- Amazon.co.jp ・本 (170ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309462271
作品紹介・あらすじ
二十世紀最大の思想家・文学者のひとりであるバタイユの衝撃に満ちた処女小説。一九二八年にオーシュ卿という匿名で地下出版された当時の初版で読む危険なエロティシズムの極北。恐るべきバタイユ思想の根底。
感想・レビュー・書評
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20世紀フランスの思想家ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の初期の小説作品、1928年。20世紀エロティシズム文学の傑作とされる。
眼球は眼差しの端緒、眼差しは主人‐奴隷の弁証法の端緒、則ち対象化・断片化という暴力作用そのもの。それを無化するかのようなシモーヌの振舞は、強烈なイメージを刻み付ける。ましてその眼球が聖職者のものであれば、ニーチェやサドの影響を受けたバタイユの涜神の意図は明らかだろう。生前は本名ではなく"ロード・オーシュ"の筆名で刊行されていたが、これは"便所神"といった含意があるという。「神」は、往々にして抑圧の口実に用いられてきた。「神」の眼差しの下で何者かたることを強いられてきた、そうした秩序=抑圧の無化。
「だが最後には、シモーヌは私から身をもぎ離し、長身のイギリス人の手からその美しい球体を奪い取ると、それを両手ですこしずつ押し込んで、よだれをたらした肉体の中へその茂みの奥深く突っ込むのだった」
いま、我々を縛りつけているのは、匿名多数の眼差しの乱反射であり、適当な有限数列によってコード化可能な言葉の濁溢だ。そこを縫って走るような、そんな隙間も無い。点として沈黙の内に身を置いても、そこで呼吸ができるわけでもあるまい。何処にいても何かが滞っている。
「言葉なんかごめんだ/眼差しなんかまっぴらだ」(トリスタン・ツァラ『ダダ宣言1918』)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
オーシュ卿名義で匿名出版されたバタイユの処女小説とのことです。
エロティシズムと死というバタイユ思想のエッセンスが詰まった作品ではないでしょうか。
玉子、眼玉、牛の睾丸といった球体の象徴するところがなんなのかは第二部や解説を読むと腹落ちします。
女性器と玉子というと大島渚の愛のコリーダが浮かびますが、少なからず影響を受けているのかも。
バタイユの本人談でロード・オーシュ(オーシュ卿)の由来が語られています。
友人の立腹時の口癖が、雪隠へ失せな!(オー・シユオット!)で彼は略してオーシュと言うことに関連していると。
ロードは英語で「主なる神」、ロード・オーシュとは「便所にしゃがんだ神」でいわば「便所神」である。
なんたる瀆神!
本書は小説というより思想書として読む方がよい気がします。 -
球体フェチの話。いろいろと深読みできそうだけど、現代フランス思想的な難しい話は他の方に委ねます。
女性のお股から眼球が覗いてるっていうイメージを描いた時点で、作家としては勝ちだと思いました。
あと同作者の『アダムエドワルダ』はNTRの先駆だと思うんですが、なにかそういう研究資料ってありますかね? -
ジョルジュ・バタイユの有名なエロ小説です。ただ、異端文学とも呼ばれるように、文学であり、思想表現の一つの仕方であり、詩でもあります。エロティシズム研究等、後の仕事に繋がるような多くのモチーフがこの本にはあります。その意味では、今で言う大衆文学或いはエンタメと化した「官能小説」とは一線を画します。
だから感想としては、エロいというよりも、ヤバい、が先に来る。キリスト教徒だったり、少しでもキリスト教について知識があれば、この涜神的な内容のヤバさというのはよく分かるかと。反社会的というか、立派な犯罪も主人公達はやってますしそのヤバさもあります。でも、私に言わせれば、ごめんなさい、反社会的という意味では「事実は小説よりも奇なり」という立場を取ります。ネクロフィリアやスカトロ(主に小便)的な描写が大きな比重を占めていますし、その意味では特殊性癖モノなんでしょうけど、「私」とシモーヌが繰り広げる性行為の数々はどちらかと言うと空想的な、フィクション的な、観念的なもののようにも思えます。第一部の物語を受けて、第二部の方はそれを筆者自身が己の内面と向き合いつつ分析しているような構成になっているからです。
そして、次に出てくる感想としてはやはり「好きな人は好き」でしょうと、それ以外無いっすね。丸尾末広とかにも同じようなモチーフは流用されているなぁと、読んでいて笑ってしまうほどあるんですけれど、そういう楽みができる人にはオススメ。 -
これまで読んだ本の中で、最もグロテスクな内容を持っていた。主人公と恋人のシモーヌが、性的なタブーに次々と挑戦していくのがメインのプロット。キリスト教を冒涜するような場面が出てくるので、熱心な信者だったら、激怒するかもしれない。表面上はキリスト教を嘲笑しているように見えるのが、もしかするとバタイユは、深い信仰心を持っていたのかもしれない。深い憎しみは深い愛情と紙一重だからだ。目のイメージの使い方が巧いと思う。卵と目と睾丸という無関係に思われるものを組み合わせが、いかにもシュルレアリスムだ。
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極端なな欲求や願望はソレが自分の中深いものであればあるほど叶えられたときのよろこびや快感が大きく、のめり込んでしまうものなのだろう。自分にとっての幸せを知るということは満たされない苦痛も知るということなので、同時に不幸でもあるのだ。だからといって逃れられるものではないのだけれど。
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「卑猥」な表現の先に有るものとは…
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放蕩とは、全てを穢すものでなければならないのだ。という一語にはっと意表をつかれました。
ーー月を見ても私は母親や姉妹の膣の血を、すなわちむかつくような匂いが伴う月経の下り物などを連想するのだ・・・ーー
自分が伴う全てのイメージが穢され、常軌を逸していくこと。つまりは、文明の否定・・・まで辿り着くでしょうか。
じじつセヴィリアで、シモーヌが聖堂を「笑いもの」にしたことは、それに続く聖の冒涜は、文明=理性の徹底的な否定を表しているように読み取れます。
それにしてもなんで「めだま」・・・?よほど、お父様の病気を見るのが怖かったんだろうなあ。そんな幼少期を過ごせば、やっぱりちょっと狂ってしまうよなぁ。 -
何度読んでも挫折してしまった、そんな高校初期。
―そして2年以上の月日が経ち、再び世界に入り込んだ私は、此の世界の完全な倒錯美に圧倒されたのである。―何故此の素晴らしい世界があの頃見え無かったのか。
タイトルの「眼球」に込められた意味。其れが含み得る総てが、彼の歴史、或は先天的な何か、から産み出された空想と現実の認識との狭間を、神聖な液体で接合する様な表現が、非人道的な哲学が、敬愛に値するものであると思うのだ。―しかしこの訳は余、好きとは言い難いものであるが―。
人は自身の身に起こり得ないものを描く事は出来ない。其れは脳内に於いても言える。経験を触媒としながら、血肉を摩耗させて芸術と謂う「表現の絶頂」を産み出すのだ。
今振り返る過去は、過去の経験そのものでは無い。今の知識と感覚器官を通じて思い起すものであり、それが過去そのものである事はあり得ない。しかしその装飾された過去、は現在の環境が如何に素晴らしいものであれ、敵いはしない。
実験的な、冒涜的な本書は、知的好奇心と謂う究極のエロティシズムに拠って生み出された「譚(はなし)」であると思う。