コミュニティ (ちくま学芸文庫)

  • 筑摩書房
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感想 : 11
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480098252

感想・レビュー・書評

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  •  バウマンさんの本は最近ちくま学芸文庫でよく出るので読んできたが、今ひとつぴんと来ない部分があった。だが本書はたいへん優れた書物で、刺激的だった。
     この人の文章はとても読みづらい。論理の筋道がすっきりとしておらず、明快さに欠けている。しかし我慢して読んでいくと、ここにはなかなか面白い思想が記されている。
     ここでの「コミュニティ」概念は、人々が無自覚的に寄り添いあい、理解を共有している理想の原型としては、古代から近代手前までの原始的な家族・氏族・部落のイメージがあるのだろう。
     しかし西洋人類史はみずからそれを破壊し、それでもコミュニティへの憧憬を抑えられずに、人工的ですぐに壊れてしまうような仮のコミュニティを製造しようとする。
     近代以降の「アイデンティティ」とは、コミュニティが破壊されたことによって生まれた、とする指摘が、抜群に面白かった。
     個人→集団へ、ではなく、集団→個人へ、という逆の流れだ。
     最後の方で「多文化主義」が、現状として「いかにあるべきか」を決定できない隘路となってしまっているという批判も痛烈だ。
     今や多文化主義は基本として把握しつつも、さらにその上で知性を働かせ続ける必要がある、ということだろう。
     読みにくいのでコンパクトながら時間をかけて読んだ。しかし最近自分は集中力がないため、意味内容を取り残した部分も多いと思う。元気なときに再読したい本だ。

  • 第110回アワヒニビブリオバトル テーマ「文庫本」第2ゲームで紹介された本です。ハイブリッド。チャンプ本。
    2024.2.6

  • 【蔵書検索詳細へのリンク】*所在・請求記号はこちらから確認できます
     https://opac.hama-med.ac.jp/opac/volume/478224

  • 不安定で先行きの見えない社会情勢の中で「コミュニティ」つくりに関わる取組みやその重要性への期待は年々増してきているように思う。私自身も非営利組織の支援に関わる中で真摯にコミュニティに向き合おうとしている方々と多く仕事をしている。そんな時だからこそ読みたい本。グローバル化が進展し歴史的に個人を(良かれ悪しかれ)包み込んできた地域や国家や企業の枷が緩み、”エリート”と”ゲットー”の分断が進む中で不安な個人が求めるコミュニティの利点だけでなく懸念点を理解することは非常に重要と感じる。読みやすくはないがコミュニティに関わる人には一読してもらいたい

  • コミュニティ ジグムント・バウマン

    このような骨太の書物を要約することは非常に難しいが、試みてみる。
    本書は、コミュニティの性質をとらえたうえで、近代化の過程で如何にしてコミュニティなるものが崩壊してきたか、そして現代が抱える問題について看破する。まず、コミュニティとは表題にもある通り、安全と自由の戦場なのである。これは簡単なことで、コミュニティに帰属することは安心を伴うが自由を損なう。一方、コミュニティから脱することは自由を得るが、安心を損なうというコミュニティのフィルターを通した安心と自由のトレードオフについて話している。近代化の過程での二大潮流であるナショナリズムとリベラリズムは、どちらもコミュニティを敵とみなした。ナショナリズムは国家という画一的な信念体系に人々を統合するために、これまで人々を統合していた中間共同体を目の敵にした。フランス革命後のル・シャプリエ法にもあるが、ナショナリズムとは人々をまずコミュニティという実態を持ったコミュニティから引きずり出し、国家という想像の共同体に再配置するダイナミズムのことである。人々が想像の共同体から引きずり出されることで、コミュニティは成員を失い、減退していく。一方、リベラリズムもコミュニティを敵とした。前述のとおり、コミュニティは自由を差し出す代わりに自由を取り上げるものであるからである。リベラリズムにとって、コミュニティは忌むべき因習であり、唾棄すべき前近代の象徴であった。こうして、近代化の中で、コミュニティは目の敵にされ、主で舞台からの退場を強いられた。経済の側面で言えば、グローバリゼーションにより経済の領域はますます地域にとらわれない脱領域的なものとなり、生産ではなく消費に焦点があたることで商品の早いスパンや変化し続けることに価値が見出されるようになった。絶えず流動化する経済のあり様は、足る分だけを作るという生産の概念に対して、欲望を駆り立てて消費を活性化させることが優越した結果であった。こうして変化に価値を持った社会において、変化の自己目的化が進んだ。かつてのエリートは社会変革のための変化を望んだが、現在のエリートは絶えず変化することに気を取られ、あるべき社会のビジョンを失ってしまった。経済活動が脱領域的となったこと、コミュニティが消失し、人々が準拠集団を失ったことで、個人は未だかつてない実存的不安を抱えるようになった。このように固定的なものを自由への阻害要因として世の中から消していった結果、何一つ信頼できる地盤がなくなってしまった後期近代を筆者はリキッド(液状的な)モダニティと呼ぶ。このような液状化は多文化主義の議論にまで及ぶ。リキッドモダニティでは、多文化主義の進行(信仰ともいえる)が、相対論へと到達し、最終的にはニヒリズムとなっている。皆すべて正しいという相対論の先に、文化人さえも規範や倫理の議論を辞めてしまっている。これは文化人としての退廃であると筆者は看破する。多様性を否定することはできないが、相対論が無関心に到達した時、その多様性は意味を無くす。無関心と結びついた多文化主義では文化の共存は可能であるが、その共同生活による恩恵を受けることはできない。真の価値は長い対話により開かれるものであり、文化的多様性の承認は問題の終わりではなく、始まりなのである。
    様々なものが相対化し、液状化する現代社会において、筆者は最後にやはりコミュニティへの期待を述べる。
    「今日の原子化した社会の病理と真っ向から対決しようとするならば、思い起こすべき課題は二つある。それは、権利上の個人の運命を事実上の個人の能力に作り替えるのに必要な資源の平等化と、個人的な無力や不幸に対する集団的な保障の構築である」
    コミュニティは人々にアイデンティティを与え、実存的な保障を提供するとともに、再分配と通じて資源の平等化を進める。「原子化した社会の病理」に立ち向かうために、我々は今一度コミュニティの価値を問い直し、歴史の舞台に返り咲いてもらわねばならない。

    (文化多様性と相対論に関する補足)
    今年読んだ本の中で最も面白かったと言える本は水町勇一郎先生の『労働法入門』である。本書、労働法の枝葉末節ではなく、労働法の歴史的経緯や労働法に込められた倫理的な信念が語られた本である。昨今では、相対論は信仰するが、自由を推し進めた先に人倫にそぐわない社会的事象が発生することは多々ある。労働法はそのような諸問題を未然に防ぐ法体系であり、不断の努力である。私の今のホットトピックは社会保障であったが、社会保障がセーフティネットであり、対症療法であるのに対して、労働法は予防の観点が強い。人格と不可分である労働への規制は、倫理や哲学そのものである。人間にとって、社会にとって何が正しさなのかを追求する労働法は、相対論の荒波に対する防波堤となりうるものであり、その防波堤の意義は現代においてますます大きくなっている。

  • 読んでいて暗い気分にさせられるものだった。全員正社員だった時代は職場の厳しい監視の元できつい仕事に従事していた。我々がそれにノーをつきつけたのかどうかは分からないが、そういう正社員コミュニティが崩壊してしまった今、我々の上には重苦しい不安がのしかかっている。もう過去に戻ることはできそうもないと思うとなおさら暗い気分にさせられた。

    本書が上梓されたのは2001年だったそうだ。その頃この本を読んでいたら、対岸の火事と思えたのだが、今読んでみると日本の現状をそのまま指摘していると思える。

  • ”2017年に亡くなった社会学者 ジグムント・バウマン氏による、ややシニカルなコミュニティ論。2001年発刊の原著が 2007年に邦訳されており、2017年に文庫化されたもの。

    序章「ようこそ、とらえどころのないコミュニティへ」で、「コミュニティ」とは、安全と自由のトレードオフの場であることを指摘。エリートと非エリート、グローバルとローカル のように敵対する一派におけるコミュニティの意味を解説。

    <抄録(抜き書き)>
    ・仲間や社会は悪いものでありうる。しかしコミュニティはそうではない。コミュニティは、いつもよいものだと感じられるのである。
     ※companyやsocietyは悪いものとして非難の対象になるが、「コミュニティ」という言葉の語感(feel)はよいもだ、という主張。一方で、「現実」は非常で、競い合って、手の内を見せず、他人に頼るなといわれる時代である、と。
    ・これはまさに、「厳しい現実」、明らかに「非コミュニティ的」な、あるいははっきりと反コミュニティ的な現実とは異なる、「温かい感じ」に満ちた想像のコミュニティである。(略)想像の(仮定の、夢想の)コミュニティは、よく生育する。その晴れわたったイメージに混乱をもたらすのは、別の差異である。すなわちそれは、夢想のコミュニティと「現実のコミュニティ」との間の差異である。

    ・人間の集合体が「コミュニティ」として経験されるのは、長い歴史と、それ以上に長いかと思われる余命を通じて、相互作用が頻繁かつ濃密に交わされるなかで、人々に共有される伝記的な記憶を源として、その集合体が「固く結びついている」場合だけである(3章)

    ・倫理的なコミュニティは、長期の関与、譲ることのできない権利と揺るぎない義務から作り上げられる必要がある。永続性が期待できる(略)からこそ、未来を計画したりプロジェクトを構想したりするときに、既知の変数として扱うことができるのである (5章)

    ・安心は、異文化間で対話が行われるのに必要な条件である。それなしで、コミュニティが互いに心を開くことも、対話に乗り出すことも、まずない。対話は、一つ一つのコミュニティを豊かにするとともに、コミュニティの枠を越えて人間性の共有をうながす。(9章)

    <きっかけ>
    「つながり」本の購入ついでに、気になっていた本書も購入しました。”

  • 東2法経図・6F開架 361.7A/B28k//K

  • コミュニティーが具体化するものを遍く望み得るほどに人々がある意味で等価でないことは資本主義に対するマルクスの指摘の通りであり、であるが故にコミュニティーが毀損する事での懸念もそれに代替すると思われるゲイテッドシティー構想が生む弊害も良く理解できるが、それをどういう形で望ましいものに変遷させていくか?の英知にはまだ至っていないようだ

  • ジャック・ヤングは、ホブズボームの指摘や論評に簡潔かつ的確な解説を加えて、こう言う。「コミュニティがまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる」。
    「アイデンティティ」は今日人々の間で話題に上るし、それをめぐるゲームが人々の間でごく日常的に行われてもいるが、それが人々の注意を引いたり情熱を生んだりするのは、コミュニティの代用品であるからだ。p27-28

    安心の増進はつねに自由の犠牲を求めるし、自由は安心を犠牲にすることによってしか拡張されない。しかし自由のない安心は、奴隷制に等しい(さらに加えて、自由の注入されない安心は、結局はきわめて不安定な類の安心であることが判明する)。一方で、安心のない自由は、見捨てられ途方にくれることに等しい(そして結局のところ、安心の注入されない自由は、きわめて不自由な類の自由であることが判明する)。この状況には治療法がないために、思想家たちは始終頭を抱えている。それが原因で、共同生活もまた争いの多いものになっている。というのは、自由の名の下に犠牲となる安心は、他者の安心であることが多く、安心の名の下に犠牲となる自由は、他者の自由であることが多いからである。p34

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著者プロフィール

1925年、ポーランドのポズナニのユダヤ人家庭に生まれる。ナチス侵攻によりソヴィエトに逃れ、第二次世界大戦後ポーランドに帰国。学界に身を投じワルシャワ大学教授となるが、68年に反体制的知識人として同大学を追われる。イスラエルのテルアヴィヴ大学教授などを経て、現在リーズ大学名誉教授、ワルシャワ大学名誉教授。現代の社会学界を代表する理論家である。邦訳書に『個人化社会』(青弓社)、『コラテラル・ダメージ――グローバル時代の巻き添え被害』(青土社)、『コミュニティ――安全と自由の戦場』(筑摩書房)、『リキッド・ライフ――現代における生の諸相』『リキッド・モダニティ――液状化する社会』(ともに大月書店)、『廃棄された生――モダニティとその追放者』(昭和堂)など多数。

「2012年 『液状不安』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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