多様性の時代を生きるための哲学 (単行本)

  • 祥伝社
3.39
  • (0)
  • (13)
  • (13)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 282
感想 : 9
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396617912

作品紹介・あらすじ

この社会の「閉塞感」を考える
鹿島茂 が6人 の論客を迎えて
“今読むべき”現代思想・哲学を簡略に捉えた異色の入門書

東 浩紀……デリダあるいは「考える」ために何が重要か  
ブレイディみかこ……ジェームズ・C・スコットあるいは「利他と利己」
千葉雅也……ドゥルーズあるいは「時間的存在としての私」
石井洋二郎……ブルデューあるいは『ディスタンクシオン』と格差時代
宇野重規……トクヴィルあるいは「民主主義」
ドミニク・チェン……ベイトソンあるいは「情報」「つながる」

★書評サイト「ALL REVIEWS」限定公開対談を書籍化★

【本書より】
▼何か事件を起こすためにはどうしても時間が必要なんです。
それは「モノ」としての本が必要なのと同じこと――東 浩紀 (第1章)

▼アナキズム の核心には 「自主自立」 と並んで
「相互扶助」という感性があると思います。
それが日本では忘れられていた気がするんです――ブレイディみかこ (第2章)

▼常に自分をプロセスの途中にいる 時間的存在 としてとらえる。
すると一つの主義主張だけで閉じるのではなく、
いろんな他者に開かれた状態で考えていける―― 千葉雅也 (第3章)

▼「選ぶ」というよりは 「選ばされて」いるのに、それが自分の意思だと思い込んでしまう 。
これがブルデューの「必要趣味」の本質―― 石井洋二郎 (第4章)

▼個人主義になればなるほど多数者の意見に流されやすくなる
という逆説を主張したのは、
トクヴィルの慧眼 だったと思います―― 宇野重規 (第5章)

▼ベイトソンは終始一貫して、情報もしくはコミュニケーションは
「差異を生む差異」であると考えていました―― ドミニク・チェン (第6章)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 対話の要所要所に未知な知識やイデオロギーが披露され、その度立ち止まるが、勉強になる。しかし、やや言辞を弄して遊んでいる感があり、思弁的なにおい、つまり哲学の悪弊を感じたのが、大きなノイズではない。

    先にその話をする。例えば、「差別化」じゃなくて「卓越化」という言葉の方が良いだろうか、と。言葉へのこだわりは哲学の要素かも知れないが、どうでも良い。他には、英語のbrotherは、兄か弟かハッキリしない。??日本人でもきょうだい がいますと言う時に姉か弟、兄かも不明確なので同じ事だろう。孔子の論語は自分が嫌なことを他人にするな、キリスト教はして欲しいことを施せ
    こうした精神性が…みたいな、よくある対比。意味がない。孔子とキリストが言ったからとて、アジア人がして欲しい事を施す態度を持たない訳でもないし。こうした言葉の揺らぎを定義する思考、先人のクロースリーディングみたいなアプローチは肌に合わない。

    逆に面白かった所。経済資本、文化資本、社会関係資本という所有資本の概念。この格差に注目し、格差による趣味、嗜好を聞き取りにより整理したピエール・ブルデューによる文化的資本と経済的資本の模式、ディスタンクシオンの話。

    全体的に資本の量が少ない人々は、様々な形態の資本(経済的、社会的、文化的)間の変換に対する制限を受け入れる。全体的に資本が低い人々は、そのために必要な手段を欠いているため、より大量の文化資本にアクセスすることができない。現代風に噛み砕いて言えば、競馬や缶チューハイ、テレビでのスポーツ観戦などが好きな層は、家庭に蔵書が少ない。ゴルフや観劇、海外旅行などの趣味にはある程度、所得や社会関係が必要というような整理になるだろうか。

    週刊誌に掲載されるような話題で盛り上がられても付いていけず、スポーツ選手にも詳しくない。そういう人は、家に蔵書が多く、部屋には楽器もあるみたいな家庭環境だったりして、そのような育ちによる嗜好の違いは、案外無自覚に生じている。

    多様性はあって良いのだが、多様性への寛容度については、他方は認めるが他方は押し付けるという非対称性が問題になりそうだ。芸能人の話でグイグイ来られても困る。それぞれが好きなメディアやエンタメを楽しむ時代になると、それなりのお作法が必要になってくるという事。そのマナーを体得できぬ認知領域との付き合いも避けられぬ中で、じわじわ社会が変わっていく。多様性を認めるという事は、画一性を否定すると同時に、不寛容を排除するという事である。

  • 世は多様性の時代。個人的にも「そういう考えもあるわな」と受けとめる寛容さは増したが、同時にちょっとモヤモヤも感じる。なぜなのか考えるために読んでみたい

    #多様性の時代を生きるための哲学
    #鹿島茂
    22/9/1出版

    #読書好きな人と繋がりたい
    #読書
    #本好き
    #読みたい本

    https://amzn.to/3B27dbv

  • ふむ

  • 千葉雅也、宇野重規のインタビューを読みたいと思って読んだが、他の4人のインタビューもみな面白かった。

  • 難しかったーーー!が、勉強になった。普段あまり触れない作家さんたちの「現代観」と彼ら「著者から見た世界」を垣間見られて面白かった。いろいろなことに触れられた。触れられたことは以下。


    《東浩紀》

    p.34 ものを考えるには、情報だけではダメだと知った。10年

    斉藤美奈子さんが、それを「知のカラオケ現象」と呼んでいますね。みんなが歌いたがって歌うが、その歌を聴いている人は誰もいなくて、次に自分の歌を歌を探している。

    この現象はかなり前から観察されていました。教育時代がそうなっていますよね。今は「教育」が「投資」と言う言葉と並んで語られるようになりました。でもそれはおかしいですね。「投資」ならば、10,000人のうち、1人が才能があって、10,000人分稼いでくれれば、残り999人が死に絶えても良いと言うことになる。でも教育はそういうもんじゃないでしょう。9999人は何も学ばずに暮らしていても、「当たり」が10,000人に1人いれば良いと言う発想で文化が語られている。

    これは文化全体をどんどん貧しくします。だから、表現者の周りをウロウロして、自分では表現しないけど、本を買ってくれる観客や読者を育てないといけない。さらに言えば、表現者や専門家もそういう人たちに対するリスペクトを持つべきです。今は表現者や専門家が、「自分たちは偉い」と思いすぎです。自分たちが何に拠って立っているのか分からなくなっている。

    東さんは『テーマパーク化する地球』で、もの書きは、自分の書いたものに対して報酬を受け取る側でしかないと述べておられます。払う側に立ってみて初めて、書いたものを商品化することの意味がわかると言う事ですね。

    本当にそうなんです。会社をやっていて良かった理由の1つはそれです。例えば、印税について、昔は著者の側からしか見ていなかった。だから、印税率も15% 20%にしてくれればいいと思っていましたが、印税を払うようになると、10%でも高いと感じます。今の僕は、著者と出版社の気持ちが両方ともわかります。


    p.36 僕が自分の金で本を買って集めることの重要さを気づいたのは、共立女子大で机を並べた河盛好蔵さんが、「君ねぇ、ちゃんとした学者になりたかったら、図書館で買ってもらっただめだよ」と言われた時です。「自分で買うと《元を取らなきゃいけない》と考えるし、図書館にあるのと自分の机の上に物として存在するのは違うんだよ」と。もう一つ、対話のためには「時間」も重要な要素です。ゲンロンカフェは永遠と長い会話を続けるので有名な場所ですが、そうやって時間を拘束すると、その間にいろんなことを考えるんです。短い会話は、お互いにあらかじめ言おうと思ったことを喋るだけで、何も事件が起きない。論壇誌での対談収録や学会やシンポジウムなどはたいがいそんな感じです。そもそもいくら良い要約でも、3分話されたら、その間にあれこれ考えることができませんよね。でも、3分で要約可能な話でも、3時間かけてしゃべっていると、聞く側は考えることができる。何か事件を起こすためにはどうしても時間が必要なんです。それは「モノ」としての本が必要など同じことだと思います。

    チェルノブイリのツアーでも、事故を起こした原発や被災エリアに入ること自体が良い体験ではあるんですが、その前後の時間も同じように大事なんだと実感しました。キエフ(キーウ)からチェルノブイリに向かう2時間半位のバスの車中とか、見学した後でホテルに帰ってきてから話す時間だとか。もっと言えば、ツアーに出発してから帰国まで、1週間位強制的に日常から切り離されて、何かについて考えなければならない時間があるということがすごく大事なんです。そういうことがだんだんわかってきた。

    今は、そういう無駄なパッケージなしに、情報の本質だけをパッと相手に渡せるのが効率的だとされています。けれども、それでは人に考えさせることができない。分厚くて重たい本を一生懸命運んだりしているときに、人は「これは一体何なのか」と言ったことを考えるんです。キーボードを叩いて、一瞬で情報をダウンロードするときには、何も考えない。人間がものを考えるためには、情報だけではダメなんだと言うことを知った10年でもありましたね。

    p.39 本来は「今日はどんなことを話すのかわからない」のが大学の授業と言うものだし、それが重要なんですけどね。話しているうちに、次の話が決まってき、雑談のように見えながら、実は深いところで、大きなテーマとつながっていたりするのは、文系の学問の特性であり、教養と言うものですよね。今の大学ではそれはやりにくくなっているわけですが、インターネットは時間の制約を受けにくいので、本来はそのような人文知の特性を生かせるメディアだと思います。テレビやラジオと違って、次の番組を気にする必要がないので、時間無制限で喋ることができる。それに、少数の視聴者からしっかりお金を集めるシステムの構築しやすい。文系のマニアックな学問の研究者たちは、話をどんどん掘り下げていけると思うんです。まだみんなそういう使い方をしていないけど、そうやって、教養のある人たちが好き勝手なことをずっと喋っている世界を夢見ているんですけどね。

    《ブレイディみかこ》
    p.67 例えば、ドメスティックなバイオレンスも、エンパシーで自己喪失してしまった究極の例として挙げられるのではないかとおっしゃっています。暴力を振るわれて、自分の身に被害を受けているのに、「あの人も辛いんだ」「あの人には、あの人の理由があるし、私がいけないのかもしれない」などと相手のことを考えて、ずっと一緒に続けた結果、最後は命を落とすような不幸なケースも欧米では少なくないわけです。だから、他社の靴を履くのはすごく大変そうだけど、まずは自分のことを大切にしないといけない。アナーキーな軸ーー私は、他者に支配されず、操られずに、自分の生を生きることをアナキズムと呼んでいるので、あえてアナーキーと言う言葉を使いますがーーを入れていないと、悲劇的な結果にもつながりかねないとブライトハウプトは書いていて、その指摘に私も強い衝撃を受けました。

    多様性とエンパシーは、大体セットで使われるじゃないですか。特にオバマ大統領は、エンパシーがあれば、紛争を解決できる、テロリズムをエンパシーの欠如の問題などと言っていました。それさえあれば、何もかもうまくいく万能薬みたいにエンパシーを語る人はよくいます。

    でも、それに反論する論者の本が、欧米では、何冊も出ているので、それも取り上げていくべきだと思ったんですね。『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ではそれが4ページしか出てこないんです。あれを読んで、「エンパシーがあれば何もかもうまくいくんだ」「エンパシーを100%言うものなんだ」と思われると困ってしまう。それは欧米の議論とは違うし、エンパシーの危険性を唱えている人がいることもちゃんと書いていかないといけないというのが、他者の靴を履くを描いた大きな理由の1つですね。

    p.69 私の父は軍隊経験者のですが、その経験談で1番印象的だったのは、まさに「他人の靴を履く」と言う話でした。日本陸軍は移動に車を使わないで、ひたすら兵隊に行軍させた軍隊として知られています。そうした兵隊たちにとって1番重要は靴なんです。ところが『風と共に去りぬ』を読めばわかるように、長い間行軍していると、靴の底がどんどんへたって使えなくなってしまうんですね。仕方がないから、他人の余っている靴を履くしかないけれど、当然サイズが合わない。その時に、日本陸軍はどうしたかと言うと、人の靴でも何でもいいから、その辺にある靴を履いて、靴に自分の足を合わせろと兵隊に命じる。これが日本軍のやり方なんですよ(笑)。最高の苦痛でしょうけど、兵隊はそれをやらされるをやらされたわけ。「靴に自分の手を合わせろ」というのが日本軍の本質だったんですね。靴と言うのは、ひいては、日本という国家だったので、それに無理矢理しなければならない。

    そういうことを考えると、国家を含めて他者が理不尽な要求をしてくるときに、これをエンパシーに迎えないといけないと言うことになる。この場合、エンパシーが危険なものとなる。なぜ危険なものになるかと言えば、他人の靴を履いたときには、痛みとか不快感とかと言うものは確実にあるのだから、それを感じないふりをしたり、ないことにしたりするのは欺瞞(ぎまん)だからなんです。欺瞞や無理は最終的には倫理やシステムの破綻を招く。我々がエンパシーを抱いて他者の中にのめり込み、その輪がどんどん広がって、社会で1つの共同幻想になった時こそ危険です。皆、そこに自分の意思で共同幻想に加わったように思っているけれども、実際は、共同幻想によって見えないところで、操られている。そういった事は、いたるところであるわけです。

    そういう時に、「待てよ、これは俺の意思ではないんじゃないか」「共同幻想に操られているのではないのか」と気づくことができるのが、本当に自分が持っている人間です。それができた人が、例えば、戦争体験などを書いたすぐれた文学を作り上げていくんです。エンパシーには危険性がある。大きな共同幻想が支配的になったときに、頭ではわかっているつもりなのに、いつの間にか共同幻想にとらわれている。あるいは反対に、カウンターの共同幻想にとらわれる時もありますよね。例えばファシズムに抵抗していたら、スターリニズムにとらわれてしまう。そんなことをこれまで何度も人類が経験してきたわけです。

    そこで必要なのか、アナーキーの軸なんだと思います。自分の靴をなくしてしまうと、自分ではない「人間」の感情や考えを想像しているはずだったのに、生身の人間でも何でもない幻想やシステムや思想ーーマックス・シュティルナーが「亡霊」と呼んだものーーに容易に支配されて、操られてしまって、亡霊を生身の人間の上にさえ置くようになる。極端になると人間の生死さえ亡霊に支配されて当然のように見なす。これはエンパシーの闇落ちした姿なんです。

    p.71 「共同幻想」は、吉本隆明の言葉ですが、ヨーロッパでは構造主義者と言われる人たちが同じようなことを考えました。サルトルのような実存主義者が「すべては自由なんだ、われわれは自由意志で全て行っている」と言うのに対して、行動主義者たちは「そんな事は無い。自由だと思っていること自体が構造にとらわれているんだ」と主張したんですね。エンパシーの語源は「感情移入」を意味するドイツ語(einfulung)です。これはドイツの演劇論あたりから来ていて、登場人物に感情移入すると言うようなことですね。感情にとらわれて、全てを忘れてそこに没入する。しかし、エンパシーをうまく使うには、そこから一歩出て、自分と言うものを絶対に忘れないことが重要だと気づかなければならない。

    そういう感情的な共同幻想は、すごくファシズムに行きやすいですよね。例えば2021年の東京オリンピック・パラリンピックで「United by emotion」と言うモットーを掲げましたよね(笑)。感情でユナイトする。これを聞いたときに、ものすごく日本的だと思いました。それで、『ぼくは、イエローでホワイトで、ちょっとブルー』で未解決だった問題が解決しそうな気がしたんです。というのも、「エンパシー」をオックスフォード英英辞書で引くと「アビリティー(能力)」と言う言葉が最初に出てくるんですね。[the ability to understand another person’s feelings, experience, etc.]というふうに。でも、日本語では単に「共感」と訳していて、「能力」と言う部分が含まれない。だから、エンパシーを感情的なもののように受け止めるんです。では、なぜ日本語では「能力」と言うニュアンスを含めないのか。これは考えてみる余地がある…と言うことで、『他者の靴を履く』ではお茶を濁していたんです。でも「United by emotion」と言うモットーを聞いたときに、わかったような気がしました。日本では、能力やスキルや技量みたいなものよりも、感情的なものを上に置く。感情的なものの方が上等だと言う感覚があるから、エンパシーを「能力」のようなビジネスライクな言葉を使いたくない部分があるんじゃないでしょうか。日本人は部活なんかでも、よく「気持ちが入っていない」とか「気持ちを入れればできる」みたいなことを言うじゃないですか。イギリスでは、学校の先生が「気持ちさえあればできる」なんて言いません。気合はもちろん重要ですけど、スキルや訓練がないとできません。

    辺の結論にも書いてありますが、「教育」と「アビリティー」が強く結びついているわけですね。エモーションは教育可能だけど、アビリティーなら教育可能だろうと考えたのが、フランスやイギリス人たちでしょう。アビリティーの面で教育することによって、国民全員を1つの衝動的な土俵にあげることができる。それがヨーロッパ的な考え方なんです。そういう形でエンパシーを身に付けることで、利己と利他を結びつけることができる。それを考える上で、ぜひお読みになるといいと思うのはアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』です。アメリカに行ったら、トクヴィルがびっくりしたのは、利己的なアメリカ人が1つの共同体を作って国家を成立させていたこと。これは大変な驚きなんですよ。そこでトクヴィルが出した結論は、彼らを結びつけているのは「正しく理解された自己利益」だと言うことでした。それを育てるのはアメリカのタウンシップですね。タウンミーティングからアメリカの民主主義が持ち上がってきたというのが、『アメリカのデモクラシー』の結論です。

    この「正しく理解された自己利益」と言うのは、確かに教育可能なんですね。どこをどういう回路で結びつければ自己の利益が他社の利益になり得るのか、あるいは他者の悲劇が自己の利益に還元してくるか、この回路を教えない限りわからない。自己利益にとらわれているのが人間の本性だから。それを、アメリカのタウンミーティングは1つの共同体の教育としてやっていたんです。

    現在のアメリカが言う状況になっているのは、タウンミーティングの伝統が失われてきたからでしょうね。イギリスあたりは、アンダークラスの人しかいないような地域でも、タウンミーティング的なものが稼働している。一方、それが全くないのが日本だと僕は考えています。僕が『幸福の条件ーー新道徳論』と言う本を書いたのも、そういう目的でした。今の時代に、かつてのような道徳を唱えても、絶対に無理。だから、自己の利益、公の利益を結びつけるカイロは教育以外にありえないと言う考えなのです。ブレイディさんがこの『子供たちの階級闘争』に書かれたような体験を通じて学んだのも、そういうことでしょう。そこでアナキズムの相互扶助と言う考え方は可能だったんじゃないかなと私は理解しました。

    渡辺一夫さんが終戦から数年後に発表した「寛容(トレランス)は、自らを守るために、不寛容(アントレランス)に対して不寛容(アントレランス)になるべきか」と言うエッセイがあって、その中の「正しい利害打算を人間ができるようになったら、みんなが寛容選ぶはずだ」と言う文章に感動したので、著書でも引用したんです。まさに、正しい利害打算ができるようになるには、それぞれが穏当になるべきで、その穏当さを育てるのがタウンミーティング。緑色のブランケットを広げて、みんなで話し合って、エンパシーを働かせ合いながら、落としどころを探るわけですよね。ブランケットを広げると言うのは、コミュニティーを作ることでもあるでしょう。1人で話し合いはできないわけですからね。教室のコミュニティーがあり、近所のコミュニティーがあり、近所の街のコミュニティーがあり。そういうところでブランケットを広げていろいろ話し合う。その基盤を作ってきたのが、保育園ですね。「さぁ、これ、どんな時にするかな」「あの人、こういう顔をしているけど、何を考えているんだろうね」と言うところから、Empathyを育てて、自分の意見が主張できるようになっていく。それを2歳、3歳位から築き上げ、中学生になったらシチズンシップ教育につなげていくのがイギリスのやり方です。

    p.75 「迷惑をかける」と「罪の意識」の違い、迷惑をかけたくないし、かけられたくない

    日本もコミュニティーの相互扶助がなかったわけではありません。しかし、それが都市化によって急激に失われたことが日本的な問題だと思います。都市化に伴って、家族の形も直系、家族から核家族に移行しましたが、セーフティーネットとして直系家族が持っていた相互扶助的共同体が失われたのが日本の最大の問題点。しかし、保守派のように直系家族の復活を訴えても、社会が完全に変化してしまった以上、直系、家族への回帰は不可能なんです。にもかかわらず、日本には他人に迷惑をかけてはいけないと言う直系家族的メンタリティーだけが生き残っている。ところで、この問題は、ブレイディさんがこの本の中で語っていたコロナ禍のエピソードつながると思います。2020年2月初頭に日本に行き、英国に戻って、PCR検査を受けたとき、ブレイディさんは、もし自分がコロナに感染していたら、人にうつして迷惑をかけたかもしれないと思ったんですよね?それから「ギルト(罪悪感)」と、日本的な「人に迷惑をかけない」の違いに考えが及んだ。この話は、この本の核心だと思うのですが。

    日常生活の中では、自分が見知らぬ人と関わっている事はあまり意識しないじゃないですか。でも、あの時、新型コロナウィルスの検査を受けて、その結果が出るまでの間に考えたのは、自分のことより、自分の周りの人のことだったんですよね。かかっていたら、誰にうつしたかわからない。日本に着くまでに、例えば空港に向かうバスで隣に座っていたアイルランドの気さくな女性が妊娠していたことや、近所のおばあちゃんのところにイモを買って届けたことや、水道業者の人の奥さんは喘息だったと聞いたことなどいろいろ思い出しました。そうすると、自分が本当に網の目のように、いろんな人とつながっていると言う事を凄く感じるわけですよ。そこで、もし私がうつしてしまったら、喘息を持っている人が重篤な状態になるかもしれないですよね。感染して病気になるのは、私自身にとっても災難ですから、他人にうつすことで「迷惑をかける」と言う感覚は無いんですが、私は「自分が感染していたら、接触していた人たちに知らせなきゃ」と思ったんです。でも、知らせられないじゃないですか。バステト何言った人とか、どこに住んでいるのかもわからないし。だから、伝えなきゃいけないのに、伝えられないことに罪の意識を感じたんです。

    でも、日本では、芸能人なんかが感染すると「ご迷惑をかけしました」と言うわけですね。イギリスの感覚では、完成したのは本人の災難なんだから、人にお詫びするようなことじゃないわけです。ただ、うつした可能性のある人に、それを言わないことについては、自分が犯した罪では無いにしろ、ギルトの意識が生まれてしまうんです。

    この感覚はなんだろうと思って辞書で「guilt」を調べてみると、基本的にあんハッピーな感情だと書いてあるんですよ。「人に罪を及ぼしているかもしれない」とか「悪いことをしたかもしれないと思うことによって、自分がアンハッピーになる。私はこれをコロナ禍で実感しました。「あの人は妊娠していたのに、うつしちゃったらどうしよう」と言う不安を感じるのは、自分がハッピーですよね。だから、利己と利他がすごくつながっているんです。相手も自分もアンハッピーなんですよ。

    翻って日本の「迷惑」と言う感覚はなんだろうと思ってまた辞書で調べてみると、誰かを煩わせる、2英語だと「bother」すると言う意味なんです。誰かをbotherすると言うのは、その人の感情を害すると言う事ですが、例えば、誰かを死なせてしまったときに、遺族に対してご迷惑をかけしましたとは言わないですよね。その意味では「迷惑」は「ギルト」とよりも弱い言葉なんです。

    また、日本では、何か起こった後だけではなく、事前に「迷惑をかけたくない」と言う使い方もしますよね。日本在住のアメリカ人が、その意味について新聞に書いているのを読んで「なるほど」と思ったんですが、これは逆に「自分が他人に迷惑をかけられたくない」と言う気持ちを表しているんではないかと。私はこの中できるとの感情に目覚めた時は、自分から網の目のように迷惑が波及していくことを考えたわけですけど、日本的な「迷惑」はもっと閉じている。自分が人に迷惑をかけて真実を広げたくないだけでなく、自分も人から迷惑をかけられたくないんですね。だから、日本人はすごく集団意識が強いと言われているけど、実は1人1人で生きていくのが当たり前と言う社会なのではないか。その新聞記事にはそういうことが書かれていて、すごく恐れが心に残りました。迷惑と言う言葉が、まさにそれを象徴していると。

    でも、お互いに迷惑をかけやっていくのが、実はブランケットを広げると言うことにもつながっているんです。だから、むしろもっと迷惑をかけていいはずなんですが、日本人はそれを広げようとしない。とにかく迷惑をかけたくないし、だからこそ自分をかけられたくもない。新約、聖書のマタイによる福音書には、「己の欲せるところを人に施す」とあります。一方、論語には、「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」とある。似ているようで、違うんですよね。

    ちがいますちがいます(笑)。

    論語の「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」は、おそらく関係を切断することを言うことなんでしょう。かなり利己的な印象があるんです。

    要は「迷惑をかけるな」、つまり「関わりたくない」ですよね。

    《千葉雅也》

    p.96 言葉に対する違和感は、ふつうは思春期に訪れます。思春期には、誰もが詩人になる。ある時、自分の使っている言葉は、すべて、他人の言葉だと気づき、気持ち悪いから使いたくないと思う。その居心地の悪さを発見することで、人は皆、詩人になるわけです。でも、その季節が過ぎると、言葉に対する居心地の悪さはなくなってしまって、違和感なく使えるようになる。つまり、大人になっちゃうわけですね。千葉さんは、この言葉の居心地の悪さを削ることを重要視しています。気づいたら、その気持ち悪さがどういうところから走っているのか、自分の属する共同体は一体何なのかと言ったことを考えなくてはいけない。それがreflectiveな態度です。例えば、友達のグループでノリの良いおしゃべりをしているときに、その根源を突き崩すような方向でそれを考える。この方向での思考と言うのは、どんどん遡行をしながら「〜とは何か」「〜とは何か」と根源的な定義を求めていく衝動みたいなもんなんですね。これを千葉さんは「アイロニー」と言う言葉で表現しています。しかし、この遡行をやっていくと行き止まりがなくなってしまう。ただし、「ノリ」に寄りかかっていた集団から抜け出すことが可能になる。

    しかしアイロニーと言う方向だと、友達の会話をいきなりシラケさせるような言葉を差し挟まざるを得なくなる。みんなが共通したわけあっていたコードを破壊し、さらに、コードを超コードの方向へと進めていくからです。しかも、この作業には行き止まりがない。そこで千葉さんは、アイロニーとは違うもう一つの方向を示します。「ユーモア」と言う方向です。コードから外されるようなアイロニーが「ツッコミ」だとすると、ユーモアは「ボケ」ですね。突然、相手が「その心は?」と言いたくなるような方向へ話をずらしてしまうのか、ボケだと千葉さんは書いておられます。ボケはコードの破壊ではなく、コールの拡張であり、コードの転換である。こうした2つの方法論を提示しておいて、改めて勉強について考え、最初のバカから抜け出して、別のバカに入ろうと。これは今までの勉強法にはなかった。とても面白い方法論だと思っています。

    p.123 今は外国語学習のモチベーションがすごく下がっていると思うんです。多言語体験の中にいかにイディオマティックの特有の思考があるかと言うことも、なかなか理解されません。日本語にもフランス語にも特有の思考や文脈があり、そこには翻訳不可能なものもあることまで考えて、どうやって外国思考と付き合っていくか。これは本当に難しいことで、概念は一対一対応にできるわけではないので、そこをどう考えるかと言う問題意識が、少なくとも僕の世代まではありました。特にデルタはそういうことをよく言いましたし、現代思想の文脈でも翻訳は大きなテーマでした。だから複数の外国語をやって、言語と言語の間の空間で思考するような感覚が大事だと思うんですが、やはり英語帝国主義というか、英語化が大きく進んでいると言う面もありますし。

    あと、人間の言語的思考が全体的に情報化していると言う気がします。言語と言うのは、物質的存在を持っていて、その言語の物質性と思考がくっついているわけですが、そこから切り離されて、どんな言語でも情報は全て等価に変換可能だと言う思想が増えていると思うんですよね。Googleの自動翻訳などが精度を高めていることも、そういう現象をひどいさせているのでしょうけど。しかし本来、言語は単に情報なのではない。それは今改めて言う必要があるし、そういう意味での言語の修練を伴う研究の必要性は言い続けなきゃいけないと思っていますね。

    僕は、中学1年生で初めて英語を習った時に、大ショックを受けたんです。“ I have a brother.“と言う分について、「先生、このブラザーはお兄さんですか、弟ですか」と質問したら、「どっちでもいいんです」と言うので「え?え?なにそれ?」と動揺したんです。兄と弟を区別しない言語が存在することに衝撃を受けた。日本人は「兄、弟」と言う日本語の概念が既に頭に刷り込まれているので、その「兄、弟」と言う言葉そのものによって支配されてしまう。実はウラル・アルタイ語族でも、兄、弟を区別するのは中国周辺の一定の文化圏だけらしいんだけど。

    やはり長幼の序のとの関係ですか。

    そう。

    長幼秩序が言語に反映されていない印欧語の方が、世界水準では一般的なんだそうです。ともあれ、外国語にはそういう面があると言うショックを初歩の段階で受けることが必要なんですね。言語から抜け出して別の日に入ると言う時にも、外国語が非常に有効でしょう。だから、英語なんか必要ないと言う事はありえない。私の学生時代とは、環境がだいぶ違うので、みんな英語ができるようになっていると思いますけどね。今は本当に、日本のポストモダンのレベルが高くなってきて、それでようやく私もわかるようになってきた面があります。

    《石井洋二郎》

    p.163 『ディスタンクシオン』
    上流階級は「贅沢趣味(自由)」、下級階級は「必要趣味」

    庶民階級がそもそも与えられている選択肢が非常に限定されている。生活環境自体が贅沢趣味とは初めから無縁であることが多いし、たとえ贅沢趣味が目に入って、それを選びたくても、経済的にとても手に入らないと言うこともあるでしょう。そうすると、手に入らないから諦めると言うのではなく、「これは自分たちをのものでは無いのだ」と言うふうに納得してしまう。自分たちが本当に好きになるべきものは、自分たちの手の届くところにあるはずだと思って、自分が手に入れられるもので満足してしまうわけです。

    それが好きになっちゃうんですね。

    食べるものがじゃがいもしかなかったら、じゃがいもが好きになってしまうと言う事ですね。手が届かないフォアグラなんかは、最初からそもそも選択にならない。

    それはとても重要なことですね。例えば、『ハマータウンの野郎どもーー学校への反抗労働への順応』と言うイギリス、労働者階級の研究によると、まさに「必要趣味」と言う感じで、ハマータウンの野郎どもは、上級学校に進学しようと言う意思すらないわけです。元は選びたくても選べなかったものを、やがて自分たちの意思として選んでしまう。社会学の核心ですね。

    だから、学校もまさに「行ける所」に行く。自分の行けるところが、自分の好きなところだと納得してしまうんです。「好きなところに行く」のではなく、「行けるところが好きになる」と言う倒錯が起きている。「選ぶ」と言うよりは「選ばされて」いるのに、それが自分の意思だと思い込んでしまう。これが「必要主義」の本質なんだろうと思います。

    《宇野重規》
    p.198 その後のアメリカはいろいろ変質しますけれども、やはりアメリカと言う国が凄いと思うのは、極端に走ってしまうこともある反面、そこからの修復力があることです。これから日本がもっと学ばなければいけないことの1つはそれでしょうね。

    p.204 デューイは、何か1つのみを使用するのが民主主義ではないといいます。それぞれの人がそれぞれに実験をする。自分が実験するなら、他人が実験するのも許さなければいけない。すべての人に受験をする機会を与える社会のことを民主主義と言うわけです。何か唯一の答えがあることを想定せず、それぞれの人が自分の人生の中で自分の力の及ぶ範囲内で意見をしていく。それが、最終的には、相互に影響を与えることによって、社会の漸進的な発達につながると言う考え方です。

    これはある種の悲観主義でもあるんですね。きれいで明確な答えがあるとは言えないと言う意味で。でも、実験が結びついて、最終的に社会が前に進んでいくと言う意味では、どこかオプティミスティックの発送でもあります。ペシミズムとオプティミズムが独特な形でくっついているのが、プラグマティズムの由来する教育法であり、その考え方だと思います。

    《ドミニク・チェン》
    p.233 そこで面白いのが、Netflixで公開中のソーシャルジレンマ(邦題:監視資本主義)というドキュメンタリー映画です。シリコンバレーのIT産業が行ってきたことを、そういう機能を作ってきた当事者たちが「自分たちはよくないことをした」とひたすら懺悔し続ける。90分間ドキュメンタリー。それが他でもない。Netflixで大人気になっていると言う皮肉な状況になっているんですね。

    p.235 Z世代と言われるアメリカの若い人たちは、ちょっと前までのITバブルみたいなことにあまり興味がないようです。自分たちだけがお金儲けをすれば良いと言うわけではなく、より良い世界を自分たちで作り上げたいと思いながら、コンピュータの世界に足を踏み入れています。その人たちが、昔よりすごく増えているんですよね。

    感銘を受けたモンゴル、人からのギフトーーコモンズについて

    僕が電気を書いた渋沢栄一の考え方を一言で言うと「道徳経済合一説」と言うことなんです。儲けすぎは良くないから、道徳的にやらなきゃいけない、と言う意味です。まぁ、ごく当たり前のことですよね。しかし、渋沢はどうやら、さらに踏み込んで「道徳的であると言う事は経済的である」と言う所まで考えていた。経済的であろうとすれば道徳的になる、道徳的であろうとすると経済的になると言うギリギリのところまで考えて制度設定をしないと必ず誤る。彼はそこまで考えて制度設計したんじゃないかと思っているんです。最終的には自分で資本主義を作り上げたわけですが。どうも、それがうまく機能していないと言う危機感を抱いていたんですね。儲けすぎる奴がいて、貧富の差が広がる一方なので、これはどうにかしなきゃいけない。そこで「道徳経済合一説」を世に広める啓蒙活動をやったわけです。一橋大学を作ったのもその一環です。

    宇沢博史さんが提唱した概念に「社会的共通資本」があります。その言葉は、僕が自分の活動の中で学んできた言葉に照らし合わせると、やはり「コモンズ」だと思うんですよね。共有財、共有地など「財」や「地」と密接に関係する概念ですが、それを突き詰めていくと、アイデンティティーの問題につながるように感じています。

    僕は、著作権に関するNPOに参加して、現在のようなインターネット環境下では、これまで個人が独占してきた著作権や意匠権といった権利をもっとゆるく、他者と共有してもいいんじゃないかと考えています。そのNPOは、アメリカの憲法学者、ローレンス、レッシングが提唱した作られたクリエイティブコモンズと言う運動たいです。僕は自分でデザインした作品をインターネットで発表できるようになった時代に大学生になったので、その考え方にはすごく共感しました。自分の作品で政党に対価を得る事は全然問題ないんですが、時と場合によっては、他者に開放することで、自分自身も得られなかった新しい気づきや出会いが、インターネットによって可能になるのではないかと思ったんです。それこそが「コモンズ」の思考なんですね。

    話はちょっと飛びますが、新婚旅行でモンゴルに行ったんです。単純に「馬に乗りたい」と言う憧れがあったんですが、その時、いわゆる遊牧民の方たちの宿営地で1週間過ごしました。そこで1番衝撃的だったのが、所有の概念が、日本やフランス、アメリカと全く違うと言うことです。一言で言うと、みんなめちゃめちゃ太っ腹。時々見知らぬ隣の宿内の人と遭遇すると、「必ずうちのゲルに寄って、私が作った馬乳酒を読みなさいよ」などと歓待されますし。物の貸し借りも凄く自由ですしね。

    1番仰天したのは、旅の終わりの日のことです。滞在中に馬を貸してくれていた牧場主に呼ばれて「最後に君たちにあげたいものがある」と言われたので、ちょっとした手土産を下さると思ったら、一頭の馬の前に連れていかれて「この馬を君たちにあげよう」と言われたんですよ。そんなの持って帰らないじゃないですか。だから、ひょっとしてその場でお肉にするのかと一瞬でほっとしました(笑)。でもそういう意味ではなく、「君たちがまたこの場所に戻ってきたら、いつでも自由に使えるように、自分がこの馬の面倒をずっと見続けてあげるよ」と言うことだったんですね。そういう種類のギフトは、これまでの人生で受けたことがなかったので、いたく感銘を受けました。 

    普通、贈与は、所有物を相手に譲渡することですから、ある種、決済的なんですよね。でも、その牧場主のおじさんが僕たちにくださったギフトは、関係性そのものなんでしょう。ものを持ち帰るのではなく、僕たちはその時にいつでも戻って来られると言う思いやりの音そのものをいただいた気がしました。所有の概念が、日本、フランス、アメリカなどの近代社会と違って、他者に向かって開かれている。そこで、西洋で言われるコモンズ、とモンゴルで体験したコモンズの違いについて、すごく考えさせられましたね。権利や個人と言うものに対して、僕たちが暮らしている社会とは、全く違う感覚を持った世界があり得ると分かったのは、実に新鮮な体験でした。こういう緩やかで自由な他者との共有と言う生き方を、自分の周りで生活や仕事をしている人たちにも継続していけないものかと考えるようになったんです。コモンズの考え方とは、自分とは異質な他者との関係性を築くための前提条件なのだと捉えると、このこともコミュニケーションの問題とつながってきます。

    p.242 日本は、コロナ禍の自粛にしても、何しても、強制的に道徳を喚起する文化ですね。いろいろな規範が曖昧なグレーゾーンになっている。

    明文化しないと言うことですよね。

    これは、ある意味かってのコモンズの名残なんです。僕らの子供の頃は、料理するのに醤油や酢が足りないと、隣の家で借りたりしていましたからね。マンションで暮らすようになっても、そういう貸し借りをやっていた。やらなくなったのは、コンビニができてからでしょう。

    借りに行くより、買っちゃえばいいと言う。

    コンビニは、日本人からコモンズをなくしましたね。

    p.243 「達成不可能な美的、理想の追求を防ぎ、青少年及びファッションモデルにおける拒食症の発症を予防するため、社会における身体のイメージに働きかける施策」とあります。身体論、イメージ論、メディア論の観点から見ても、ふるっている文章ですよね。だから、今フランスでは、「この広告はPhotoshopで修正している虚構の画像です」と書かないと、かなり重い罰金を課せられます。社会的弱者守ろうと言う議論が起こり、それが法律に落とし込まれるまでのスピード感には確信しました。

    p.250 ちなみに、文芸作品を全てそういう問題に帰結するのですよ。実は、日本の文芸史をひもとくと、今の小説には2つしかないんです。1つは、個人幻想がいろいろな共同幻想に突き当たって不快感を抱いていると言う類の、要するに、フリーター・オタク小説。もう一つは、究極の核家族化が進んだために現れた、女の人の介護をめぐる小説です。特に母と娘の関係を描いた小説。この2つに集約されちゃうんです。だから、文芸雑誌ほど社会学のためになるものはない。最高の素材ですね。

    時代の縮図がそこに出るんですね。

全9件中 1 - 9件を表示

著者プロフィール

1949(昭和24)年、横浜に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2008年より明治大学国際日本学部教授。20年、退任。専門は、19世紀フランスの社会生活と文学。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、99年『愛書狂』でゲスナー賞、2000年『職業別パリ風俗』で読売文学賞、04年『成功する読書日記』で毎日書評賞を受賞。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブWEBサイト「All REVIEWS」を主宰。22年、神保町に共同書店「PASSAGE」を開店した。

「2022年 『神田神保町書肆街考』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鹿島茂の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×