- Amazon.co.jp ・本 (323ページ)
- / ISBN・EAN: 9784151200069
感想・レビュー・書評
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白人のような青い眼がほしいと日々祈る薄幸な少女ピコーラの悲劇を主軸に、ふたりの姉妹の目を通して、黒人社会における人種差別のあり方を描く小説。
この作品を読み終え、再度冒頭の一文、「秘密にしていたけれど、1941年の秋、マリゴールドはぜんぜんさかなかった」を読むともの悲しくなる。けれども、絶望を感じさせないところが救いかな。
メッセージ色は強く重たい話だけれど、面白い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
白人思想に覆われた日常に、白い肌や青い眼であれば自分も自分として愛されるのか?という黒人少女の純粋で真っ当で身を切るような願い。
自分たちが劣っているとされる、値打ちがないとされるとしても、同じ黒人のモーリーンは「かわいい」。彼女を美しくしているものを憎むべきだ、という観察眼の鮮やかな切れ味が随所に描かれ、堪能した。現実の根深さに心をえぐるような小説だけど、決して読むのを諦めたくなるようなものではなかった。
日を跨いで読むよりも一気に読むのがおすすめです。 -
文体は比喩が長く、読みにくさがあるが、わたしたちの固定観念を見事に払いのける強さがある。
淡々と語られる日常は、祖先から受け継ぐ圧倒的な強さに基づく諦念を浮き彫りにする。 -
「秘密にしていたけれど、一九四一年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。あのとき、わたしたちは、マリーゴールドが育たないのはピコーラが父親の赤ん坊を宿していたからだと考えていた。」
最初の章のこの冒頭からもう心を鷲づかみ。トニ・モリスンの文章は歌うような美しさがあります。
青い眼がほしいと祈る黒人の少女ピコーラ。黒い肌に青い眼、それが美しいと思ってしまうピコーラ。彼女がかわいいと思うのはシャーリー・テンプルのような少女。
たいして語り手であるクローディアは、大人たちがくれた白い肌、金髪で青い眼のベビードールをばらばらにこわす。
(黒人の女の子に金髪で青い眼の人形をあげるってよく考えると奇妙なことなんですが、昔は日本の女の子もこういう人形に憧れたんですよね。リカちゃんはフランス人と日本人のハーフだし、ジェニーは元がバービーだし。)
「難解な作品」「よくわからなかった」という感想がいくつかあった。たしかに構成は少し複雑ですが、基本的にはピコーラを中心に、彼女の父親、母親、彼女をいじめた黒人の少年たち、白人の少女たち、それぞれの視点が交錯し、彼女を追い詰めたものを描いている。
人種差別を背景にした残酷なストーリーなんですが、読み終わって残るのはほのかな光のような美しさ。
それはトニ・モリスンがあとがきで解説しているような「正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ」であり、「たんに目に見えるものではなく、人が〝美しくする〟ことのできるもの」、ピコーラにはわからなった「自分が持っている美しさ」のような気がします。
以下、引用。
尼僧たちは情欲のように静かに通りすぎ、醒めた眼をした酔っぱらいが、グリーク・ホテルのロビーでうたっている。
彼女たちの会話は、ほんの少し意地悪なダンスみたいだ。音が音に出会い、おじぎをし、シミーを踊って退場する。別の音が入ってくるが、新しい別の音に舞台の奥へと押しやられ、二つの音がおたがいのまわりをくるくる回り、やがて止まる。言葉は上へ上へと螺旋形を描いてのぼってゆくこともあれば、また、耳障りな跳躍をすることもある。そうして、すべてに──ゼリーでできた心臓の鼓動のような──温かく脈打つ笑いの句読点がつけられる。
追い出されることと、家なしにされることとは違う。追い出されたのなら、どこかほかの場所に行けばよいが、家なしにされたのだったら、行き場所はない。
ちょうど、死の概念と実際に死んでいることとは違っているように。死んでいる状態は変わらないのにたいして、家なしになる恐れは、ここに、いつでもあるからだ。
それからフリーダといっしょになって二人は、シャーリー・テンプルがどんなにかわいいか、情のこもったおしゃべりをした。わたしはシャーリーが大嫌いだったので、しきりに誉めそやす二人の仲間には入らなかった。シャーリーがかわいいから嫌いなのではなく、ボウジャングルズといっしょに踊ったから嫌いなのだ。
母はつらいとき、いやなとき、恋人が去って棄てられたときのことなどを、よく歌った。しかし、母の声はひじょうに甘く、うたっているときの眼はまるでとろけそうだったので、わたしは、そうしたつらいときに憧れ、「自分の評判なんかちいっとも気にしないで」大きくなりたいと渇望した。「わたしの男」から棄てられるすてきなときや、「わたしの男がこの町を出ていった」のがわかるから「夕日が沈むのを見るのがいや」になるときのことを、待ちこがれた。
母の声がうたう緑や青で彩られた不幸は歌の言葉からすべての悲しみを取り去ったので、わたしは、苦痛というものは耐え忍べるばかりでなく、甘美なものだと思いこんだ。
つまづいた歩道の割れ目も、たんぽぽの群れも自分のものだ。
そして、こうしたものを所有していれば、彼女は世界の一部になり、世界は彼女の一部になった。
メリディアン。この名の響きは、讃美歌の最初の四つの音符のように、部屋の窓という窓を開け放つ。
わたしたちは、柔らかな灰色をした家々が、疲れきった貴婦人のようによりかかりあっている並木道を歩いていった
どうして夢が死んでしまうのか、本当のことを知りたかったら、夢みる人の言葉をぜったいに真に受けてはいけない。
彼は、牝馬がお産をするところを一度も見たことがないのにちがいない。牡馬が苦痛を感じないなんて、いったい誰が言うのか。泣き叫ばないからだと言うのか。苦痛を言い表すことができなければ、痛みはないと考えるのか。
彼は、悪に名をつければ、たとえ悪を抹殺することはできなくても、それを無効にすることはできるだろうと思った。
彼は貪欲に本を読んだが、好みのところしか理解しなかった。つまり、他人の考えの切れ端や断片を適当に選んで理解したのだが、それは、その瞬間に自分が抱いている偏見を支持するものに限られていた。
このようにして、彼はオフェリアにたいするハムレットの毒舌を選んで暗記したが、マグダラのマリアにたいするキリストの愛は選ばなかった。
その結果、わたしたちは王者らしくなるかわりに俗物的になり、貴族的になるかわりに階級意識の強い人間になりました。わたしたちは、権威とは目下の者にたいして残酷になることで、教育とは学校に行くことだと信じていました。また、あらあらしさを情熱だと思いこみ、怠惰を安逸とまちがえ、向こう見ずを自由だと考えていました。
正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ、光、告白がなされたときの雰囲気。とにかく、わたしが〝美しさ〟を知ったのは、それが最初だった。
美というものは、たんに目に見えるものではなかった。それは、人が〝美しくする〟ことのできるものだった。
『青い眼がほしい』は、それについて何かを言おうとした努力の結果だった。どうして彼女には自分が持っている美しさがわからなかったのか、あるいは、おそらくその後もけっしてわからないのか、また、どうしてそれほど根本的に自分を変えてもらいたいと祈ったのか、といったことについて何かを言おうとする試みだった。
彼女の欲求の底には、人種的な自己嫌悪がひそんでいた。そして、二十年のちになっても、わたしはまだ、どういうふうにして人はその嫌悪感を学びとるのだろう、と考えていた。誰が彼女に教えたのか。誰が、本物の自分であるより偽物であるほうがいいと彼女に感じさせたのか。誰が彼女を見て、美しさが欠けている、美の尺度の上では取るに足りない重さしかないときめたのか。この小説は、彼女を弾劾したまなざしを突いてみようとしている。 -
アメリカにおける白人から虐げられる黒人の生活及び黒人同士のヒエラルキーによる差別も書かれていて、物語の多くの部分の語り手は、まだ未熟な少女なので余計に人間の生々しさが際立つ。
ピコーラがなぜ青い目を欲しがったのかはよくわからなかった。 -
読書会課題本。救いのない話で読後感はあまり良くない。しかし「人種差別」だけでなく広い意味での「差別」に目を向けさせてくれる内容で非常に興味深い一冊だった。これがノーベル賞作家のデビュー作という事実に驚愕する。
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青い眼がほしいー状況がリアルに描かれていて読みごたえがあります。
描写はとても伝わりやすくて、リアルに描かれている。
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他者に押し付けられた価値観や美的感覚ではなく、自分自身の美しさや価値を信じることができる社会にならないと、本書のピコーラのような悲しい若者が作り出されてしまう。日本人も、モンゴロイドの美しさよりも白人や黒人の体型や顔立ちになりたいと願う少女たちは少なくない。もっといろいろな美しさが並存して認められる社会であってほしいと思う。
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西加奈子がテレビで紹介していたので、図書館で借りました。
黒人差別が横行していた頃のアメリカで、何世代にも渡って差別を受け続けてきたがゆえの、黒人自身が自己卑下に陥る、黒人同士で差別しあう内情が垣間見れます。
その思考や貧困を背景に、家庭や社会の中で不調和が起こり、悲しみ、怒りを抱え続けてしまう。身勝手な白人によって、黒人は何世代にも渡り心をなじられ続け、その結果、黒人が抱えてしまっているであろう心の闇を、フィクションながら見事に、私達に伝えてくれる秀作です。
そもそも黒人とか白人とかのくくりがおかしい。
太陽が強い地域に適応しているのが黒人、太陽の日差しから肌を黒くして守る必要がない地域で反映したのが白人でしょ。太陽における、strong skin と weak skinでしょ。
黒人白人黄色人種、同じ人間なのに、皮膚の薄皮一枚で人間を大別する呼ぶ方に、今更ながら違和感を感じます。