- Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480056290
作品紹介・あらすじ
真理の最高決定機関であるはずの理性が人間を欺く二枚舌をもつとしたら、一大事ではないだろうか。この理性の欺瞞性というショッキングな事実の発見こそが、カント哲学の出発点であった。規則正しい日課である午後の散歩をするカントの孤独の影は、あらゆる見かけやまやかしを許さず、そのような理性の欺瞞的本性に果敢に挑む孤高の哲学者の勇姿でもあったのだ。彼の生涯を貫いた「内面のドラマ」に光をあて、哲学史上不朽の遺産である『純粋理性批判』を中心に、その哲学の核心を明快に読み解き、現代に甦る生き生きとした新たなカント像を描く。
感想・レビュー・書評
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哲学初心者の立場から書評を書きます。そもそもカントの存在を知ったのは、本書では取り上げられていないコスモポリタン、あるいは永遠平和という概念におけるカントの貢献でした。そこからカントに対する関心が高まり、じゃあ勉強してみようと思って本書を手に取りました。全体的な印象ですが、「ギリギリ」入門書と呼べるレベルで、そこに著者の並々ならぬ苦労を感じました。内容は非常に興味深く読みました。「血の通ったカント」というキーワードがありますが、まさにカントの人間像までが浮かび上がってきて面白かったです。また本書を通じてカントの哲学についてほんの少しだけ理解が出来た気がしますが、なにか人間礼賛的なポジティブな雰囲気を感じたのは私だけでしょうか。
本書を読んでいて何度か仏教もしくは密教との共通性を感じました。「自由と道徳法則」の章で紹介されていたカントの「善意志」という概念。カントが唯一絶対として認めた善意志は、絶対的全体にもかかわらず人間が到達可能でもあるという。これなどは仏教で言うところの「仏性」に近いのではないでしょうか。真言密教的に言えば「大日如来」がそれにあたるでしょう。密教では、大日如来という絶対的な真理(法)が、色々な形になって世の中に(仮象として)あらわれます。そして大日如来を法身(ほっしん)と呼ぶのに対して、ゴータマ・シッダルタのように真理(法)を体現した存在は応身(おうじん)と呼ばれます。カントについても、本書の宗教論(第7章)では、キリスト教におけるイエス・キリストのような外部の存在は理念そのものではなく、キリスト教の理念は「われわれの理性の内に存在する」と述べています。これなども大乗仏教的に解釈すれば、キリスト教の理念そのものを法身とし、イエス・キリストを応身とみなしていると言えるのではないでしょうか。変な言い方になりますが、「小乗キリスト教」を「大乗キリスト教」に昇華させようとした試み、と言えるかもしれません。そのほかにも密教における理と智(胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅)、さらには五智の中の平等性智(共通点を見いだす智恵)と妙観察智(相違点を見いだす智恵)などを連想させるような記述もあり、非常に興味深く拝読しました。カントが空海と対談したらさぞかし面白いんじゃないかと勝手に妄想してしまいました。 -
すでに鬼籍に入っているカント研究者による、ちくま新書初期のベストセラー。カント代表作『純粋理性批判』は既読だが、僕のような素人が一度や二度読んだところで理解できるはずもなく、またすぐに内容を忘れてしまう。本書のような哲学者の解説書は原著にあたる前に読むのが普通だと思うが、原著通読後に復習することによって、理解と記憶の定着が図られるのではと思う。
本書の白眉は、「カントの仕事の本質は弁証的理性がもたらす欺瞞、すなわち『仮象』を批判することにある」という主張を一貫して保っていることだと思う。この「仮象」という言葉は本書のキーワードであり至る所で出てくるのだが、これにより論理に一本の軸が通され理解を助けてくれる。例えば、
- 空間と時間という本来主観(感性界)に属する性質が、客観的世界(理性界)に属するかのように装わせる「仮象」。
- ある命題が実質的には仮言命法であるのに、形式的に定言命法であるかのように装わせる「仮象」。
…のように、仮象批判の形でカントの理性批判が説明できてしまうのだ。
このような仮象の原因とされる「理性」だが、この理性を有することによって、人間は感性界のみならず理性界(叡智界、物自体)にもリーチできる。まさにそのことによって人間は①自由意志を持って因果を自らスタートさせることができるし、②道徳法則(理性界)を参照して何らの前提もなしに定言命法を行うことができるのだ。本書ではこの2点が同一の図式で示されており、大変理解がしやすいものとなっている。
そして、この自由と道徳が互いに他の根拠であるという「自律」が、他の何にも依拠することなく、原因と結果を一つの連環で繋ぐ「宙吊り構造」を持っていることが強く僕の興味を引いた。ゲーデルやマルクスを扱う知識人の著作(ダグラス・ホフスタッターや岩井克人)にこの宙吊り構造の話が出てくるのだが、この構造は(逆説的ではあるが)脆弱であるが故に強い。全く分野の異なる知識人たちが全く異なるアプローチでこの構造にたどり着いていることに、強い驚きを禁じ得ない。 -
カント哲学への挑戦。懇切丁寧に解説してくれているのはひしひしと感じるのですが、それでもとてつもなく難解。何とかかんとか理解してやろうと必死に食らいつきました。
特に「純粋理性批判」の内容に触れている前半部分は、結局何だったのと説明を促されても上手く表現できません。とほほです。また別の本やらネットで復習します。
まだ、「道徳形而上学原論」に触れている道徳感はまだ親しみやすい。自分の実体験として共感できる部分が少なからずあった。第三のアンチノミーは互いに真であるため矛盾が成り立たない、人間は理性と感性の存在様式を有している。そういった観点から論じられていると思っています。仮言命法は「~ならば~すべし」と目的と手段が別個になっており下心がそこにはあり純粋な善ではない。定言命法こそが「~すべし」と義務感を携えながらの真の善であるのだー。あとは、幸せの追求はどこか邪なことで、道徳の追求は幸せを享受するために己を高めることなのだー。とても厳格な生き方だと思いますし、カントの徹底性が表れているとな。
最後の「判断力批判」は全くの初見でついてのがやっと。「合目的性」という概念をもって快・不快の感覚を紐解いているといった感じでしょうか。美は悟性との調和による「目的なき合目的性」という解釈を経て、人間の「共通感覚」へ導いている。さらに昇華された解釈として自然の合目的性から人間自身のうちにある究極目的へとたどり着いている。もう頭がパンクしてしまします。
それでは、「純粋理性批判」そのものへアプローチしてみましょうか。多分な解説を所望します。ふふん。 -
「哲学は難しい」というイメージを絵に描いたようなカント。
わたしの経験では、「永久平和のために」は、あっさりと読めてしまったのだけど、主著とされる「純粋理性批判」は、全く歯が立たない。1ページも読めない感じですね。
カント自身による入門書ということになっている「プロレゴメナ」も数ページでギブアップ。
「日本語への翻訳が難しくしているだけで、日常的なドイツ語としてはそんなに難しくない」とか、「インドーヨーロッパ系の言語である英訳で読むと、意味が通じる」みたいなことをいう人もいた気がするが、アメリカで政治思想のコースを取ったときの先生も、「正直言って、カントは何言っているか、わからない」と言っていました。
やはり「カントは難しい」のだと思う。
さて、そういうわけで、「純粋理性批判」を読む日がやってくるとは、思わないけど、どうも、そこが近現代の哲学の出発地点であるようで、いろいろな哲学者がそこに言及しながら、議論を進めることが多いので、まったく無視するわけにはいかない感じがしている。
あと、アーレントの主著を年内に読破するプロジェクト(?)の最後にそびえ立つのは、難解なアーレントのなかでも最も難易度が高いとされる「精神の生活」で、これを読むためには、カントの3批判を理解するのが前提条件となる。というのは、「精神の生活」は3部作として構想されていて、内容的には、概ね、カントの3批判に準じる順番になっているらしい。。
というわけで、新書でカントに入門することにした。
入門といっても、結構、難しい。が、大きな見取り図というか、どういう問題意識をもって、カントがなにを、どう考えようとしていたのかというところがとてもよくわかった。(カントは、思考の結果を本にして、そのプロセスはあまり書かないのでわかりにくいという面があるようですね)
何が問題なのか?がわかると、だいぶ、接近できる可能性が増える感じがする。
なるほどと思ったら点はいろいろあるが、1点だけ紹介すると、「純粋理性批判」でやろうとしていたのは、形而上学が、考えることができる領域とそうでない領域を線引きしたこと。
カントの時代には、論理的に考えれば、なんでも理解できるという思想が主流だったらしい。その中心のヴォルフは、同一律と矛盾律。つまり、A=Aというロジックですべては説明できるという考え。
一方、カントは、ロジックをどんどん遡っていくと証明不可能な命題にたどり着くと考えた。
たとえば、「世界は空間・時間的に始まりを有する」ということは説明できない。
というか、その反対の命題「世界は空間・時間的に無限である」と同様にどちらも正しいと論理的に証明できてしまうという矛盾。
カントは、この問題は、空間・時間のなかにいる我々にはもともと説明できる範囲を超えた問題であると考える。
こうした線引きをすることで、いわゆる「物自体」はわれわれの認知の範囲外であり、知りえない。われわれは、認知の限界の範囲で哲学すべきである、ということのようだ。
これによって、伝統的な形而上学のお題だった「神」「自由」「魂の不死」は、学問としての形而上学から排除されることになった、そうである。
そういう話だったわけか!!!
と驚きつつ、それって、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」でやったことと同じじゃないの?という疑問もわく。
ウィトゲンシュタインが「哲学的な「問題」への最終解答」と言っていたのも、「語り得ること」と「語りえない・沈黙すべきこと」を峻別することのはず。。。
カントがずっとさきにこの峻別を行なっていたとするなら、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」がどうしてそんなに衝撃的だったのか、どこが新しい発見だったのかがわからなくなった。
まあ、そんな感じで、まだ、カントの著作を読む気力はないが、カント関係の入門書を将来の読書リストに入れておくことにする。 -
たいていのカント入門書は『純粋理性批判』の構成通りに解説が進んでいくが、この本はアンチノミー論(超越論的弁証論)を軸にして進んでいく。この構成のおかげで、カントがなぜ超越論的観念論という一見奇妙にも思える主張をしたのかがよくわかるようになっている。すぐれた入門書といえる。
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カントの入門書として分かりやすいと聞いたので読んでみた。
「二律背反」という、聞いたことあるけど、あんまりよく分かってないことについて理解が深まった気がする。
ただ、一度読んだだけでは、理解しきれていない感が否めない。
また、再読するか、他のカントについての本を読む機会を持つ必要を感じた。
けれども、難解なことを要点をつまんでできるだけ分かりやすく理解させようとしている点で、やはりカントへの入口としてはいいのではないかな、と思う。 -
カントを通して、目的と手段のエセ関係と根本目的を学ぶ。本文に回心とあるような、哲学する醍醐味を存分に味わった。たしかに生きることに厳格な哲学だ。真の批判だ。
・哲学においては定義は出発点ではなく、むしろ目標とすべき終着点。
・根本真理は原理的に証明不可能。
・アプリオリは先天的と訳すのではなく、経験に由来しないという意味。
・仮言命法と定言命法。
・定言命法は有限な人間にあっては、大なり小なり「~にもかかわらず」という意識を伴う。
・道徳法則は、その起点(理性)から落着点(感性)の方向において命法となる。
・悪への性癖は英知的所行。根源的である自由に基づいているから。
・現代的意味とは何であろうか。現代的意味があればあるほど、束の間の意味しかないということ。現代的意味を問うパラドックス。もし、ある哲学が時代の制約を受けながらも、どの特定の時代にも拘泥せずに営まれたものであるとすれば、その意味を問う者は時代を超えたスケールをもってしなければならない。 -
哲学の基礎知識が不足していたためか、難解でした。初心者はもう1冊読んだ「純粋理性批判入門」のほうが理解しやすいと思います。
認識論はとても興味深い。誰でも自分の見えている世界は存在するのかと考えたことがあるかと思います。カントは現象と物自体で論理を展開していきます。素朴にあると思っている世界が様変わりするのは痛快です。考え出すと眠れなくなります。 -
入門書ではあるが、私には難解だった。平易に記述しようという気持ちは感じられる。しかし用語に馴染みがなかったり、特有の意味が与えられていたり(例えば「自由」や「目的」)しているため、内容がなかなか頭に入ってこない。それだけカントを平易に語るのが難しいということなのだろう。