逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)

著者 :
  • 医学書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260010030

感想・レビュー・書評

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  • 生きるとは
    TIS、ALSなどの状態の時に誰がその生死を判断するのか
    尊厳ある生き方とはなんなのか、そして自分自身の生き方と重ねて
    考えることが出来た。自身の経験を書いていらっしゃるので
    もがき苦しみ、母の介護をしていく著者が痛いほど伝わってきた。

    印象的な言葉をひとつ
    ランの花を育てるように植物的生を見守る。

    著者のもがき苦しんだ結果、行き着いた答えにちかいものだと僕は感じました。大切な人が生きること、死ぬこととはどういうことなのか、自分自身ももう一度再考する必要があると思いました。

  • たんに自分がそういうことを考える年齢に近づいたのかもしれないが、最近、病の身体、死に向かう身体について考えてみたくなってきた。
    とはいえ、ALSは並みの病や障害どころでなく、全身の運動神経が冒されてゆく難病だ。川口さんの母も、できなくなることが徐々に増えていく。ついに呼吸器をつけ、身体の微調整をくりかえすうちに、ついには眼球の動きまでが止まってしまい、まったく外界とコミュニケーションがとれない状態になってしまう。いわゆる植物状態だ。だがそれは完全に静まった状態ではないと川口さんはいう。身体を通して活発に会話をしていたのだと。
    外界からは何を考えているのか知りようがない母を、娘はじっと観察し、身体的会話を通して、「温室で蘭を育てるように」看取る。これはなんとも不思議な感覚だ。もちろん、もっとも愛する人が刻々と変貌し、側にいるのに会話もできないという状態はものすごく悲しく衝撃的だが、それを超えたところに生まれてくる主体の組み直し、関係の再構築という局面を川口さんは身体的な言語でとらえて、私たちが想像する悲劇のその先にある世界の奥深さを伝えてくれる。
    正直にいえば、私には、身内や自分自身がそうした病気になったときに、こんなふうに乗り越えていける自信はまったくないし、それどころか、川口さんが書いていることの100分の1も理解できたような気さえしない。それでも、これからの人生に携えていく本のひとつになるだろうという予感がしている。結局のところ、愛する誰かを永遠に失うこと、自分が今持っている能力を失う可能性など、考えたくもないが、でも確実に訪れる事実に違いないなのだ。その地点に向けてゆっくりと準備を始めていく、そのときに大きな導きになってくれる本だと思う。

  • ALSという筋肉が萎縮する病気にかかった母親を看病する娘の介護の日々が綴られる。ALSが進行して意思疎通が図れない状態をTLS(完全な閉じ込め状態)という。その状態で人は完全な孤独になる。健全な状態のものにはその世界は想像を絶する。気の狂うようなひとりぼっち。
    著者の母は1995年この病気を発祥し、本人と家族の闘病が始まる。当時はまだ介護保険制度が整っておらず、医療器具はもちろんヘルパー制度もなかった。それにかかる費用も膨大に膨らむことになる。そんな中、ボランティアで医療ケアを立ち上げようと知人が結束するが、気管支切開をして痰を吸引する行為が家族以外の人(他人)による医療行為となって家族の外はできなくなってしまう。病院ではなく在宅して療養すること、知人によるあたたかい医療ボランティアの道が狭められてしまう。そして介護する家族の負担をより大きくしてしまうことになり、本人はもとより家族の落胆は大きかった。
    介護保険制度が順次整っていく中で、様々な問題がそれぞれの症例の中で個々に起こってしまう。すべての人に有効な制度はないが、制度から洩れてしまう理不尽さに胸が痛い。

    呼吸器の取り付けも進行速度の速いALS患者の決断を待たずにその時、即断しなければならない場合が多くある。生か死か命の決断である。

    「私を抱きしめ、微笑で安心させてくれた母。おしめを替えて、清潔にきを配ってくれた。怖いときにしがみついた膝も、ご飯をつくって食べさせてくれたその手が懐かしい。その人が弱くなってしまいもう何もできなくなってしまうのはとても悲しいことだった。でもそれでも生きていてほしかった。その存在の大切さをはっきりと言葉で伝えるだけでも良かったのだ」

    この病気に限らず、意識がはっきりとしているときに感謝する気持ちを伝えることはその人にとって最大限の生きた意味、死に行く意味に繋がるように感じる。大切なお別れの言葉。

    実体験の介護の現場の文章は差し迫った空気が必死と伝わってくる。

    あらゆる箇所で胸がつまってしまった。


    著者引用
     
       一粒の砂に 世界を見る
       一輪の野の花に 天国を見る
       掌のうちに 無限をつかみ
       一瞬に 永遠を知る  

                   ウイリアム・ブレイク
                   「無知の告知」

  • 自宅で介護することについて、真剣に向き合うことを考えさせてくれる本

  • 圧倒的な筆力で私の価値観を変えてくれた本。筆者は、母親のALS発症を知ってから、戸惑い、迷いながら献身的な介助を続け、最期は看取るまでの数年間の気持ちの移り変わりを本当に素直に綴っている。ときには、こちらがハラハラするような危険な考え方のときもあったが、周囲の人にその素直な気持ちをぶつけることで、いろんな得がたい気づきを得ていく。その過程は本当にエネルギッシュで筆者がぐんぐん人としての厚みというか深みを増していくのが手にとるようにわかる。筆者の文章に影響を受けた言葉はいくつもあるが、「発信から受信へ」という考え方は長年介助してきた人だからこそ気づくことができた視点だと思う。非常に好きだ。

  • 24時間かかりきりの介護。すべてから解き放たれて自由になっているという患者観と、トータリーロックトイン状態でも生き抜く意義を探し続けるという作業の間で揺れる家族。この本に触発されて、本屋へ行ってみたら、「潔く死ぬ」から「迷惑かけても生きていい」まで、幅広い論議があることを改めて知る。
    死んでいい人など誰もいない、迷惑かけても生きていい、と思う。けれど、もし自分がそのような病気に罹患したらどうするか、など考えを巡らせずにはいられない(おかげで体調が悪くなった。苦笑)。
    素人(と言っては失礼だが)にしては、質の高い文体と構成。

  • ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気について、最近思いがけず見聞することがありました。
    アメリカ海兵隊の徳之島への移転問題でのニュース映像でした。
    徳之島で強い影響力を持つ、元衆議院議員の徳田虎雄を、鳩山首相が訪ねたときのこと。
    そこに映し出されたのは、ALSの患者である徳田氏でした。
    徳田氏は、五十音が書かれた透明の文字盤の文字に一つずつ視線を動かし、移転反対のメッセージを伝えていました。
    ALS患者のコミュニケーションがどれほど困難を極めるものなのか、その短いニュース映像の中に、垣間見ることができました。

    川口有美子さんの母上は1995年、59歳の年にALSを発症します。
    ALSは、身体の麻痺が徐々に進行し、動かなくなり、呼吸困難に陥る神経性の難病です。
    この難病を生き抜くためには呼吸器の装着が必要になります。
    母には生きて欲しい。しかし、呼吸器を装着することは、家族がつねに側にいて介護する体制が不可欠です。
    有美子さんは、ロンドンに海外赴任の夫と別れ、二人の子供を連れて、日本に帰ることを選択します。
    この選択は、母と同じ年くらいのイギリス人の友人には非難されます。

     「あなたのお母さんはあなたの世話になるよりは、きっと死を選びたいでしょう」
     「そうかしら?私はそれはありえないと思うけど……」
     「あなた。自分がお母さんの立場だったら、と考えたことはないの?」

    友人のこの言葉の真意は、そのときの有美子さんには理解できないものでした。でも、その後の十年に及ぶ介護を経て、いまはわかると言います。

     一人暮らしの母親の末期にはヨーロッパもアジアもない。
     世界中の老母の望みは愛する娘に決して迷惑をかけないこと、美しくない姿を見せないことだ。
     そのためなら一人で静かに逝くのが望ましい。
     しかし、母親を大事に思う娘にとれば、そのような母親の覚悟こそが間違っている。
     「命がいちばん大事」と何度も念を押されて育てられたのに。
     ALSに罹ったとたん「自分は別」では矛盾が生じてしまうではないか。

    一つずつ動かない部分が生じ、一つずつできないことが増えていく。毎日一つずつ絶望を積み上げていく行程です。
    目を動かして文字盤を追うことができなくなった母上には、もう思いを伝える手段がありません。
    知的な障害はまったくないのに、身体が機能しないためにコミュニケーションできない。その苦しみは、他人には計り知れません。

    「闘病」は、読む側も辛い、正しくすさまじい闘いでしたが、母上を看取ったあとに、有美子さんに訪れた穏やかな心境に、少し救われた気がします。

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  • 読みたい

  • 医学書院の「シリーズケアをひらく」の一冊。このシリーズはこれまでかなり読んでいるが、なぜか近所の図書館ではバラバラにしか入ってなくて、相貸で読んだり、買ったりも多い。この『逝かない身体』も、年明けに蔵書検索したときには入ってなくて、入るんかな入らへんかなと思っていたら、気づくと入っていたので借りてきて読む。

    『日本の路地を旅する』とともに、ことしの大宅賞をとったそうだ。

    この本の「ALS的日常を生きる」というサブタイトルを見て、読んでみたいと思っていた。ALSは神経難病の一つで、漢字で書けば「筋萎縮性側索硬化症」という。私の母が罹った病気も神経難病の一つ、SCDだった。本になっているのでいえば、ALSは『モリー先生との火曜日』のモリー先生が罹った病気であり、SCDは『1リットルの涙』の木藤亜也さんが罹った病気である。難病というのは、原因が分かっておらず、治療法が確立されていない、といったことを指す。

    ALSもSCDも、症状や進行の具合は個人差も大きいが、おおむね「自由を失っていく病気」というところが似ている。それまでできていたことが、できなくなっていく。母の場合は、話すこと、書くことが困難になっていき、バランスをとれなくなってふらふらと歩いていた後は車椅子を使うようになり、しだいに飲み込みにくくなってむせたり、車椅子に乗っても座位を保つことが難しくなり、だんだん排泄のコントロールも難しくなり…といった経過をたどった。

    母が難病友の会や難病連へ行っていた頃には、まだ学生だった私が付き添っていくことも多かった。母の病気の進行は早いと言われていたが、母よりもずっと病気の進行が早く、発症から半年で這うこともできなくなったという同病の方もあった。病気の進行は本当に個人差が大きい。母が死んで11年になるが、まだ母が発症して間もなかった頃にお会いした同病の方で、今も(私の目から見れば)ほとんど同じような症状で過ごしている方もある。

    病気は違うけれど、川口さんが親の病気を知り、本や事典などでその病気を調べ、あるいは医者の話を聞いてこういうところまで自由を失っていくのかと重い気持ちになったことを書いているところを読むと、私も同じように図書館であれこれと本を調べたことを思い出す。大学にいた私は、医学部の図書館にも行って、母の病気が載っている本をあれこれと見た。母に長命はのぞめないのだなあと思っていた。

    この本の著者・川口さんの母上は、ALSの中でも重いTLSになる恐れがあると医者に言われ、最終的には眼球を動かすこともできなくなった。文字盤を使っての意思疎通もできなくなった。

    「意味の生成さえ委ねる生き方」

    母上とのコミュニケーションに悩んだ川口さんは、そのころALS患者として世界的に有名だという橋本みさおさんに会いに行っている。意訳ともいえる橋本さん式のコミュニケーション法を知り、橋本さんに外出に付き添って"意訳者"ともなった川口さんは、こう書いている。

    ▼自分が伝えたいことの内容も意味も、他者の受け取り方に委ねてしまう──。このようなコミュニケーションの延長線上に、まったく意思伝達ができなくなるといわれるTLSの世界が広がっている。コミュニケーションができるときと、できなくなったときとの状況が地続きに見えているからこそ、橋本さんは「TLSなんか怖くない」と言えるのだ。軽度の患者が重度の患者を哀れんだり怖がったりするのは、同病者間の「差別だ」ともいう。…
     (中略)
     …ALSの人の話は短く、ときには投げやりなようでもあるけれども、実は意味の生成まで相手に委ねることで最上級の理解を要求しているのだ。人々の善意に身を委ねれば、良く生きるために必要なものは必ず与えられる。彼らはそう信じている。そうあってほしいと願っている。(p.211)

    書くことが日常だった母が自筆では書けなくなり、ワープロで1字1字かなりの時間をかけて入力してくる文章も入力や変換がうまくいかずに判じ物のようになっていき、そういう風に「表現(表出)の手段」を取り替えても、最後にはどれもダメになるんやろうなと私は思っていた。自分から発することのできない身体をもって生きることは、どんなことやろうと考えたこともあった。

    このところ福島智さんにまつわる本をいろいろと読んだこともあり、コミュニケーションにとって言葉は大きな道具であり、しかもそれは一方向ではコミュニケーションとはいえないのやなあとつくづく思ったが、このALSを生きた母上を書いた川口さんの本を読んで、生きている存在そのものがうみだすコミュニケーション、というようなことを思った。川口さんは汗をかくこと、血流の変化にともなう顔色の変化などを書きとめている。そして、そのコミュニケーションは当然その場にいる者どうしの間にある。

    「意味の生成さえ委ねる」のは、盲ろう者の福島さんに通訳者が周りの状況を伝える時にもやはり「委ねている」ところがあるのやろうし、そこには通訳者が福島さんを慮って(察して)取捨選択して伝えるというコミュニケーションのあり方もあるんやろうなと思った。

    【追記】
    久しぶりに難病連などのサイトを見ていると、母が診断されていたOPCAは、以前(母が生きていた頃)は「SCD」に分類されていたが、2003年度以降、SDSやSNDとともに「MSA」に分類しなおされたそうだ。

    OPCA、SDS、SNDは別々の疾患と報告されていたが、病理学的にみて同じ疾患の症状の現れ方の違いだということが分かったから、らしい。

    OPCAは難病情報センターのサイトで「進行が著しく速い」と書かれている。

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著者プロフィール

NPO法人ALS/MND サポートセンターさくら会副理事長。
著書に『逝かない身体』(医学書院、第41 回大宅壮一ノンフィクション賞)、
『末期を超えて』(青土社)など。

「2021年 『見捨てられる<いのち>を考える』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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