方法序説 (ちくま学芸文庫 テ 6-3)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (284ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480093066

作品紹介・あらすじ

「私は考える、ゆえに私はある」-近代以降のすべての哲学は、「考える主体」を導き出すこの言葉から始まった。これは、すべての人間が理性を有することを前提として、近代精神の確立を宣言するものである。かくして、本書は、世界でもっとも読まれている哲学古典の一つとなった。だが、若きデカルトが、すべてを疑うという地点から発して、精神と神の存在を証するまでには、緻密な思索を重ねる必要があった。その思索はどのようなものだったのか。本文庫版では、原文完訳に加え、正確な理解ができるような、完全な解説と注を付す。

感想・レビュー・書評

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  • 世界でもっとも読まれている哲学書とも言われる、デカルト初期の代表著作です。デカルトの生きた時代は、日本で言えば江戸時代の初期のころです。全6部構成。

    本書のはじめは、デカルトの自伝的叙述になっています。そこで、「書を捨て旅に出る」ことの大切さが、デカルト自らの経験から語られますが、世間の実態に触れて学ぶという意味では、大きく言うと社会学のススメとも言えるのではないか、と思えました。象牙の塔となるな、ということでもあります。かつて戯曲家・寺山修司にも「書を捨てよ、街に出よう」という言葉があり、デカルトに共感しての言葉だったのかもしれないですね。

    速断や偏見には厳重に注意せよ、とデカルトは言います。問題を解くためにはそれがまず大事だと。そうした仕事をやり遂げるためには、当時23歳のデカルトはもっと歳を重ねて熟してからと考えていました。僕が思ったのは、そうやって留保しておくには、速断したい物事や問題を、仮説や推論としておくことだろうなということです。速断は避けたくても、仮説でまとめておかないと落ち着かない、という気持ちってありますし。



    第二部のところですが、方法の4規則、があります。これがいちおう、本書のタイトルにもなっていますし、テーマの大切な一部です。デカルトは普遍学を志向する人でしたが、この方法の4規則というものにも、その志向性が見えます。この基本的な4規則を用いれば、どんな学問でも問題を解いていけるとしたのですから。しかしながら、この4規則で解けない問題がたくさんあることは、後年のデカルトにもよくわかっていたようです。

    __________

    第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなものも真として受け入れないこと。すなわち、注意深く速断と偏見と避けること、そして疑いを容れる余地のまったくないほど私の精神に明晰かつ判明に現れるもの以外は、私の判断のなかに取り入れないこと。
    第二は、私が吟味する諸問題のおのおのを、できるかぎり多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分けること。
    第三に、私の思想を順序に従って導くこと。最も単純で最も認識しやすいものからはじめて、少しずつ階段を踏むようにのぼってゆき、最後に最も複雑なものの認識にいたること。そして、自然のままでは後先のないものの間にも順序を想定して進むこと。
    最後に、私が何も見落とさなかったと確信できるほど、完全な枚挙と全般的な見直しをすべての場合に行うこと。(p37-38)
    __________

    →普遍性はなくとも、使える規則だと思います。すごく簡単に言えば次の通りに意訳できると思います。まず、はっきりわかるもの以外に勝手な答えを当てはめて決めつけることはしてはいけない、それは偏見であるからで、問題は慎重に向き合うことだ、という出合い頭でのスタンスが述べられています。次に、問題を小分けすることと説かれている。そして、小分けした問題を、簡単なものから取り組んでいくこととされる。最後に、自分がやった手順を数えて認識し、さらに、間違っていたりおかしかったりしないか見直せ、とある。
    これって、日常で問題解決にあたるときにまずやる基本だったりしますよね。



    次に第四部の形而上学の章を。

    __________

    そこから帰結するのは、われわれの観念や概念は、それらが明晰判明であるあぎりにおいて、実在的なものであり、神に由来しており、ただその点においてのみ真であるということである。したがって、われわれがしばしば虚偽を含んだ観念や概念を持つとするなら、それは、それらが何か混乱した不明なものを含む点においてでしかない。なぜなら、この点でそれらは無を分け持っているからである。つまり、それらがわれわれにおいて混乱しているのは、われわれが完全無欠ではないからである。(p64)
    __________

    →人間の考える観念や概念が真である場合、それらは神様に由来して備わったもののおかげで、しばしば人間は誤った観念や概念も持つけれども、それは神様が悪いのではなく、人間がその内に混乱した不明なものを含んでしまったからである、というように読めると思います。神様は完全で完璧なのだから、という前提からきているわけです。僕はここが怖いところでもあると考えました。それは、人間の内にたびたび含まれる混乱した不明なものをできるだけ取り除いていこうという思想に繋がりやすいからです。つまりは、神様のほうを向いて、より純粋な人間になろうとしてしまう。そうやって神に近づけば、「虚偽を含んだ観念や概念」を持つ頻度が減るからです。で、純粋性を志向していくとどうなるか? 完全に自己完結しているのならば害はないのかもしれませんが、こういった場合、往々にして、純粋ではないものに対しての排除性や攻撃性が生まれるでしょう。宗教由来の暴力や戦争がどうして起こってしまうのか、その理由の一端がここからうかがえるのではないでしょうか。


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    結局、われわれが目覚めていようと眠っていようと、われわれの理性の明証性によってでなければ、決してものごとを確信すべきではないのである。そして私は、理性の〔明証性〕と言っているのであって、想像力でも感覚でもないことに注意してほしい。たとえば、われわれが太陽をたいへん明晰に見るからといって、それが見えているとおりの大きさしかないと判断してはならない。また、われわれはライオンの頭をヤギの胴体に接いだものを十分判明に想像することができるけれども、だからといってキマイラという怪物がこの世に存在すると結論すべきではないのである。(p66)

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    →安易な判断を下さないことへの警句みたいなところです。でもまあ、太陽にしてもキマイラにしても、きちんとした情報を知っていないと間違った判断や結論を下してしまいます。だから、ここでは知識や勉強の大切さと、その前段階で持っているべき物事の理解への慎重さの大切さにも考えを及ばせておくとよいかなあと思いました。

    また、補足として、訳者による解説部分を引用します。

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    たとえば、水の中のオールは曲がって見え、四角い塔が遠目には丸く見える、といった錯覚が好例である。これらは、われわれに知識は確実性に達しないことを結論するために、古代の懐疑論者が好んで出した例でもある。(p165 訳者解説部分より)
    __________

    →感覚や知覚って、そんなに確かなものじゃないっていう懐疑をデカルトは述べていましたが、そういうことへの気づきの一端がこの「水の中のオール」的なところからの発想だったのかもしれません。



    かいつまむと、こんなところです。以下は、訳者による解説部分から、「これは」と思ったところの引用です。

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    また、精神や理性は人間だけのもので、機械にすぎない動物はそれをまったく欠いているという説にも、現在では異論が多いであろう。しかし、人間精神の本性はものを考えることにあること、人間の人間たる由縁は精神という高度に発達した知的機能を持つ点にあること、しかも、その機能をただ持っているだけでは十分ではなく、よく使わなければならないこと、これらの基本的主張には、なお傾聴すべきものがあると思われる。(p196-197 訳者解説部分より)
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    →これは、人間はせっかく知性や理性に優れている存在なのだから、無為に生きて労力や時間を無駄にするのではなくて、十分にその能力を使っていこう、という思想でしょう。さらにその思想を強調して、それが「人間精神の本性」という言い方で正当性を持たせている。たしかにもっともな主張なのですが、人間のなかには精神面に大きなダメージを負ったり、精神の病や症候群になったりなどして、思うようにものを考えることができなくなる人たちが多くいらっしゃいます。デカルトのこの思想には、そういった人たちの生の尊厳について考えが及んでおらず、そこは現代人である僕らが自分たちで考えて補わないといけないところでした。



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    ここでも普遍学的な学問の構想と万人の学問参加という考え方は、やはり生きていると言える。(p207 訳者解説部分より)
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    →デカルトは、どんな学問にも適用できる方法や規則、真理の探究といった姿勢が基盤にある人です。そして、学問の発展のため、ひいては人間各々が善く生きるため、学問にみんなが取り組もうと考えている。僕も考えることがあるのだけど、この先、AIが発達して多くの仕事を機械が担当するようになり、人間は働く時間や機会が減っていくかもしれないと想像しても、そんなにおかしいことではないですよね。仕事がなくなっていって、「じゃあどうやって稼ぐのだ」という大きな問題は浮上するのですが、機械によって稼いだぶんでベーシックインカムみたいなことはできないのかな、とさらに夢想していくばかりだったりもします。で、それはひとまず置いておいて、仕事がなくなり自由が時間ができる人間たちは、「労働の義務」の重荷からかなり解き放たれるのですが、そうなったときにデカルトの考えるような「万人の学問参加」を「労働の義務」の替わりに設けたらどうなのだろうと思うんです。「えー、勉強なんてしたくない」なんて、義務教育を経た僕らの多くは嫌悪の感情を持ちがちかもしれません。でも、無理やり詰め込ませたり、強制的かつ他律的に考えさせられるような勉強ではなく、自分の好奇心に従う形で、好きな勉強というか学問を選んで、ものを知り、頭を使っていく、そして自分なりの知見を創造していくのならば、「労働の義務」よりずっとストレスにならないんじゃないかなあ、と僕なんかには思えるのでした。ゆえに、「万人の学問参加」という言葉には共感です。


    以上でした。現代では、デカルトの『方法序説』は古びた書物と捉える大学生も多い、と言われていました。それでも僕にとってみれば、踏まえておくべきものとしての重要性のある箇所もいろいろありました。翻訳や解説が秀逸ということがあるでしょうが、本作はそんなにわかりにくくありません。哲学の入門書として、手軽に手に取ってよい本だと思いました。

  • 「私は考える、ゆえに私はある」が有名な本書

    自分なりに噛み砕いた解釈では
    要は
    世界には真理があり、規則がある
    それは神が世界をそのように作ったというしかないようなものである
    どんな学問にも共通した真理、規則があり、一つずつ学んで、蓄積していけば、学んだことがない分野の問題でも理解し解けるようになる
    これらの学び方は、本来この本により学ぶようなことではなく、自分で思考して得るものである

    学問のススメってことなのかな、、

  • 平易で読みやすいな。そう思ったのは、「我思う、ゆえに我あり」の論じられた本書への先入観から。
    対象者が専門家ではなく万人向けとされている。デカルト個人の半生や学問に対するスタンスが説かれている。学問のススメ的な佇まいもある。「私は~」という文章が多めであり、哲学書というよりも思索的エッセイのよう。著者の思い、その誠実さが伝わってくるようでもある。自己啓発書的な側面もあると感じる。

    「我思う、ゆえに我あり」とのデカルトの到達点は当時センセーショナルだったろうし、今もなお、私たちに多くの示唆を与えてくれる。しかし哲学という物語はここで終わらない。後の哲人によってその都度取り沙汰され、勘案されてゆくのだから。このことは『ドラゴンボール』においてレッドリボン軍を壊滅させた孫悟空がそれでも冒険を止めなかったことに連関しないか。知は戦闘力でもってその多寡を数値化できないわけであるが、それでも人々は知を、知の在り方を、その堅固さを求め続ける。戦闘力ではない、何か別の度量衡を模索したりもする。

    驚くべきは本書の発刊年が1637年ということ。日本は江戸時代、島原の乱と同年。この時期にここまで現代に近しい考え方を有していた人物が西洋にはいたという事実。
    また仏教的・東洋的な箇所がある点も興味深い。「極端なものは好ましくない」とするのは中庸の考え方に通じるし、「万物は変化する」との論は諸行無常を連想させる。

  • 平易というよりは簡便な文章・語彙・流れではあるけれど、読んでみると実は非常に高いハードルをデカルトは己自身に課している。とは言え、いったいデカルトは自分がどれほど頭が良いと思っていたのだろうか。
    解説が非常によくできていて、そちらの方が気に入った。

  • 「我思う故に我あり」の名言を辿りたく、手に取った
    内容としては正直、難解過ぎてよく分からなかった(特に後半)
    ただこれでも、随分わかりやすく日本語化、そして解説が付けられているのだと思う
    実際、本文訳は本書の1/3程度で、もう1/3がその解説、残り1/3が参考文献等の紹介であった

  • 古典を読もうプロジェクト。序説なのである程度分かる。

  • これまで飲茶氏の著作に代表されるような、哲学に関する読みやすい入門書を好んで読んできたが、代表的な古典哲学の訳書も読んでみたくなり、まずは読んでも疲れなさそうなボリュームで、かつ近代合理哲学の出発点ともいえるデカルトの『方法序説』を選んでみた。ページ数では岩波文庫版が一番少ないのだが、単に日本語訳されたものではなく解説が充実しているものが良かったので、山田弘明氏訳のちくま学芸文庫版にした。

    本書の特徴は、充実した解説だけでなく、読みやすさを意識した構成である。具体的には、要点が一目瞭然となるように、序文にしたがって訳者の判断で表題が付けられ、さらにそれをいくつかの節に分けたうえで小見出しも付けられているため、自分のような初めての読者にとっても非常に読み進めやすい。

    50歳目前にして、デカルトに関しては、高校の倫理の教科書や哲学の入門書に述べられていること以外は全くといっていいほど知らず、『方法序説』の存在すら知らなかった。有名な「われ思う、ゆえにわれあり(コギト=エルゴ=スム)」の言葉は知っていても、その真の意味するところやどのような経緯で生まれた言葉なのかなど、本書を読むまで知る由もなかった。

    『方法序説』の研究や解説は数多くなされているため自分なりの解釈などは控えるが、本書を読んで率直に感じたことは、執筆時の若きデカルトの意外なまでの行動力と精神力であった。とかく歴史に名を刻む近代哲学者に対しては、内省的で内にこもりながら自分なりの哲学を構築していくイメージが強く、実際にデカルトも軍人として冬営地に留まった際、炉部屋にひとり閉じこもりながら存分に思索に耽ったことで、4つの規則(明証の規則、分析の規則、結合の規則、枚挙の規則)を導き出している。
    しかしながら青年期のデカルトは、当時の学問に対して批判的な立場をとりながらも、部屋に引き籠もって同じ場所に留まって考えるだけでなく、長い時間をかけて旅をし、時には他国に移り住みながら自身が発見・構築した理論をひとつひとつ丁寧に検証していくという行動的な側面を持っている。しかも、4つの道徳的格率を己に課し、それらを頑ななまでに守り抜くという強い精神力(理性)を併せ持っている。
    つまりデカルトは、自身が切り拓いた学問の地平を、実社会における実践知にまで昇華して役立てるものとするために、強固な理性を基盤にして意識を内と外に向けつつ思考を極限まで研ぎ澄ませたからこそ、「われ思う、ゆえにわれあり」という究極的な思考の境地に辿り着いたのではないだろうか。

    『方法序説』においては、いわゆる「神の存在証明」や、後半に述べられている自然学の諸問題に関して、論理が飛躍し過ぎていたり、現代の常識からすると解釈が誤っていたりする部分があることは否めない。ただ自分の高校時代を振り返ると、カタカナ用語が乱発する倫理の授業は苦痛で仕方なく、単なる面倒くさい暗記科目としてしか捉えていなかったが、VUCA時代といわれる現代だからこそ、ブレない道徳観や格率に基づいて学問を再構築しようとした、デカルトの愚直なまでの姿勢に学ぶことは多いのではないだろうか。
    改めて古典哲学を学ぶことの意義を再認識できた一冊であった。

  • 序説自体はナショナリティによるところもあり、なかなかピンと来ない部分もあったが、解説がありがたかった。
    実生活においても道徳の三原則を意識に持っていれば、この世を生きやすくなるように思う。

  • 平易になっているとはいえ、内容は頭に入りにくい。

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著者プロフィール

1596-1650年。「近代哲学の祖」と称されるフランスの哲学者。主な著書として、本書(1637年)のほか、『省察』(1641年)、『哲学原理』(1644年)など。

「2022年 『方法叙説』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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