- Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480426420
作品紹介・あらすじ
深刻なテーマを追い求める「暗い」漱石と長年、多くの読者から愛される「国民的作家」漱石のあいだには何が横たわっているのか。その二つはどこでつながっているのか。「吾輩は猫である」「夢十夜」「それから」「坊っちゃん」「虞美人草」「三四郎」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」…主要十二作品を解明し、漱石が繰り返し語ろうとしている主題を明らかにし、漱石自身の資質とのかかわりを平明に語りつくす、卓抜な漱石講義。小林秀雄賞受賞。
感想・レビュー・書評
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以前に夏目漱石の「虞美人草」を読み、登場人物の相関が複雑で、4分の1程度で挫折してしまったことがあります。本書の吉本氏の解説がわかりやすく、「虞美人草」を再挑戦したくなりました。
恥ずかしながら、私は教科書に載っていた「こころ」を読んだことしかなかったので、漱石の数々の著書について特徴などを知れて勉強になりました。
漱石の小説では度々、漱石自身を投影している人物・強気な女性・古風で控えめな女性が登場するそうです。同じようなキャラクターが別の小説でも登場するので、何冊か通して読むと小説の魅力がより伝わってきそうだと思いました。
以下、「虞美人草」の登場人物まとめです。(ネタバレあり)
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◆「虞美人草」登場人物
甲野 藤尾(主人公):
傲慢な女性。小野さんが将来の夫になると思っている。親の口約束で、宗近が許嫁だが、宗近をバカにしていて一緒になる気はない。
小野 清三:
学校を出て学位論文を書いている。藤尾と仲良くなり、好きになる。貧乏な頃、京都の井上狐堂先生の書生をしていた。先生の娘の小夜子と結婚させられそうになるが、その気がない。
甲野 欽吾:
主人公の藤尾の義兄(異母兄弟)。哲学科を卒業。何もしないでブラブラしている。神経衰弱でおかしい変人扱いさらる(漱石の面影を投影)。遺産相続を放棄。
宗近 一(はじめ):
甲野欽吾をよく理解している親友。きっぷはいいが、劣等生で外交官試験に落第ばかり。親の口約束で、藤尾が許嫁。藤尾が好き。
宗近 糸子:
宗近 一の妹。甲野欽吾のことが好き。古風で控えめ(漱石の理想の女性像?)
井上 小夜子:
小野清三の先生である、井上狐堂の娘。父である狐堂先生と小夜子は、小野が夫となり、一緒に住む事を既定の事実としている。(理由:書生時代から小野の面倒みていたから)
最後に、小野と小夜子が結婚し、藤尾は宗近に結婚の約束の金時計を渡すが、暖炉で砕かれる。藤尾は傲慢さをへし折られ自殺してしまう。
◆本書より一部要約
『虞美人草の藤尾が自殺しなければ、三四郎の美禰子という女性になる。虞美人草の糸子ににあたるのが、三四郎では妹のよし子。坊ちゃんでは清になる。』
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【余談】
本書のp.109 で、バルザックの「谷間の百合」と、
ゲーテの「若きウェルテルの悩み」が第一級の恋愛小説と紹介されていました。
偶然にも、先日読んだばかりの田辺聖子の「大阪弁ちゃらんぽらん(p.115)」で、同じ2冊が『しんきくさい恋愛小説』として記載がありました。
夏目漱石の描く三角関係の小説も、大阪弁でいう『しんきくさい』分類になるのでしょう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「吾輩は猫である」から「明暗」までの12の作品についての解説で、講演ということもあるが、吉本流の解釈を非常に分かり易い語り口で述べている。
「吾輩は猫である」の作品は、漱石が英国から日本へ帰ってきて、何らかの形でその重荷を吐き出して、捨ててしまいたいという背景の下に書かれたという分析から始まって、「明暗」に至って、ある意味では漱石にとって初めての小説らしい小説を書いた。つまり初めて、自分を外側に置いた登場人物を描き、相対的な目で眺めるひとつの視点を獲得したと結んでいる。
そして個々の作品のいたるところで、漱石の過酷な幼児体験が影響していることを指摘している。
また、「(漱石ほど)典型的に、宿命が自分を吸い寄せていく力の大きさと強さを、とてもよく理解していて、なおかつそれに逆らうということが生きていくことだというところで、力戦奮闘している作家は明治以後に近代文学の中でありません」と漱石を絶賛している。
この本を読むと漱石の作品を全て読んだような気にさせてくれるほど丁寧な解説と批評で、私のように漱石の作品を若い頃に読んで忘れている人は、この本を是非お勧めします。
「あとがき」で著者は「わたしは漱石の作品に執着が強く、十代の半ばすぎから幾度か作品を繰り返し読んできた。隅々までぬかりなく読んだので、一冊の本にその学恩ではなく、文芸恩を返礼するのが、わたしの慣例なのだが、江藤淳さんの優れた漱石論があるので、これで充分いいやと考えてそれをしていない」
かつて昭和という激動する政治の時代に、保守と革新という立場であった論敵への配慮というかオマージュの言葉に思わず涙した。(2002年にこの作品を書いているが、その3年前に江藤淳は自殺している) -
吉本隆明が、晩年、漱石の小説について、「猫」から「明暗」まで、すべての作品を俎上にあげて語った講演を本にしたのが「夏目漱石を読む」。
「渦巻ける漱石」、「青春物語の漱石」、「不安な漱石」、「資質をめぐる漱石」と題した四回の講演を一冊にまとめた本だが、それぞれの題目に「吾輩は猫である」「夢十夜」「それから」、「坊ちゃん」「虞美人草」「三四郎」、「門」「彼岸過迄」「行人」、「こころ」「道草」「明暗」が振り分けられていて、漱石の一つ一つの作品について、当時、80歳にならんとする吉本隆明が、その眼目と考えるところ、一流の文学とは何かを訥々と語っている。
その説得力は一人の批評家が一生かけてたどり着いたものだという実感なしには読めない。
https://www.freeml.com/bl/12798349/1004981/ -
夏目漱石さんの、主に後期の小説…「それから」以降くらいっていうのは、名作とかブンガクとか言う以前に、実にドロドロした人間関係エンターテイメントだなあ、と長年思っていました。
感覚的には「高校教師」とかそういう野島ドラマのような(見てないですが)。ラーメンで言うと、とんこつ。というより天下一品の味わいなんですよね。個人的には。
「行人」とか「彼岸過迄」の終盤とか。もう読んでて赤面するくらいどろどろのぐっちゃぐちゃ。過剰な自意識と片想いと邪推と劣等感を、煮込んで煮込んでぐずぐずになった…美味。
ドストエフスキーさんの「地下室の手記」とか、初期ウディ・アレンのラブコメ映画とか…。
(脱線しますが、ウディ・アレンさんも作家としてはとてもドストエフスキーだなあと思います)
晩年の吉本隆明さんが、講演として夏目漱石を論じた話し言葉をベースに作られた本のようですね。
夏目漱石さんの小説はほとんど大好きなので、実に面白く読みました。
吉本隆明さんというと、「無駄に難解なのではないか」という先入観を持つ人もいると思います。僕もそうです。(先入観と言うより事実という気もしますが)
でもこの本は読み易いです。ベースが話し言葉ですから。
もう読み終えて数日、内容を忘れつつあるんですが…。
●「吾輩は猫である」が小説として、娯楽として、面白くない。という断言を筆頭に、「このあたりは面白いよね。いまいちだよね」という感覚が、ものすごくドンピシャでした。
●一方で、例えば「虞美人草」。は、文章に凝りすぎてるし、人物造形や語り口が、まあ言ってみれば尾崎紅葉みたいで面白くない。と、言いつつも。「虞美人草」の終盤では、小説として奇跡的なまでに面白い、興奮熱狂な部分もある。という評価。コレ、「虞美人草」を読んだのは恐らく20年以上前なんですが、「そうそう!そうだった!」とこれまた感動的に激しく同意。
●漱石の個人史と参照しながら「作者の気持ち」を想像しつつ、行きすぎてスキャンダル検証みたいには堕ちない。
●漱石の後半の小説を、「つまり男ふたりと女ひとりの三角関係」という貫かれた題材を指摘しつつ、「男ふたりが激しく近い距離にいる、友人的な関係である」という指摘。これもなるほど。
●「明暗」について、則天去私みたいなよくわからないお題目とは関係なく、小説の技法として、男性ひとりの視点に頼らずに等間隔で、俯瞰で人物たちを描けていることを指摘。これも、実に「ああ、そうだなあ、だから面白いんだよなあ」と納得。
●一方で、「近代の自我」「欧米と対峙する後進国としての文明的焦燥感」などなど、のお題目について。吉本さんはバッサリと、「漱石は自覚してなかったと思うけど、そんなお題目ではなくて、漱石の乳幼児から幼少期の愛情に飢えた育ちから生まれている屈折や憂鬱が大きな存在だ」という風な論旨。これはこれで、確かに。漱石を読んで、そこに背景としての明治日本と当時の列強の存在を文明論みたいな感じで読みとることはできますが、あくまで「背景」だと思います。やっぱり何で面白いかって、人間のどろどろのオモシロサだと思うんですよね。
(ただそれが、吉本さんが述べている理由が絶対正しいのかというと、それほどまでのこともなかったと思いますが…)
まあ確かに、年表的事実関係だけで言っても。
夏目漱石さんというのは、赤ちゃんで養子に出され、養父母が不仲で実家に戻され、実子扱いされず成長したんですね。
簡単に言うとけっこう、不幸です。
そんな子が、とにかく勉強が出来て、天才的に漢籍の才能があって、それどころか英語も出来て。
簡単に言えば、話しが合う人がほとんど居ないレベルの漢籍の教養を持っているのに、ロンドン留学をして。
これまた誰も話し合えないくらいに英語と英文学と文学論を極めて。…という人なんですね。
その生真面目さ、潔癖さ。まだ「武士」という響きを残す世代の堅苦しさ。そして東西の教養が切ってはち切れんばかりの中で。
親しい人間関係の摩擦、「ま、普通はこういう流れで生きるよね」という宿命と、「こう生きたい」という意思や欲望を、天下一品のスープのようにどろどろと描けるんですね。
その小説家的技術というのは凄いなあ、と思います。
そういう見方を促してくれるような本だったと思います。
さすがちくま文庫。パチパチ。 -
吉本隆明をちゃんと読むのは初めて。
私も「門」が好きだー。ただ、平凡さと言うより、門を前にした時のやりきれなさみたいなものが、好きなんだけど。
夏目漱石とトルストイの三角関係を挙げるのだが、『アンナ•カレーニナ』は体制や体裁への反発からの悲劇と読めたけれど、『それから』にしても『こころ』にしても漱石は漱石自身に向かい、迷い込んでゆく。
武者小路の『友情』もそれはそれで好きなんだけど、やっぱり違う。
外ではなく、内へ向かい、なのに有ではなく、無に向かうのは日本人の心性なのだろう。
この辺りは一つ前に読んだ佐伯啓思が私の中でパンチを効かせていて、科学の進歩が不安を与えるとか、自分の外に絶対的なものを置くことが出来ない辛さなんかは、よく分かる。
そうした中で己の立ち位置を観ざるを得なかった時代性が伺えた。
この一冊から、作品に寄り添う手がかりがあって、こうやって誰かの手から見通してみることも面白かった。 -
理想型の漱石講義。
よく、本棚を見ればその人がなんて言うけど、ちゃんと言えば、どう読んだか拝聴すれば。なんじゃなかろうか。
吉本隆明の読み方は、漱石の小説で言ったら、「門」の冒頭場面のような、主人公の宗助が縁側に出て胡座をかいてて、やがてゴロリと寝転び空を見上げて、妻のお米は、縁側の障子の向こう側で縫い物をして会話が交わされる、穏やかな生活のような、ひっそりとした、そんな。
鋭いこと厳しいこと吉本にしか気づけないだろう視点などエッジの効いた理論も混じってるのだけど、バックグラウンドが「門」の縁側の陽だまりの穏やかさにあって、とても、すんなりとふわりと拉致されてた。
漱石は資質によって書かされ、そこには理由や意味や過去の体験は、さほど関係が無いという仮説。それに引き寄せられるのも資質のような。
人は、せざるを得ないでおられないことしか出来ないと思うし、そういうことだけして、生きてる。
考える時は、「こういうもんやから」を、一旦全て取り去れるような境地にいたい。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/764836 -
夏目漱石の作品と照らし合わせて読む。
作品の解説が欲しい方にぜひ。 -
講演調で読み易い。漱石で一番知られているのは「こころ」だと思うけど、初めて読んだとき、”先生”はあまりにセンスティブすぎるんじゃないか、そこまでしなくていいのになあ、と思っていた。漱石の小説群はどうやら漱石自身の宿命を書いている、ということであった。”自分で何故そのようにふるまったか分からない”部分こそ、一番核のところにしまい込まれている無意識であり、漱石はそれを繰り返し表現しようと試みている。たぶん読み切れていなかった、もう一度読んでみようと思う。