夜の鼓動にふれる: 戦争論講義

著者 :
  • 東京大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130033510

作品紹介・あらすじ

今世紀、戦争が世界をひとつにした。世界戦争とは近代の理性が沈む夜だ。夜には視界もなく中心もない。その闇の襞に分け入り、夜の鼓動にふれながら、世界戦争とは何だったのかを考える。

感想・レビュー・書評

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  • 戦争を、理性の光の及ばない「夜」と見立て、哲学的に考察している。

  • アウシュビッツ、人間はこういう非人間的なこともしうるものだということ。

    世界戦争は事実空間的に世界に広がった戦争ですが、それだkでなく、近代戦争のすべての特徴を極限まで高めて、人間の世界そのものを戦争状況に呑み込んだ。つまり人間の日常生活が営まれる生活世界というものが、世界戦争という概念のうちに、たんに空間的な意味での戦争の世界化だけでなく、この意味での世界も含めて生活世界の戦争化となった。

  • 本書は、東大教養学部生を対象とした「現代思想」という総合科目の一つにおいて行われた講義録である。これは、人類社会において最もダイナミックな現象である「戦争」を、「現代思想」というプリズムを通して見る、また同時に、当代学問において最もダイナミックな知の形態である「現代思想」を、「戦争」というプリズムを通して見るという二重の試みである。

    本書はただの「戦争論」ではなく、「夜の鼓動にふれる」とあるが、これは「光」のもつ意味、「闇」のもつ意味に関する考察が自ずと基調となっている。

    「光」とは「啓蒙」であり、ヨーロッパの自己拡張としての「世界化」を推し進めるにあたって、主要な役割を担ってきた。これは、フーコーや他の論者などによる「視線の政治学」が明らかにしたように、「視覚」は西洋が世界を認識・支配するに当たって極めて大きな役割を果たした。

    この視覚偏重の文化は「光」のメタファーで括られる理性、秩序、啓蒙などのカテゴリーが支配する堅牢な「昼の世界」を構築した。しかし、「昼」は「闇」つまり非理性、無秩序、野蛮や暴力の支配する「夜の世界」の存在を必然的に伴う。

    そして、「戦争」とは、混沌の中で蠢く暴力に規定された「夜の世界」の現象に他ならず、これが「夜の鼓動にふれる」ことの必要性であり、かつこの思索的彷徨の導き手となるのは、「夜の思想家」バタイユ、レヴィナス、ブランショらである。

    また、この「不穏な熱い<夜>」の考察は、ヘーゲル、フロイト、ハイデガーに関する緻密な考察を下敷きとして展開され、かつ「死の不可能性」としてのアウシュヴィッツ・ヒロシマ、さらには大衆社会、科学技術、植民地、「日常の戦争化=永遠戦争」としての「経済戦争」など広汎かつ多岐に渉る刺激的論考が続く。

    随所に散りばめられるフランス現代思想における重要概念から構成される論理を理解するのは容易ではない。しかし、本書のテーマである「戦争」に限らず、「哲学する」とは一体いかなることであるか?という知的営為における根本的姿勢の次元への思念をいざなって止まない、特異かつ稀有な作品であると思う。

  • 元々は大学の講義録を本にしたものであり、扱う内容は「戦争論」なので、「戦争論講義」となってもおかしくない本ですが、この本の題名が「夜の鼓動にふれる」と少しずらしつつも内容的な本質を突いた名前を付けられています。

    では、ここで語られる「闇」とは何か?という問題が生まれます。
    西洋の認識論の伝統から「目に見える=知る、分かる」という語義にあるように、白日の下にさらすことで知ることで西洋の知は発達していき、その集大成としてのヘーゲル哲学が生まれてくるが、その帰結として実は認識されない、知ることのできない「闇」というものもまた浮かんできた。それは、アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で言うような、理性の野蛮への頽落という問題でもある。知るという行為において、人間は否定をもって「未知」を「既知」へと変換し、世界を構築していくけれども、その「既知」が全てを包み、そのようにしてシステム化された世界で、何を否定するのか?世界がそのようなシステムに包まれた時に「世界」は「戦争化」したと西谷は言います。
    その「闇」については、西谷氏はレヴィナスやバタイユを引き合いに出して示唆しますが、この「闇」というものと上手く付き合うことを目的とした講義のようで、非常に学識に富み、示唆深い内容なので、読んで為になる講義ですし、つまらない世界史の授業で学んだ出来事の意味や質というものを再認識させてくれます。できれば、若いうちに読んでおくべきだった。

  • ここでは、著者の言う、<世界戦争>が終わったあとの私たちが生きている今の世界を中心に少し考えてみたいと思う。<世界戦争>のあとの世界、すなわち、世界が終焉した(=アポカリプス; the end of the world=<世界戦争>)あとの世界とは、要するに「人間であることの否定」からスタートするように思えた。それがたとえば、戦争において戦場のほうでは「敵」とみなされる人間はまるで「虫けら」であるかのように殺されてゆき、「非-人間的」に扱われ、湾岸戦争に代表されるようにテレビ画面というフィルターを通して放映され、あたかも「敵」にいない戦争であるかのようにみせかけた。一方、戦争を生き残ったものたちのほうに目を向ければ、アウシュヴィッツの生存者のように「非-人間的」行為をなしえたもののみが生き残り、生存者はそれがために「人間」として認められることのない眼で見られるのだ。「人間であることの否定」はこれにとどまらない。「死」について考えたときも、著者の言うような「苦しみと死を遠ざける」延命治療が今の世界で施されるようになり、それによってわれわれは「死を見失った」。さらに「死」は最終目標としての終わりであるかのように見えながらも(ハイデガー)、永遠に自分はそれに届くことはない(レヴィナス)のだ。そして、日々大量の情報に流されてゆく現在の状況は人々の思考を停止させ、まさに「あらゆる人が絶対的な受動性のなかに投げ込まれる状況」であり、「イリア」であり、また「夜」である。そこでは人格が剥奪され、みんな同じような思考・行動パターンに陥っているのだ。
     ところで、著者はわれわれはいま「成長」の終焉にたっていると言ったが、この「成長」をexpand、すなわち自己範囲の拡大(=征服)、「否定」(=自己化)することと捉えれば、expandの終焉の先にはもはや「不安」は存在しないはずだ。なぜなら、「否定」と「征服」によって対象が「闇」から「光」へと導かれたからである。「不安」の消滅はすなわち恍惚をもたらすものの消滅であり、「不安」を戦争の中に投げ込むことももはや不可能であるはずだ。だが、今日の世界はそれでも戦争は続くし、変容している。ならば、果たして「成長」あるいはexpandは終焉したのだといえるだろうか。
     さて、今回の課題図書が1995年に出版されたようだが、ここから少し95年以降の世界について考えてみたいと思う。社会はクローン羊の誕生に継いで、人間の遺伝子解読であるヒトゲノム計画も達成された。一方で戦争も変容し、アメリカをはじめとする大国がいま声高にしている「テロに対する戦い」が新しい戦争の形態として生じた。ところが、この「テロ」は事態をきわめて複雑化させている。つまり、これまでの戦争の対象であった国家や民族といった集団は一応ではあるが、「眼に見える」存在であった。ところが、「テロ」という語の蔓延によって、戦うべき対象が曖昧化され、もしかしたら今朝電車で横に立っていた人がテロリストかもしれない(!)などといった「妄想」ともいうべき状況が広がる。その最大公約数が飛行場における安全点検であるように思える。安全点検において、あたかも人を「テロリスト」であることを前提として検査が行われるからだ。考えてみれば、これはスクリーンで見る戦争以上に見えない存在との戦いになっているように思われる。さらには、アブグレイブでの事件のように、「敵」とみなされた人間が「動物」あるいは「虫けら」として扱われることが横行している。
     われわれの現実の生活に立って考えてみる。人間とは本来Mitseinであるべきものだったが、隣人との疎遠などをもたらす都市化が進むことで、Mit-である部分が疎くなった。ところが、Mitseinである以上、人はその失われたMit-の対象を求めるようになる。それが違う形で―たとえばインターネットというサイバー空間上にコミュニティーができたり(いうなれば最近流行っているmixiなどのソーシャルネットワーキング)、あるいはスクリーン上の文字でしか表現されないチャット等を通して人間関係を深めたり―現れる。一方で、Mit-の対象を求めることに失敗したものは孤立し、それがさらに都市化(=人との関係が疎遠になる)するなかで拍車かけられ、孤独へ導かれる。
     生命としての人間の否定、戦争での人間の否定、さらには生活内での人間の否定、このように現代では三重にも「人間であることが否定」され、<世界>のなかに存在する存在(世界内存在)としての人間の<世界>が崩壊し、やがて人間そのものの崩壊へとつながっていくのだ。
    ところで、人間<世界>の崩壊はまた<未知>でもある。著者は<未知>に恐れることはないといったのだが、ここがいささか引っかかる。自己の崩壊がしていくなかで、どうやって人間はその崩壊の原因となる<未知>に恐れを抱かずにいられるだろうか。また、<未知>の世界を<否定>できないのだとすれば、<未知>であるものを知る(=自己化して「征服」する)ことも難しい。<未知>であるものがいったん発生してからようやくその意味を知る。ならば、ミネルヴァの梟が飛ぶのは遅すぎないだろうか。
    いま、現実を突きつけられた気がする。これをどうやって超越していくか、それが現代に生きるわれわれの課題でもある。

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著者プロフィール

西谷修(にしたにおさむ)
哲学者。1950年生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授を歴任したのち、東京外国語大学名誉教授、神戸市外国語大学客員教授。フランス文学、哲学の研究をはじめ幅広い分野での研究、思索活動で知られる。主な著書に『不死のワンダーランド』(青土社)、『戦争論』(講談社学術文庫)、『夜の鼓動にふれる――戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『世界史の臨界』(岩波書店)、『戦争とは何だろうか』(ちくまプリマー新書)、『アメリカ異形の精度空間』(講談社選書メチエ)などがある。

「2020年 『“ニューノーマルな世界”の哲学講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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