- Amazon.co.jp ・本 (410ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103982043
感想・レビュー・書評
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小説論はあんなに面白いのに、期待値が高いからつまらなく感じてしまうのか。やろうとしていることはわかるし、その意義もわかる。でも最後まで読めない。なぜ読めないのか、考えさせられる(そういう意味ではこれも著者のいう「小説」の醍醐味なのか)。原因は「オヤジ」的なユーモアの感覚と猫? 猫好きじゃないと、猫のくだりは楽しめない。
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しえー!本物の作家だべー!と思った。でも、そんな小難しい事をごちゃごちゃ考えてないで、仕事しろと思った。この文章は合う人にはすごく合うんだろうな・・・合わない人にはすごく読み辛いかも。
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最近この人の本を読んでいなかったせいか、妙に理屈っぽく感じられて、この分量を読むのは正直辛かった。
ええいうるさいさっさと小説を書かんかと主人公にツッコミを入れたくなってしまった…。
この人のもう少し短い小説を読み直してみるかなあ。 -
作中で交わされる登場人物たちの会話は、ごくありふれていて、だからこそ読んでいて心地がよい。
ただほとんど何も起こらないので、途中で飽きてしまう。
時間がない人にはお勧めできないかも。 -
保坂和志の中でも随一かと
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読み始めた途端、やられた、と思った。小説家でもなんでもないけれど、やっぱり、やられたと思った。こんな話を自分も書きたかったんだ。目が覚めてから寝つくまでの一日を、淡々と描くような話を。一つ一つの行動と、その時ふと頭をよぎった一見脈絡の無い思考を、丹念に書き起こし、それを書きながら膨らむ連想もどんどん加えていくような話を。やられてしまった。しかも見事に。
主人公は中年の小説家である。若い頃の思い出が多くある大きな古い家に、今は住んでいる。かつてこの家では大勢の家族が一つ屋根の下で暮らしていた。その残照のようなものを、主人公は感じるとも無しに感じ、そして、かつてそこに「あった」物や人が残した、意識の残像のようなものに考えを巡らしている。その残像の影響かどうかは解らないが、今でもこの家には比較的多くの住人と半住人がいる。ただし、交わされる会話は思いのほか少ない。少ないまま話は進んでしまう。恐らくは、描かれている以上の会話があるはずなのだが、一日中家に居る主人公の耳に入ってくる会話は、途切れ途切れのようなもので、それは主人公の意識がどこか他を漂っているせいであるのかも知れない。
カンバセイション・ピース、のピースはpieceだと思うが、peaceのニュアンスもあるのかも知れない。カンバセイションの方である会話については、鍵括弧の中で改行されるその書かれ方に読み手である自分は、まず、はまる。その会話が断片化されそうでされない感じがとてもよく伝わる。その切れそうで切れない感じがないと、主人公の連想のような思考は立ちのぼってこないのだ。
読みながらふと思う。この小説の中にどの位作家自らの体験が含まれているのだろう。もしそれが半分にも満たないとしたら、こんなことを想像できる保坂和志って天才かも知れない。逆にもしほとんどが何らかの経験に基づいているものだとしたら、限りない親近感が保坂和志に沸いてくる。この本は文句無しにすごい本である。
とにかく余りにも圧倒されてしまって、一言たりとておそろかにできない。ついうっかり何か他のことを考えている自分に気づいたら、見覚えのある個所まで戻ってしっかり読み直す。いつもの何倍も丁寧に読んだ。でも、主人公がゆるゆる考えを紡いでいくのを追いかけていると、どうしても自分にも連想が始まってしまい、意識が本から遠のいてしまうのだ。この本はとても刺激的なのだ。
刺激的と言っても、話の中では何も事らしい事は起こらない。ただただ日常が描かれる。少なからぬ登場人物が主人公の周りにはいるのだが、圧倒的にお話は主人公の頭の中で起こる、無意識のような思考のようなもの、を中心としている。もちろん、会話も交わされるのだが、その会話も何か哲学的に響き、主人公はそれをきっかけに、またまた別のことを考えている。そんな様子を読み手はなぞるようにして追いかけるのだ。刺激的というのは、主人公がどんなことからも様々な考えを膨らませて連想していく過程から感じることであって、扇情的なものなど何も無くても、生きているそのこと自体が持つ次元の広がりを感じさせてくれるからこそ、そういう印象になるのだ。
それはある意味で逆の発想でもある。つまり如何に日常において色々な思いが心の中に沸いているのに、そのことに気づけないか、ということなのだ。寝ている間も起きている間も、人間は一瞬たりとも脳の活動、つまり精神活動を止めることはないだろう。それは、例えば科学的に測定できる脳の血流量の変化がどうとかいうことではなく、実感として、夢を見たり一つのことに集中できなかったり、というように確認することができる。そのことに同じように気づいて、それを文章にしている人がいることを発見したことに、実は大きな驚きと嬉しさを同時に覚えているのだ。
そんな細々した精神活動がなんで起きてしまうか、といえば、それは様々な信号が脳に入りこむからで、中でも目からの情報の処理で脳は忙しい。ところがこの情報は生きて行くことに必要な情報としての側面が強くて、実際には少し脇に置かれている耳からの情報が、知らない内に無意識の思考と呼べるような精神活動を刺激している場合がある。だからこそ、この本で描かれるように、ちょっとした会話の端々が気に掛かる、ということが起こるのだろう。
ちょっとした会話の端々が気に掛かる、というのは、気に掛からなくなるまでその会話の相手との距離が縮まるまで、誰にでも起こることでもある。そして縮んでしまえば、その相手との会話からはトゲトゲしたようなささくれ立ったものは減っていき、会話をしながら相手のことを充分思いやれる余裕が生まれてくる。主人公とその妻の間にはその縮まった距離が存在し、それ故、妻との会話で主人公の意識が遠のいていく頻度は高くない。一方、その他の住人とは距離があり、会話から色々な思いが繋がって出てきてしまう。そのことが、この本の描いている唯一のドラマらしいドラマだ。
何度もいうが、この本では何も大きな事件は起こらず、だから何も解決しない。それは現実の日常生活としてはとても普通のことだ。しかし、その普通のことだけでこの小説は見事に成り立っている。しかも、普通のことの中に普通にある筈の、一人一人の頭の中で渦を巻いている考えのようなものが、こんなにも面白いことなのだ、ということも教えてくれる。
そんな淡々とした進行の中、最後の最後に住人たちが皆揃い、バラバラに会話の輪を広げたり狭めたりする様子を描いた場面が、唯一圧倒的なクレッシェンドを感じさせる部分だ。この部分には主人公の漂っていく連想が割り込まない。そして、本来、会話は客観的に眺めるとこうなっている筈なのだ。ここに至って、住人の間の距離がとても縮まった感じが得心される。それがこの何も事らしい事のない小説の中で際立っていて、自然に話が終了することを読み手に了解させる。読み手は、ああ何も起こらなかったと思いつつ、読んだことに一切後悔を感じない。そして、やられたと、また思う。
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綿密に書かれた野球試合の様子、住む家の構造、自然、思弁そして人々の(時に途方もなくスケールの大きな)会話。そういったものがタペストリーのように織りなされ、豊かな世界を産み出している。実に保坂はその五感を通して世界を体験/体感し、それを文字だけで構成される小説という器の中で私たちにも追体験させんと書き綴る。ゆえにその記述は安易に読み飛ばしてしまってはならない。ダラダラと書き連ねられているようで、こちらの五感を試す実験的な試みがなされているようでもあり、実にオーソドックスな日本文学の世界に回帰する作品でもある
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つまりよ、ちょっと大きめの一軒家があって、そこに作家である主人公と妻と、親戚の娘と、その家の一部を借りて仲間で会社をやってる人と猫が出てきて、それをぐだぐだぐだぐだぐだぐだぐだぐだぐだぐだ描写して考えるわけよ主人公が。猫が階段登って降りてエサ食ったとか死んだ猫はどうだったとかベイスターズがどうしたこうした、と400ページ。もうムキになって最後まで読んだが、わたくしには合いませんでした、と言うしかない。
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初めて読んだ保坂作品でした。
井之頭五郎のようにいいぞ、いいぞとか心の中で呟きながら読んでました。
親戚から預かった世田谷の古い家で、夫婦と姪と会社をやるのに間借りしている友人3人と、そして猫たちの日常風景。住人たちの会話や主人公モノローグで進行していきます。
ストーリーなんてないようなもの。日常の会話にしては哲学的なやりとりです。
何気ない言葉の中に時折はっとするような真実をついてくることがある。
穏やかに過ぎていく文章にぼんやりしていると、大切な言葉に気づけない気がして、できるだけじっくり読みました。
とはいえ、正直わからないときはわからない。人それぞれ共感したり強烈な気づきになる部分は違う本かもしれません。時間がたったら今とは違うところに感動するのでは。
そう思って、何年か置いてからまた再読したいです。