ホモ・ルーデンス (中公文庫 ホ 1-7)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (531ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122066854

作品紹介・あらすじ

「人間は遊ぶ存在である」。人間のもろもろのはたらき、生活行為の本質は、人間存在の根源的な様態は何かとの問いに、二十世紀最大の文化史家が確信した結論がここにある。文化人類学と歴史学を綜合する雄大な構想で論証し、遊びの退廃の危機に立つ現代に冷徹な診断を下す記念碑的名著。

感想・レビュー・書評

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  • 本著は「遊ぶことの重要性」について描かれた本で、現代では「遊び」が少なくなってきていると考察されています。
    この本は古典的名著みたいですが、私には難しく苦労しましたー。
    ぜひぜひ読んでみてください。

  • 「ホモ・ルーデンス」は「遊ぶ人」を意味し、文化がどこまで遊びの性格を持っているかを問う著書となっている。本文約480ページで全12章。大まかに分けると、1~3章が総論、4~10章が各論、そして11章が18世紀までの時代ごとの文化における遊びの要素を扱い、最終の12章では19世紀と現代について考察する。

    遊びと文化の関係を探る本書だが、まず、動物の戯れとしても認められる遊びという行為は文化より古いことを前提として確認する。その遊びの主要な特徴は、「自由さ」「必要や欲望の直接的満足の外にあること」「現実から切り離された完結性と限定性」として挙げられる。これらの特徴を列挙したうえで、著者は遊びの定義を次のように定める。

    「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏づけられている。」

    この定義は要所で何度も確認され、文化のうちに見られる遊びの特徴と照らし合わされることになる。なかでもとくに注目される遊びの特徴は、三番目に挙げられた「完結性と限定性」である。古代の文化から、というよりもむしろ古代の文化であるほどはっきりと、現代では正統に認められる文化の多くに、この遊びの特徴が認められる。それらを古代ギリシアやローマを中心に世界各地の文化の痕跡から検証するのが、4~10章の各論にあたる。そこで個々に取り上げられる主なカテゴリーが、法律、戦争、哲学、詩、音楽、舞踏などである。それらのうちに共通して認められものとして、遊びのもつ競技性も重要なポイントになっている。

    本書のテーマである「遊び」の概念を捉えるために何度も対置して用いられるのは、「真面目」という言葉である。ただし、この「真面目」は必ずしも純粋な「遊び」の反対語ではなく条件付きとなっている。なぜなら、遊びが真面目に取り組まれることは普通のことだからだ。著者はこの点について、「遊びという概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置し」、「遊びは真面目をも内包」するものという認識を示している。

    終章での現代(出版は1938年)の文化における遊びのあり方としては、過去の文化は全般にわたって遊びの要素が色濃く反映されるものだったのに対して、19世紀を転機としたその後は文化における遊びの特徴が乏しくなっていったと指摘する。なかでも文化のなかで最も遊びの要素をわかりやすく認めることができるスポーツについても、「職業遊戯者のあり方には、もはや真の遊びの精神はない」として退けられてしまう。そして、「現代文化はもうほとんど、「遊ば」れてはいない」として危惧する著者は、「すべて遊びなり」という結語を残して本書を締めくくる。

    文化は遊びのなかに含まれるという著者の示す遊びの適用範囲は非常に広く、広義には全ての文化は本来、遊びの一形態だとする主張と捉えて良さそうだ。逆にそれなら何が遊びではないのかが気になってくるが、その点についてはあまり触れられない。18世紀以前の文化は遊びの特徴に溢れていて、19世紀以後はそれらが乏しくなるという主張についても、その結論に反対ではないものの、納得できるだけの十分な根拠を示すには至っていないように思える。とはいえ、法廷のような格式を感じさせる、それこそ真面目一辺倒にみえる文化も、元をたどれば遊びのもつ競技性や限定性にあるという観点は興味深い発想だった。

    ちなみに、ほどほどに読むならとりあえず1章と12章だけでも良いかもしれません。

  • 遊びの哲学、遊ぶ人間。人間は遊ぶ存在である

    暇つぶしや娯楽ではない。面白さこそ、本質で自分の内側にあるものが目的
    理屈ではなく面白いから遊ぶのだ
    ・自由な行動であること∶やろうがやるまいが
    ・利害関係がないこと∶目的、必要性を満たすためでなく純粋に楽しいからする
    ・完結性と限定性をもっていること
    ・絶対的秩序があること∶秩序違反は遊びを破壊する、緊張感や不確実性が楽しむために必要でそのために秩序が必要
    ・非日常であること∶掟や慣習に縛られない

    真面目は遊びの反対。遊びのほうが深くて根源的
    お硬い文化さえ遊びの中で発展してきた
    法律∶競技性が伴う以上遊びの性格を帯びる

    今、真面目さにより遊びがなくなってきている
    むき出しの闘争本能になっている=偽りの遊び
    真の文化は遊びがないと存続しない

    優越性を証明したがる人間の欲望∶競争が役立つ手段
    心地よい、面白い感情がうまれる
    満足が生まれるとき、どこかで誰かに優越感を感じている

  • ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」読了。一言、遊びと言っても丁寧に紐解くと奥深く、人の営みにおいてとても重要な意義がある事が本書からわかったように思う。そして遊びの要素が日々の生活から切り離される事で苦しみが生じる事ととても大切な気づきを得た。遊んでないで勉強しなさいも少し控えるか。



  • 中公文庫
    ホイジンガ 「 ホモルーデンス 」


    文化史の本。命題は「人間は遊ぶ存在であり〜文化は 遊びの形式のなかに成立したもの」


    遊びの特性として、自発性、非日常性、規則性、空間の限定、緊張と歓び をあげており、文化を育てるには これらの要素が必要なのかなと思う


    競技の結果より、競技のなかにある勝利への期待や緊張に 競技の目的を見出すことができれば、競技は遊びになると解釈した。なるほどと思う。「勝つことは自分が優越者であることが証明されること」は御意


    秩序を守った戦争(闘争)は遊びであるという論調は、そもそも戦争に秩序が存在するのかと思うが、著者は 敵と平等の存在としての権利を認め合うことを秩序としているらしい


    「遊びは何ものかを求めての闘争であるか、何かを表す表現であるかどちらか」




























  • 感想
    枠を作る。その中で精一杯楽しむ。遊びは人間の文化の本質である。しかし現代において真の意味での遊びは消失しつつある。資本主義との相性か。

  • なかなか難しい。
    だから目次を見て、気になるところから読んだ。
    人間にとって何でも遊びだったとかいてあったり、ルールというのは遊びのために必要と書いてあったりする。ホモルーデンス解説ってのがあったらすごくいいかも。

  • 遊びという概念について詳細に再定義し,議論した一冊。人間にとって遊びこそ人間たる所以の根幹であり、文明社会のあらゆる要素は遊びをルーツに持っていることがわかる。

  • 非常に重厚で肉厚,そして本質的.「人間は遊ぶ存在である」
    己の既存の価値観をひっくり返す,2021年だけでなく生涯を通じて心に残った本に間違いなく入る一冊だろう.
    (全部消化できている気がしないので再走破したい)

    遊びの”本質”と,その本質が実は社会全般の形成に必要不可欠なものだったという衝撃的主張は読み手がこれまでの人生で築いた価値観にいい意味で疑問符を投げかけてくれるんじゃないんだろうか.
     事実,自分はあらゆる物事の判断・評価において「真面目,義務,真理,必要,不可欠」と「そうでないもの」を区別するという思考法をよく取っていたのだが,それに対して,あらゆる物事は人間の根源的欲求である「遊び」から始まっているという主張は自分の価値判断の枠組みが視野狭窄でつまらなく,非本質的だったのではないかと身をつまされる思いである.(筆者の主張ではまず,”遊び”があり文化や規範が生まれ,最後に遊びでないものとして”真面目”なものが生まれている)
     しかし,普段の思索の中でも,一見真面目な事物(社会生活の諸々とか仕事とか)に対しても「これって地球規模で見たら茶番でしかなく,本当に価値あるものってないのでは?」とニヒルな考えに落とし込まれる場面が多々あった.それはやはりその根源には「遊び」の要素が含まれており,かつ,その「遊び」の価値を見落としていたあるいは唾棄していたからとも言えるかもしれない.

    ================

    ・「遊び」の本質を説き,「遊び」という視点で人類とそれが発展させた諸々を俯瞰できる本
    ・ホモルーデンスは「遊ぶ人」という意味.
    ・「遊び」とは以下のような性質を持つ
     ーそれ自身が目的
     ー時間,空間的限定性
     ー規則(ルール,リズム,ハーモニーetc)があり
      参加者は自発的にそれを受け入れる
     ー日常生活の掟はなんの効力も持っていない.
      遊びの中で人は何かになりきったりする.

    ・筆者は「遊び」は何かのためにあるのではなく,それ自身が人間の根源的欲求としてあるものだとと説く.そしてそれが文化,規範,哲学,祭祀,音楽,政治,などなどの発展につながったと説く.
    つまり,何か生真面目なものから派生して遊びや文化などが生まれたのではなく,その逆,あらゆるものの根源は「遊び」から始まっているという個人的には価値観をひっくり返される衝撃的な主張が展開される.

    そしてその主張は祭祀,哲学,音楽,芸術といった一般的に遊びにならなさそうな概念も含めた人間社会のあらゆる物事が,遊びに起因しているという主張が筆者のあまりにも広範なボキャブラリーから実証的に説明される.その情報量には正直圧倒される.


    ==================


    「人間は遊ぶ存在である」=ホモ・ルーデンス

    「ホイジンガは,遊びの根源性を人間の歴史の起源に,さらに歴史以前に求める.原書的な人間んお生活と行動ー言語,宗教,生産の技術,求愛,各種の儀礼,芸術ーの発生における状態の中には,あそびとしか名付け用のないものがあり,このあそびという質が文化の発展,共同体の組織にも大きな役割を演じている.〜あそびとは非日常的な県内で,固有の秩序と法則に従って行われる特殊な行動と感じられ,日常生活とは次元を異にするものと意識されているのが通例だが,人間生活の根源的状況にあっては,遊びが生活を規定していたのである」

    世界中津々浦々で物質的,精神的なマウンティング合戦が繰り広げられていた.(ポトラッチという財産破壊競争.華奢な浪費の見せ合い,余裕な態度のひけらかし,悪口の応酬etc)そしてそれもまた遊びとして解釈できるものである

    遊びの主要特徴は
    ー自由であること
    ー日常,あるいは本来の生ではないこと
     (本当のことをしている”ふり”をすること,これは”楽しみごとなんだ”という前提の存在)
    ー完結性および限定性
     時間的,空間的な区切りが必ず存在,それゆえに反復可能
     その時空間の中にはルールといった秩序が必ず存在する
     (なのでフェアという概念と緊密)
     リズムとハーモニー
     緊張が,プレイヤに緩急をもたせる

    “遊びの起源、基礎、有り余る生命力の過剰を放出することであると定義できる と考える人もいる”
    ー>遊びは何かのために行われるものだったという説がこの他にもたくさん.しかし「それが本当であればそれらを統合した.もしくは諸説を拒否できるより本質的な説明ができるはず」と筆者は説く.


    人を夢中にさせる力の中にこそ遊びの本質があり、遊びに最初から固有のあるものが秘められているのである。

    (オランダ語を引用しつつ)「面白さ」とは本質的なものだと言うことである。つまり、面白さとは、それ以上根源的な観念に還元させることができないものであると言うことの、今は証明になっているのが、この言葉なのだ

    動物は遊ぶことができる。だからこそ動物は、もはや単なるメカニズム以上の存在である。われわれは遊びもするし、それと同時に、自分が住んでいることを知っている。だからこそわれわれは、単なる理性的存在以上のものである。なぜなら、結局、遊びが非理性的なものだからである

    遊びの領域の中では日常生活の掟はなんの効力も持っていない

    呪術や祭式,密儀なども遊び↓概念の適用領域

    遊びはすべての文化に先行していた

    遊んでいる人は遊んでいるとわかりつつも全身全霊をかけて没頭している.「ただ遊んでいるだけ」という認識はその時は後退している

    ・「遊び」はそれ自体が根源的な欲求となりううものである.
    ・「遊び」の特徴は自由さ,非日常,時空間的隔離・完結及び限定性,規則と緊張
    ・子供の絵描も宗教的な義儀式も遊びの管轄.例えば宗教的儀式は合理主義・功利主義的な理屈があって生まれたのではなく,まず遊びがありその後に宗教的に解釈が付与された.(なぜ,なんのためという問い=すべての物事に合理的理由があるという世界観のナンセンスさ)

    ・「遊び」は私たちの生活の諸行動にも含まれ,それが社会文化をもたらしている. 遊びの全否定=社会文化の不成立


    ★「遊びとは,あるはっきりと定められた時間,空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である.それは自発的に受け入れた規則に従っている.その規則はいったん受け入れられた以上は,絶対的拘束力を持っている.遊びの目的は行為そのものの中にある.それは緊張と歓びの感情を伴い,またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏付けられている」

    遊びに対立する言葉:真面目,仕事

    ”一人のマルクス主義者がいる.彼はいうまでもなく無心論者であり,神も仏も信じていない.しかし彼がある人の葬式に行ったと仮定する.その場合彼は,他の人がやるのと同じような仕方でお線香をあげて〜〜彼にとってそうすることは一体どういう意味があるのか.もちろん,そういう仕草そのものは,なんらの意味を持っていない.しかし彼はその場合,周りの人たちの気持ちや葬式の雰囲気を壊そうとは思っていない,その限りでは彼はルールに従った遊びに参加している”

    「遊びあるいは競技の結果とは,ただ遊ぶもの自身の問題である.またそれは〜〜遊びの世界に入ってゆき,遊びの規則を承認した人々にとってだけ重要な彼らだけが関心を抱く事柄なのである.
    要するにこれは,「何かやっている」ということなのである.〜〜この「何か」は遊びの行為の物質的帰結ではない.例えば,ゴルフ・ボールがホールインワンしたということではなく,遊びが成功した,あるいはうまく居合ったという観念的事実である.この「成功」が遊ぶものに対して長短の差はあっても暫くのあいだは持続する満足をもたらす」

    文化はあそびとして始まるのではなく.遊びから始まるのでもない.遊びの中にはじまるのだ.
    文化の対立的,教義的基礎は,あらゆる文化よりさらに古い遊びの中に,そしていかなる文化よりさらに根源的な遊びの中に置かれているのである.

    勝ち負けと言う戦いは、もうそれだけで申請である。しかし、それも1度生、不正と言う定式化された概念が、その中に吹き込まれてしまえば、もはやそれは法律の領域に押し上げられて昔、反対に神の力と言うポジティブな観念の光に当ててみれば、もうそれで神神の領域引き上げられたことになる。しかし、いずれにしても、根源的なのは遊びの形式なのである

    "遊びの価値は理性、義務、真理などの規範の外にある"

    ギリシャ語の遊び(パイディアー)→くだらぬ戯言という意味が付属

    未来の善ではなく、それ自体が目的

    「現在、全世界で行われている競争には長い前史があったという事実を知らない人は、今日なお生き続けている芸術の分野での競技の習慣を、単に有用性の同期によって行われているのだと受け取るかもしれない〜しかし、こういう形式の競技が存在する根本理由は、決してそんな実際的意図の中などにはなかったのである。」

    生命体が母胎から生まれるように(文化は)遊びから発するのではなく遊びの中から、遊びとして発達する

    蒸気機関から電気と、工業的。技術的発展が大きく進むにつれて、この発展の中にこそ文化の進歩があるのだと錯覚がいよいよはびこって行った。その結果として、経済的な諸々の力関係、利害関係が世界の進路を決定しているとする恥ずべき誤った考えが提唱され、それが夜に行われるようになった。社会と人間精神の中で経済的因子を過大に評価する事は、ある意味では神秘と言うものを殺し、人間を罪業、罪責から解き放った合理主義とこうり主義の当然の成り行きである。しかしそれと同時に、彼らは人間を愚かしさと近視眼的乳臭さから解放してやるべきなのに、それは忘れていた。そして人々は、世界をただ、彼ら自身の日常平俗と言う形にはめ込んで聖化する運命の人存在になってしまい、また自立、そんなことをするのにふさわしい存在になってしまったように見えるのである
    19世紀を、その最も悪い面から見れば、こういうことになる。その時代の思想大きな潮流は、ほとんどすべて、社会生活の中には遊びの因子が存在すると言う考え方に逆らった。自由主義も社会主義も、それに養分を提供するものではなかった。実験的:分析的科学、哲学、政治的こうり主義、改良主義、マンチェスター学派の考え方、すべてこれらを徹底的に真面目な活動である。そして芸術、文学の中でロマンティックな感激が疲れきってしまったとき、そこに登場して支配権を取ったのは写実主義や自然主義であり、なかんずく印象主義と言う形をとった表現形式である。これは、それまで文化の中に花を咲かせたいかなるものよりも、遊びと言う観念に対し素敵な表現形式である。今日まで、ある世紀が自分自身を、また存在の全てを、物々しいまじめさで受け取ったことがあったとすれば、それはこの19世紀にほかならなかった

  • ◆3/7オンライン企画「その相談、あの本なら、こう言うね。F/哲学の劇場」で紹介されています。
    https://www.youtube.com/watch?v=1K0qT4_6lEk
    本の詳細
    https://www.chuko.co.jp/bunko/2019/01/206685.html

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著者プロフィール

一八七二年、オランダに生まれる。一九〇五年、フローニンゲン大学教授。一九一五年、ライデン大学外国史・歴史地理学教授。古代インド学で学位を得たが、のちにヨーロッパ中世史に転じ、一九一九年に『中世の秋』を発表し、大きな反響を呼ぶ。ライデン大学学長をも務める。主な著書に『エラスムス』『朝の影のなかに』『ホモ・ルーデンス』など。一九四五年、死去。

「2019年 『ホモ・ルーデンス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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