさがなくとても興味深く読めました。
    個人的には『戦争と平和』の方が好きですが、同テーマの物語群から考えると抜きん出て面白いと思います。

  • 現在の日本が、太平洋戦争前の状況に似ている、という人が沢山いる。戦争をしたい連中が権力を握っている!
    それ以外にも、帝政ロシア末期の状況にも似ていないだろうか?
    例えば以下のような記述は恐ろしいくらい、今の日本に似ている。

    p.37
    「でも、人がほかの人といっしょに福音書を読んだからといって、その人を流刑に処すことのできるような法律がほんとに存在しているんですか?」
    「いや、あまり遠くないところへ流刑にできますし、徒刑にだってできるんです。もし福音書を読んで、それを他人にむかって上から命じられているのとは違ったふうに説明した、つまり、教会の解釈をあえて批判したということが立証されさえすればですね。公衆の前で正教の教義を誹謗すれば、第一九六条によって移住流刑ですよ」
    「そんなばかなことが」
    「本当ですよ」

    p.279
    もし弱ってあえいでいる人間を見つけたら、隊列の中から連れ出して、日陰で休ませ、水をやったことだろう。そして万一、不幸な事態が起こったら、同情したにちがいない。ところが、連中はそれをしなかったばかりか、他人がそうするのまで邪魔をしたのだ。これはつまり連中が目の前に人間と人間に対する義務を見ないで、ただ勤務とそれが要求するもののみを見ているからだ。そのようなものを人間関係の要求よりも上に置いているからだ。それがすべての原因なのだ。

  • クロイツェルソナタの次に読んだトルストイなので、やはり女性が嫌いなのかなー、と思ってしまいます。
    無責任と、悪の定義の仕方、そして悪をどうすれば根絶やす事ができるのか。
    この二つが特にストレートに響きました。
    トルストイ作品で一番好きかも知れません。

    作中でも言っていますが、カチューシャをだしにして過去の罪から救われようとしているのは、腹立たしい事です。
    ネフリュードフにはもう少し手痛い目にあってほしかったです。

  • 『罪と罰』も好きだけど、こちらの方がもっとすき。人間ってやり直せるんですね、復活て言葉がいいですね。

  • ・相手に対して愛情がないときにはむりやりに接しようとしない。

    【引用】
    「要するに、愛情抜きで他人を取り扱えるような立場があると人びとは考えているが、そんな立場なんかありはしないのだ。そりゃ相手が物なら愛情抜きで扱うことができる。(…略)ところが人間を愛情抜きに扱うことはできない。」

    「もっとも、人間は自分をむりやりに働かせることはできても、むりやりに愛することはできない。しかし、それだからといって、愛情抜きで人を扱ってもいいということにはならない。とくに相手から何かを要求する場合はなおさらだ。もし他人に対して愛情を感じなかったら、おとなしくじっすわっていればいいのだ》 (…略)
     《そんなときは、自分なり、品物なり、何でも好きなものを相手にすればいいので、ただ人間だけは相手にしてはいけないのだ。ただ食べたいときに食べるのが、害がなくて有益な食べ方であるように、ただ愛情のあるときにだけ人に接するのが害がなくて有益な人とのつきあいというものだ。(…略)
    愛情がないのにむりに他人と接すると、さきほど見たような他人に対する冷酷な仕打ちが次々に生じて、自分でもこれまでの全生涯で経験したような苦痛を無限に味わわねばならないのだ。」


    ・自分の置かれている状況のために、相手と結ばれることが相手をもだめにしてしまう。

    【引用】
    「(シモンソン)『ぼくが知りたかったのは、あのひとを愛し、あのひとの幸福を願っているあなたが、ぼくとの結婚があのひとにとって幸福であると認めてくださるかどうか?』」

    「『お別れはいいませんよ。またお会いしますから』ネフリュードフはいった。『許してくださいね』彼女はほとんど聞きとれないくらいにささやいた。二人の目が合った。すると、彼女が『さようなら』といわずに『許してくださいね』といったときの、その奇妙な斜視の目とさびしげな微笑によって、ネフリュードフは、彼女の決意の原因について二通りに想像したが、後者が正しかったことを、悟ったのであった。
    彼女は彼を愛していたのだった。そして自分を彼に結びつければ、彼の一生を台なしにしてしまうが、シモンソンとともに立ち去れば、彼を解放できると考えたのである。そして今や自分の決意を実行したことに喜びを覚えながらも、それと同時に彼との別離に苦しんでいるのであった。」

  • 「一般に社会や秩序が存在しているのは、他人を裁いたり罰したりしているこれらの合法的犯罪者がいるからではなく、むしろこうした堕落した現状にもかかわらず、人びとが互いに愛し合い、憐れみあっているおかげなのだ、と今やネフリュードフは悟ることができた」

    彼の贖罪の旅は、さまざまな過程を経て、彼の内面へと立ち返っていきます。そして彼は上記のことを悟るのです。すなわち戒律を実行すれば、神の国が実現するのではなく、戒律の実行以外に人類を生かすものはないと。
    上巻では彼の贖罪の旅が、外部にどう受け止められていくのか、と考えていましたが、それはこの話の続きで語られるべきことと思います。彼はこの時点で、罪を犯しやすい現代人ではありますが、キリストと同格の存在になったのです。まさにここにおいて彼は「復活」したのであり、現代におけるキリスト教も「復活」したのではないでしょうか。

    この宗教的な読み方でなくとも、当時の帝政ロシアへの痛烈な批判や、革命家の思想など、この小説からは多くのことを読むことができます。キリスト教を軸にしつつ、それらの問題を絡めた素晴らしい作品です。是非読んで下さい。

  • シベリアへの長い道のりを、ネフリュードフはひたすらカチューシャを追って進む。彼の奔走は効を奏し、判決取り消しの特赦が下りるが、カチューシャは囚人隊で知り合った政治犯シモンソンと共にさらに遠い旅を続ける決意を固めていた──。

    本編のクライマックスで描かれるカチューシャの痛ましいまでの決意、そして全編を通して描かれるネフリュードフの人生観そのものの更生──それはまさに、「復活」と呼ぶにふさわしい、一人の人間の成長と革命の姿であろう。
    権力やカネに取り憑かれた人間の愚かさと恐ろしさに憤慨し、彼らの力に虐げられ苦しめられながらも、「人間」として強く生き抜こうとする民衆たちの姿に感動した。

  • 嘘みたいな禁欲志向。懺悔もしくは贖罪のために書いたのだろうか。

著者プロフィール

一八二八年生まれ。一九一〇年没。一九世紀ロシア文学を代表する作家。「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」等の長編小説を発表。道徳的人道主義を説き、日本文学にも武者小路実らを通して多大な影響を与える。

「2004年 『新版 人生論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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