外国人が見た日本-「誤解」と「再発見」の観光150年史 (中公新書 2511)
- 中央公論新社 (2018年10月19日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121025111
作品紹介・あらすじ
明治初期、西洋が失った「古き良き」文明に魅了された欧米人は、数々の紀行文を記し、その影響で観光客は増加していく。日本側も「外国人の金を当てにするのは乞食同然」「一等国こそ賓客をもてなさねばならない」という論争を経て、国策としてのガイドブック作成、ホテル建設など、観光客誘致に邁進する。しかしそこには常に「見たいもの」と「見せたいもの」のギャップが存在していた。観光客誘致でたどる近代史。
感想・レビュー・書評
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本来なら東京オリンピックは、外国からの観光客を迎えてアピールするいい機会だったのだろうが、コロナウイルス感染拡大でうまく行かなくなった。
外国人が日本のどんな所に期待してやってきたのか、そして迎える側の日本人が見せたかったものの間にはギャップがあったようだ。
明治時代に外国人が日本のどのような点に興味を抱いていたのかわかるのが旅行案内書だ。
アーネスト・サトウという幕末に日本にやってきたイギリス人外交官が編著者として関わった旅行案内書がある。それは「明治日本旅行案内」だ。最初は横浜に拠点を置くケリー社から発行された。第2版からは創業1768年のイギリスの出版社マレー社から出版された。
食べるものに苦労していたのだなと思わせる箇所があった。今と違って外国風の料理を食べることもなければ、レストランもあちこちにある時代ではないからなあ。
それにノミや蚊には苦労した。イザベラ・バード「日本奥地旅行」で、宿泊した宿でノミに何度も悩まされたことを記している。
「明治日本旅行案内」によると、日光が3番目に位置する。著者も指摘しているが、今ならもっと低い。しかし、日光東照宮があり徳川将軍家と関わりが深く、過去とこれからついて関心を持っていた。
意外なことに最近だった日光東照宮のきらびやかな陽明門に関する記述は淡々としたものだった。
今でも意外なことに関心を示して驚いたことがある。それは渋谷のスクランブル交差点だ。日本人でも見慣れない地域から来た方は驚きはするが、わざわざ見に行くほどのものとは思っていない。
外国人からすると横断するときに誰ともぶつかることのない姿を見て驚くようだ。
外国人が見たいものと日本人が見せたいものにはズレがあってもおかしくはない。お互い異文化で生活する生き物なのだから。 -
明治維新、開国から現在まで外国人観光客の誘致の歴史を俯瞰する。外国人の求める日本と日本人の見せたい日本のギャップが興味深い。
外国人向けの観光ガイドブックに記される観光スポットは日本人のイメージと時に大きく異なる。京都の伏見の鳥居などはその顕著な例。
明治から大正、昭和戦争を経てその後平成、令和まで、外国人観光客を増やそうとする歴史について語られる。
最終章は偶然ながら観光産業のリスクについて。戦争、テロのほか伝染病によるリスクについて指摘を奇しくも筆者の懸念は新型コロナウィルスの蔓延により的中してしまった。
壮大なテーマをコンバクトに解説。新書ならではと一冊。 -
外国人観光客は、日本の何を求めて旅行に来ているのか。
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■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
【書籍】
https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/1001134149
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最終章の提言は観光に関わったことのある人にとっては新しみはないが、前段の歴史の部分は改めて日本が辿ってきた道を確認するのにコンパクトにまとまっており読みやすい。1930年代から同じような議論をしていることがよくわかる。
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これは日本の観光産業の歴史を綴った本です。
明治の開国以来、外資の獲得手段の一つとして
日本へ観光客を呼び込むことは、重要な施策
であることは誰もが想像できると思います。
途中に戦争や関東大震災などの不幸な出来事
で中断はあるものの、戦後最大の中断理由は
「貿易黒字」なのです。
それはバブルの頃でしょうか。内需拡大なんて
叫ばれていた時に、外資をもっと、なんて
言えるわけがないです。
その貿易不均衡が解消された今だからこそ、
観光客を大勢呼び込もうと言える時代になった
のですが、コロナが憎らしいです。
おそらく「貿易黒字」に次ぐ、中断理由として
歴史に残されると思うこのコロナ禍ですが
きっとまた復活することを祈って読むべき
一冊です。 -
●→引用
●当時の西欧人には、前記のように自分たちの「伝統を擁護」しなくてはならない理由があった。いっぽうで日本人には、外国と対等にわたりあうため富国強兵を推し進め、封建時代からの「伝統を壊す」必要があった。その相違がぶつかりあった時代での見解の相違である。このことは、外国人と日本人との間で、日本の魅力に対する感じ方、ギャップの根深さを浮かび上がらせているように思える。
●現在書店に並ぶ旅行ガイドブックはどこへ行ったらいいか、何を食べたらいいかを教えてくれるハウ・トウー本の領域にとどまっている。その土地の歴史、文化、自然地理、芸術、文学、動植物といった教養に属する記述はほとんどない。あってもほんの数行程度である。昭和の末ごろまでは国内の旅行ガイドブックなら、地元の郷土歴史家や地方紙の文化面担当者、高校の教師や大学教授が著者となり、見どころの歴史などを案内していた。外国旅行のものならその道の権威筋といった大学教授などが著者として名を連ねていた。これらは明治時代以来の旅行案内書の特徴、さらにいえば欧米の出版社による旅行案内書の伝統を引き継いだものだった。
●西欧人と日本人との大きな相違の一つは、身近な日常の中に宗教が根付いているか否かではないだろうか。西欧人の多くは、日常生活の中で祈りを捧げることのほか、旅先でも教会などでは親が小さな子に壁画を指さしながら「これがペテロで、あっちがパウロで・・・」などと絵の中の話を説明している光景をよく見かける。普段絵本で読み聞かせている聖書の中の話を、出かけた先の教会でも自然にしている。旅先でも宗教が離れずにある。日本人の場合、宗教が生活の中に入っておらず、お寺との関りをもつのは法事のときくらい、という人が多い。旅と関連した庶民の間の宗教的行為といえばお伊勢参りがあるが、それも盛んに行われた時期とそうでない時期があり、旅と宗教的行為との関係は比較的薄い。
●政府が国内力制限を全面撤廃しなっかた最大の理由は、条約改正において格好の交渉道具と考えていたためである。よく知られているように、幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を改正することは、明治政府にとっての最重要課題だった。
●中国人へは、日本の伝統的見どころを見せても、かえって歴史が浅いと見下されてしまう。中国人へは近代的姿を見せただけである。韓国人へは、近代的側面と歴史的側面、その両方を見せた。(略)同じ東洋でも国や地域により日本が見せたいものは異なった。明治前半、外国人の遊歩区域規定が条約改正の条件闘争に利用されたように、この時代の観光には、対米感情やアジアの覇権に絡んで政治、外交の要素が色濃く入り込んでいた。
●明治時代以来、日本は、欧米観光客からのフジヤマ、ゲイシャといったオリエンタルなまなざしを甘受し、それを宣伝してきた。いっぽう東洋からの旅行者には近代化した日本を見せようとした。しあしそれは西洋からは近代化を被った「偽者の東洋」として見られ、東洋や南洋からは「西洋文化を模倣した偽者」として見られてしまう危険性をはらんでいた。このジレンマに気づいた小山栄三らは、大東亜共栄圏の人間に対して、日本の科学的産業的施設を見せるのにとどまらず、「皇道精神」といった日本民族の精神的崇高性を理解させるべきだと主張した。”皇道精神”を啓蒙することこそが、ジレンマに囚われることのない大東亜共栄圏の観光宣伝の帰着点としたわけである。
●観光国の条件としては、「気候と治安のよさ」を前提として、「文化、自然、食」の魅力が高いことが重要といわれる。ハワイはそれらを満たしている。日本も治安は合格、気候も四季おりおりで合格、アンケート結果では食の評価も高い。文化や歴史の魅力も備えているとしたら、残るのは自然である。だが、日本人は自国の自然を過小評価し、魅力を活かしきっていない。(略)本書で多数の例を述べてきたように、日本の文化や歴史に関心をもち日本にやってきた人たちも、日本各地の自然に魅せられた。日本の自然に魅力がなかったら、彼らの多くは日本滞在の年月をずっと減らしてのではないかとさえ思える。文化や歴史に興味があっても息抜きが必要で、自然の中に身をおきたくなる。日本にはそうした自然も多種多様にあり、それらとセットになればリピーターも増えていく。