- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480818317
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
確かに、面白い本。
天王寺駅周辺は訪れたことがあったが、あの近くにあったとは。
中二階の部屋。
自分もちらっとだけ、みたい気がした。 -
2015/6/16 読了
-
今まで類を見ない作品
-
いろいろ思うところあり。感想はブログに書いた↓
「『さいごの色街 飛田』を読んで滅入る」
http://zazamusi.blog103.fc2.com/blog-entry-855.html -
高村薫の小説に「飛田新地」って出てきてて、それでなんか興味持って読んだ本。取材に10年以上かけたとか、女性がなかなか足を踏み入れられない場所であるとかヤクザに話しを聞きに行くとか、そういうところはスゴイなあよくやったなあと思うけど、なんだろ、文章が甘いというか、ボカさなきゃいけない部分やらやっぱり踏み込めない部分やらいろいろあってしょうないんだろうけれど、それでもなんかあんまり世慣れていないお嬢ちゃんがきゃーきゃー言いながら書いてますぅ、みたいな感じがして、そこが残念。
-
読後感は重くて切ない…。
でも、哀れとは思わない。
軽んじる気持ちもない。
需要と供給、表と裏。
あらゆる事情と欲が渦巻いて、
今昔 関わらず 必要なんだろうから。
みんな生きるため。
【飛田新地。
そこは「料亭」で、たまたま
お客様と「恋愛」に落ちる場所。】
なんだか いいフレーズ。 -
「人が商品として店頭に置かれるという衝撃 」
大阪西成区にある飛田新地は大正時代に創られ、かつて日本最大の遊郭であった。そこには平成の世となった今なお表向き「料亭」と称し、独自のシステムで女性の性が商われている。12年に亘る体当たりの取材で著者によって明らかにされる「飛田」とは。
通りに面して一見町屋風の料亭が並ぶ。どの店も共通の体裁の店看板を出し、京都のどこかの小路でもあるかのような風情がある。だが、大きく違うことがある。玄関が大きく開かれこうこうと明るいその上がり框には、きれいなおねえさんが通りにむいてちょこんと座っている。軒並み、寺の本堂に鎮座する本尊のようにそこに収まる綺麗なおねえさんを想像した時、激しい違和感というか嫌悪感を感じた。
著者は時を経て今もなお実質、遊郭として機能しているらしいこの飛田という街の実態を明らかにするため、実際に飛田で遊んだことがある男性たちの証言をとることに始まって、基本「飛田には触ってくれるな」という姿勢の店の経営者たちで組織される飛田の料亭組合の本部、町内はもとより周辺にある飲食店に根気強く足を運び、その輪郭を明らかにしようと試みる。
法をかいくぐり地元の警察さえ暗黙の了解で口をつぐむことで営業が成り立っている飛田新地の人々の口は一様に重い。だが著者の根気強さ、また大阪という土地柄もあるのだろう、彼らによって虚実とりまぜ断片的に語られるピースを丁寧にはめてゆくことで、徐々に明らかになっていくその実態、そこに働く人々の事情、延いてはその人生は衝撃だ。
女性として本書を読むとき、ストレス発散なのか、擬似恋愛なのか、単なる遊びなのか、理由はともあれおおよそ排泄行為として以上の性が行えるとは思えない20分に一万円という対価を払う男性の気持ち(というよりは生理というべきか)はとうてい理解できないし、売春自体も決して肯定されるべきものではないとは思う。だがそうした世界とはとりあえず無縁でいられる者がきれいごとを並べて斬り捨てるだけではすまない「現実」が確かにここには存在するのだ。
飛田という街の印象から生まれた嫌悪感をもう一度見つめなおしてみる。倫理的、衛生的に違いはあるにしても男と女がいる限り、その間で行われる行為自体は、飛田の料亭であろうが夫婦の寝室であろうが変わるものではないだろう。売春という行為も非合法であるにもかかわらず、全国の歓楽地、ましてやネットの世界を通じて無くなってはいないことは想像できる。だから飛田だけを取り上げて云々というのは違うのかもしれない。
だが飛田の料亭の玄関に置かれているのは人形などではない。生きた女性、女性である前に人間だ。今のこの世の中になお、人が商品として堂々と店頭に置かれているということ、ましてやそれが軒並みにだ。一番の嫌悪感はそこにあったように思う。 -
力作。しかし、書けないことの方が本文の何倍も要素あったんだろうなあ。結局、面白いことって表には殆ど出て来ない。