- Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560071144
感想・レビュー・書評
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先日読んだ「ラテンアメリカ短編集」にボルヘスがいなかったので本棚から取り出した。
相変わらず理解できない、でも楽しい、そしてボルヘスは楽しい人だと思う。
ただの論述にならずに小説になっている”ひねり”が好きか、ウザいと思うかで、ボルヘスを気に入るか気に入らないかなのかなあと思います。
なお、「ラテンアメリカ短編集」にはコルタサルもいなかったので次に読むのはコルタサル。この二人を入れないというのはわざと外したんでしょうね。
【不死の人】
古代ローマの司令官だった男が、不死の川の水を飲み不死者となる。不死の町で彼はホメロスと行きあった。その後彼は世界を彷徨い、再度川の水を飲んだことから、また死が訪れる普通の人間になる。
…ストーリーとしてはこんな感じですが、書かれている内容は「不死者とは」「全ては繋がっている」というような論文のようなもの。
ここに出てくる不死者たちは特に目的もなく不老不死のため、全てが平坦で他者にも自分の記憶にも世の中の出来事にも無関心。
<不死の人々の共和国は完璧な寛容さとほとんど完璧に近い冷淡さに到達していた。彼らは、無窮の時がたつうちには、あらゆる人間にあらゆることが起こるものであると知っていた。P26>
そしてこの語り手の外見も、土気色の疲れた肌をした掴みどころのない容貌で、あらゆる言語が入り混じった不思議な言葉を話すというように書かれている。
さて、ボルヘスの短編が論文でなく小説になっているのは最後にミステリー要素を入れているからだろう。物語終盤でいきなりこの語り手が語る。
<わたしが語り終えた物語は、そのなかに二人の異なった人物の事件が混じり合っているので非現実的なものに見える。P32>
そう、この不死者はまるで他人のように語っていたけれども実は…、というタネが隠されているのでした。
【死んだ男】
西部気質の男たちの抗争、いわゆるマチスモ物。
奪われるために与えられた男の物語。
【神学者たち】
神学者のアウレリアヌスと、ヨアンネスは論議を交わしていた。
アウレリアヌスはヨアンネスを嫌っているわけではなかったのだが、彼を意識するがあまりに常にヨアンネスを気に留めて、いつも彼よりも優れた論文を出そうとしていた。その思いが募り、ついにアウレリアヌスはヨアンネスを密告し、ヨアンネスは火刑に処せられる。
しかしその後、アウレリアヌスは火事に巻き込まれて、ヨアンネスと同じく火で死ぬことになったのだ。
「アウレリアヌスは神と言葉をかわしたが、神は宗教上の相違にあまり興味をもたれていないので、アウレリアヌスをヨアンネスとお間違えになった、ということはおそらく正しいだろう」として、
相手と自分の本質は同じだった、という論調を小説として書いたもの。
【兵士と囚われの女の物語】
突如として自分が攻撃した町を守る側に寝返り戦死した男。
彼は何を見て、何がその瞬間となったのか。
そしてこの話を聞きボルヘスが連想したのは、二人のイギリス婦人のことだった。
一人のイギリス人少女が先住民に拐われて一族として暮らすことになった。いまでは結婚もして子供もいるという。
そしてもうひとり、ボルヘスの祖母であるイギリス人婦人は、彼女を野蛮な部族から離れてイギリス社会に戻るように呼びかけてみる。
しかし彼女は堂々と部族に、汚れた服で移住し動物の生き血を啜るその生活に戻っていったのだった。
戦士と女は、1300年の時を離れているが、それぞれに理性よりも自分のなかに芽生えた強烈な衝動に従ったのだ。
【タデオ・イシドロ・クルスの生涯】
人が自分が何者かを識る瞬間、または、その人とはまさに自分自身だった、というのは、ボルヘスのお気に入りのテーマの一つ。
そのテーマを「マルティン・フィエロを捉える憲兵でありながら、マルティン・フィエロの味方に就いたタデオ・イシドロ・クルス」に寄せて書いている。”マルティン・フィエロ”とはボルヘスの短編では何度か出てきて、アルゼンチン人にはすぐに分かるんだろうけれど日本人にはわからない…。検索したところこんな感じ。
コトバンクより
<アルゼンチンの作家エルナンデスによるガウチョ文学の傑作叙事詩《マルティン・フィエロ》の架空の主人公。19世紀後半のパンパを舞台に波乱の一生を送ったガウチョ(牧童)の吟遊即興詩人が,近代化によって大土地所有制度が進む過程でガウチョたちの自由を奪う文明社会の不正に反逆するパンパの英雄,ガウチョの典型として描かれている。>
物語には、警察官だったがマルティン・フィエロに味方するタデオ・イシドロ・クルスも登場する。マルティンを追い詰めたイシドロ・クルスは、彼こそ自分だ、彼の側につくことこそ正しい道だと悟ったその瞬間。
<およそ運命というものは、それがどんなに長く、また複雑であろうとも、実際には『ただ一つの瞬間』より成っている。その瞬間において、人は永久におのれの正体を知るのである。P81>
【エンマ・ツンツ】
父の死の知らせを聞いたエンマ・ツンツのその日の”前日”と”当日”の行動が語られる。
そして最後に、彼女がなぜそうしたのかが書かれる。
ボルヘスはミステリー好きです。
誰かの行動を書き連ねていって、最後の最後で実は…と読者に知らせる、そのことにより「実はこれはミステリーでもあったのか」とわかる形式。ミステリーとしては「その場の状況と、時間と、少しの固有名詞が違うだけ」で、一つの事実から別の事実に変えてしまうという文章の上でのトリック。
【アステリオーンの家】
一人で家の中に住んでいる語り手。9年ごとの9人の訪問者は、語り手が殺すかまたはその前に死ぬ。ある1人の訪問者の最期の言葉からいつか自分を解放する者が来ることを知り、待っている。
最後にこの語り手とはミノタウルスのことであり(アステリオーンとは王子として生まれたときにつけられた名前)、彼の家は彼を閉じ込めるための迷宮で、そしてテセウスの剣により大人しく殺されたのだととわかる。
ミノタウルス(アステリオーン)の迷宮とは出入り自由だが、入った他人を閉じ込めるのと同時にそこにいる自分も閉じ込められているというもの。たまの楽しみは迷宮内を走り回ったり、妄想のもう一人の自分に迷宮を案内すること。
唯一の他の人間との関わりは生贄として入ってきた9人を9年ごとに殺すことであり、希望はそしていつか自分に関わってくれる(殺しに来る)相手が自分を開放してくれることだった。
【もうひとつの死】
西部気質の男たちの抗争、いわゆるマチスモ物。
戦場での臆病な行為をずっと後悔していた男は、死に際して、死をやり直す。
かくして1946年に彼は、1904年の戦いで死んだのだった。
<神は過去を変更することはできないが、過去のイメージなら変更することはできるので P112>
【ドイツ鎮魂曲】
ナチス党員で、強制収容所副所長を努めた男が死刑前夜に書いた手記、という形式。
えーーーっとですね、世界は繋がっているから、自分たちの行為は別の行為により促され、自分たちは自分たちを殺すものを育てた、そしていつか別のものが自分たちの作ったものを受諾する…とかそんな感じのことではないでしょうか…。
【アヴェロエスの探求】
ボルヘスは、アヴェロスというイスラムの学者を通して、宗教とか文字とかそんなこんな色々を考察しようとした、らしい。「文字は人が作ったもの」「コーランは神が作ったものなのだから、文字も神が作った」とかの論争。
<前記の物語において、わたしはある敗北の過程を物語ろうと努力した。わたしはまず、神の存在することを証明しようとしたあのカンタベリー大主教のことを考えた。つぎに、賢者の石をもとめた錬金術師たちのことを考えた。つぎに、角の三等分法や円の求長法をむなしくもとめた人びとのことを考えた。それから、自分以外の誰もそれを越えることを禁じられていない境界をみずからに課している人の場合のほうが、ずっと詩的であると考えなおした。P146>
ということ。
しかし書いているうちに
<神が、雄牛を作ろうとして水牛を創ってしまわれたときに感じられるに違いないような気持ちを感じた。P147>
というように物語の組み立てに混乱し、
<わたしの物語はわたしがそれを書いていたときのわたしという人間の象徴であり、その物語を書くためにはわたしがその人物でなければならず、その人物となるためにはわたしがその物語を書かなければいけなかったP147>
という風に続いてゆき、最後の場面でアヴェロスとその物語が消散してしまったんですよ、
…という話。
よくわからないがこういうところでボルヘスは面白い人だと思う(苦笑)
【ザーヒル】
ボルヘスはザーヒル硬貨を手に入れた。
ザーヒルとは『明らかな、目に見える』という意味なので、硬貨だけではなく、虎であり、小さな磁石であり、井戸の底であり、 一度それを見たものは、そればかりを考えるので破滅に追いやられるもの、であった。
<地上のすべての人が、日夜『ザーヒル』のことを考えるならば、どちらが夢でどちらが現実となるであろうか、地上と『ザーヒル』の?P165>
【神の書跡】
ヨーロッパの征服者に捉えられた原住民の神官は地下牢に閉じ込められている。
長い長い年月、神官は識ること全てを思い出し、神の配列を読み解こうとした。
ついに神官は宇宙との合一を果たし、神の言葉に行き着く。
しかし自分が神の配列を説いたとなり、自分自身さえも越えたため、地下牢から逃れるためにその配列を口に出すこともなく、ただただ死を待つのだった。
【アベンハカーン・エル・ボハリー おのれの迷宮にて死す】
ミステリー風。
召使いとライオンが守る迷宮で、迷宮の主が、すでに死んでいる者により殺された。
事柄は事実だが、人が違うとか、人は事実だが内容が違うとかで、なんか推理遊びになっている。
【ふたりの王とふたつの迷宮】
バビロニアの王が作った無数の階段や扉や壁の錯綜した青銅の迷宮に迷ったアラビアの王は、上るべき階段も押し開けねばならぬ扉も果てしなく続く回廊も行く手を阻む壁もない迷宮、すなわち砂漠を示す。
千夜一夜物語のような作品を書きたかった、という短編。
【期待】
自分を殺しに来る相手から隠れ住む男。
何度も襲撃者を夢に見た男は、実際にその時が来たら…
【敷居の上の男】
失踪した市政官を探しに来た主人公が迷い込んだインドの街。人々の証言を集めてたどり着いた家で起きた出来事。そして事実を話しながら言葉の煙幕で主人公を留めた敷居の男。
これも「事柄は事実。ちょっと時間軸を変えてみせただけ」で一種のミステリーになっている。
【アレフ】
この世のあらゆる場所が同時並列する場所、アレフ。そしてそれを背景にした男の嫉妬。
これは「ごく普通の人間の愛情や嫉妬などの感情、名声など現実のものから、いきなり世界を包括する不可思議な存在に触れる」という、物語の運び自体が不思議な感じの幻想文学。
<階段の下部の右手のほうに、わたしはほとんど直視できないほどに光り輝く玉虫色の小さな球体を見た。(…省略…)
しかし宇宙空間がそっくり原寸大のままそこにあった。ひとつひとつの物(たとえば鏡面といったもの)は無数の物であった。なぜなら明らかにわたしはその物を宇宙のあらゆる地点から見ていたから。わたしは人間のごったがえす海を見た。黎明と黄昏を見た。(…略…)まるで鏡を覗き込むように、私の内部を間近からじろじろ見ている無数の目を見た。わたしは地球上のことごとくの鏡を見たが、そのどれにもわたしは写っていなかった。(…略…)わたしはあらゆる地点からアレフを見た。アレフのなかに地球を、そして地球のなかにアレフを、さらにこんどはアレフのなかに地球を見た。自分の顔と自分の内蔵とを見た。あなたの顔を見て目眩を感じ、そして泣いたのだ。なぜなら私の目は、その名を口にする人は多いが誰も見たことのないあの秘密の、推量するしかないもの、すなわちあの思量を絶するしかない世界を見てしまったのだから。 P238〜抜粋>詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ボルヘスという名前を知ったのは、ウンベルト・エーコに飛びついていた時のことだ。当時出版されたばかりの「フーコの振り子」という本を、題名につられて読んだところ思いがけず面白く、映画にもなった「薔薇の名前」を図書館で借り、その後同じ図書館に並んでいたエーコの本を片っ端から読んでいた時に出て来たのがボルヘスだった。
「薔薇の名前」は一見すると中世歴史ミステリー風のエンターテイメントであるが、実際には難解の書であるらしい。読んでおいて、らしい、もないものだが、テキストに隠された意味を読み解く、という深さを許容する本ではある。翻訳ではきっとニュアンスが伝わりきらないのであろうが、中世の修道院を舞台とした写本にまつわる事件を描いたこの本には、アレキサンドリア大図書館を思わせるような修道院内の図書館が登場し、古い書物が謎解きの手がかりともなる。キリスト教文化圏の人には暗黙の了解の符牒があちこちに散りばめられているらしい。その図書館の盲目の館長が、ボルヘスをモデルにしているという説明があり、エーコの文章も多分にボルヘスの影響を受けているというようなことが、薔薇の名前の解説書に書かれていた。余談になるが、この解説書というか、ゲームの攻略本のような本が多く出版されていることからも「薔薇の名前」が多くの切り口を持つ本であることが解るというものだ。但し、その話はまたどこかで。
ボルヘスといえば怪奇譚、と連想されるほど、ボルヘスの書く短編には不思議なお話しが多い。ただ、話自体は入り組んだふうもないし、怪奇、という程には魑魅魍魎が出没する訳でもない。この本でも幻想的な構成のお話しはあるものの、奇々怪々なものは出てこない。出て来るのは不思議な人間たちだけだ。どことなく、民話風の小話、という風情がある。しかし、そこに出て来る書物の断片、断片に込められたイメージ、そのイメージから喚起される新しい意味、というものがボルヘスの小話を民話とは決定的に違うものにしているのも確かだ。
ボルヘスは記憶の人、とも形容されるらしい。確かに、彼の書物への言及にはただならぬものがある。目が不自由でもあった。なるほど記憶の人と呼ばれているのも素直にうなずける。しかし記憶の人でないどころか言及されている書物に触れたこともないこちらとしては、このハイパーな思考の飛翔に容易にはついていけない。相手がボルヘスと解っていなければ早々に投げ出してしまうかも知れない。
彼の、この書物の断片を通したハイパーリンクは、ある程度は無視しても読み進むことができる。リンク先が自分の記憶の中でアクセス不能なアドレスになっていても、物語は依然として魅力的である。そのことを、あらためて「不死の人」を読んで気づいた。大分以前に「ボルヘスとわたし」というボルヘスの短編集を読んだことがあったのだが、「不死の人」と「ボルヘスとわたし」には重複した短編が網羅されている。2つ目の「死んだ男」という話を読み始めた瞬間、はっとしたのだ。この話は知っている。
その瞬間、わかった。
自分はボルヘスの小話が好きなのだ。
これでもかと言及される書物の断片に辟易しながらも、その話がとても気に入っているのだ。
「不死の人」の最後に収録され、「ボルヘスとわたし」の最初に掲載されている「アレフ」という話がある。アントニオ・タブッキの「逆さまゲーム」を思わせる出だしから、事態は急変するのだが、この物語に自分はとても惹かれる。アレフは、ヘブライ語アルファベットの最初の一文字であり、カントールの発見した「無限」という概念を表す文字でもある。この2冊の書における配置とその文字の意味とが交錯する。そして、そのインスピレーションに端を発する期待を裏切ることなく、「アレフ」では、その言葉からの勝手なイメージの発散、が最後に見事に収束する感じがある。好きだと意識すると不思議なもので、書物への言及についても、それ程気にならなくなる。勝手なものだ。むしろ逆にその言及に急に興味がわいてもくる。
このボルヘスのハイパーリンクは、実はとても親切なやり方なのだ。自分の書き記した文章だけで読み手に言いたいことが伝わらなかった場合、読む方は「ああ、あのことか」と納得できる切っ掛けをもう一つ余分に与えられている訳だ。その指し示す先について不案内な読者なら、別の機会にそこへ辿って行くことも可能なのである。そう思えば、ボルヘスのこの概念の飛翔は、知り合いの顔を、その人を知らない第三者に、知り合いはだれそれに似ている、と教えることに似た行為だと気づく。
リンクに怖じ気づくことなく、ボルヘスを読もう。
そして、その記号の意味にどこかで出会ったら、その時、ボルヘスを思い出したら、そうしたらまた読めばよい。出会いは一期一会というけれど、前後賞も組み違いもある。そのことに気づいたら、改めてボルヘスが読みたくなってきた。
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アルゼンチンの作家、ホルへ・ルイス・ボルヘス著。17の短編が収録。
「伝奇集」よりはやや印象が薄い。
最も面白かったのは表題作の「不死の人」だった。ボルヘスにしては長い話で、30Pくらいある。内容的にはそこまで難解ではないのだが(その難解さがボルヘスの魅力とも言える)、砂漠の中の都の雰囲気がなんとも神話じみていて、心に残る。その他、「神学者たち」「アステリオーンの家」「アベンハカーン・エル・ボハリー おのれの迷宮にて死す」なども、神話・宗教じみていて興味深い。
また、「ザーヒル」「アレフ」あたりはまさにボルヘス節としか言いようのない観念的・哲学的な話で、さすがだと思った。
ただ、たまにボルヘスが書く、ならず者が出てくるような短編がどうにも私は好きになれない。結末が「普通」といった印象を抱いてしまう(あっさりした結末でも神話風だとオリジナリティーを感じるのだが)。この系統の話なら、他の作家の小説に、もっとスケールが大きくて奥深いものがある気がするのだ。 -
原題『エル・アレフ』。余計な修飾を切り詰め独特の比喩を用いた語感は五感を狂わし、幾何学的な作品構造は時に時空間の常識を逸脱し己の認知を惑わせる。初読時には本作にもあるミノタウロスの迷宮に迷い込んだ様な気分にさせられたが、知性と論理を駆使することで何とかアリアドネーの糸を見つけ出した。しかしながら脱出した先に見えてくるのはボルヘスの持つ膨大な知識に対する憧憬であり、もはや迷宮に挑む前の風景には戻れない。迷宮を脱出した後は、その知によって今度は世界が逆に迷宮化してしまうのだ。唯一無二の読後感なのは間違いない。
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以下、残りそうなもの。
自身も不死であり、また不死の人としてのホメロスに会う古代ローマ時代からの軍人の物語、「不死の人」。
軍隊の内部の錯綜した人間関係をスピード感ある筆致で描いた、「死んだ男」。※最後の死など、よく似た短編がある気がする。
デジャヴュにも似た感覚で「運命」を自覚する<ただ一つの瞬間>[p81]に遭う男の物語、「タデオ・イシド・クルスの生涯」。
これもある不死の生き物が長い年月一歩も家の外に出ないでいる感覚を描いた?、「アステリオーンの家」。ミノタウロスであろうか?
アラビア語で、目に見える、そこにある、気づかずにすますことができない、という意味。ひとたび接触をもってしまうと、徐々に私たちの思考を支配して、ついには他の何にも意識を集中できなくさせてしまうもののこと。それは聖なる状態とみなすこともできるが、狂気ともみなすことができる[フォーブル・サン・ペール『幻想百科事典』1953年]「ザーヒル」の物語、「ザーヒル」。 -
なんともボルヘス的な短編集です。物語の舞台はさまざまで、古代ローマやギリシャ、バビロニア、エジプト、近代のドイツやイギリス、ボルヘスの故郷アルゼンチン等など幅広く、登場人物も歴史上の実在の人物もいれば、場合によってはボルヘス自身が主人公として登場したりしてバラエティに富んでいます。ほんのちょっとした歴史上のエピソードなど、これといって不思議なことが起こるわけでもない話も多いのだけれど、それがボルヘスの視点を通すだけで、なにか不可思議なような不条理なような、幻想味を帯びてくる不思議。
前半の短編に共通していたのは、二人の人間(ライバルだったり、全く別の時代の無関係な人物だったり、設定はさまざま)の人生が、実はひとつのもの(同一人物)だった…みたいな部分でしょうか。それによってただのガウチョものだと思っていた物語が思いがけない地点に着地したりします。
お気に入りは、まるで作品自体が迷宮のように複雑な入れ子構造の「不死の人」、タイムマシンパラドックスやパラレルワールドに思いを馳せてしまう「もうひとつの死」、怪奇伝説系かと思いきや、謎解きによって推理小説風になっちゃった「アベンハカーン・エル・ボハリー おのれの迷宮にて死す」、ギリシャ神話の迷宮の住人の独白「アステリオーンの家」あたり。(余談ですがアステリオーンは河の神でオケアノスの息子の一人の名前ですが、この短編の内容とはたぶん無関係。むしろミノタウロスの本名がアステリオスであることに由来しているのかなと思いました)。
ボルヘス自身の体験談のように語られる「アレフ」は、なんとも説明しがたいですね、そも「アレフ」という物体(空間?)がなんであるのかを、言葉で説明できないと作中でボルヘス自身が思っていたりして。なんとも不思議なインパクトのある作品でした。ボルヘス自身による各話の解題になっている「エピローグ」では、ウェルズの「水晶の卵」の影響を受けたとあったので、一度読んでみようかなあ。
※以下収録タイトル
「不死の人」「死んだ男」「神学者たち」「戦士と囚われの女の物語」「タデオ・イシドーロ・クルスの生涯」「エンマ・ツンツ」「アステリオーンの家」「もうひとつの死」「ドイツ鎮魂曲」「アヴェロエスの探求」「ザーヒル」「神の書跡」「アベンハカーン・エル・ボハリー おのれの迷宮にて死す」「ふたりの王とふたつの迷宮」「期待」「敷居の上の男」「アレフ」「エピローグ」 -
記念すべきブログの公開日である本日8月24日はボルヘスの誕生日。
それに因んで初レヴューをボルヘスにします。
アルゼンチンの盲目の幻想作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集「不死の人」(土岐恒二訳 白水ブックス)に「ザーヒル」は収録されている。
ボルヘスの紡ぎ出す小説世界は常に言葉の迷宮のようであり、始めも終わりもないようなウロボロスのごとき物語りを彷佛とさせる。
ある時、ボルヘスが釣り銭として受け取ったザーヒルという名の貨幣からその思索の冒険は始まる。
『ブエノスアイレスではザーヒルといえば20センターボに当たるふつうの貨幣である。グージャラートにおいて18世紀の末頃、ザーヒルといえば虎のことであった。ジャワでは、信者に石で責め殺されたスルカルタの回教寺院の盲人のことであった。ペルシアでは、ナーディル・シャーが海峡に沈めたアストロラーベのことであった。テトュアンのユダヤ人街では井戸の底であった。』(ザーヒル本文より抜粋)
すなわちザーヒルとはすべてのものの名であり、アラビア語では「明らかな」「目に見える」という意味を持っている。
個人的にもザーヒルというワードは思い出深いのです。 -
第一に、哲学的(形而上学的?)なテーマ、議論をあまりにも真っ向から取り上げている作品が多いため、小説としての面白みに欠けた。
第二に、そのテーマに対する著者の解答がかなり明確に記述されているので、読み手の想像力の翼をもぎ取っているのが気に入らなかった。
何よりも、この本で展開されるような小難しい観念や理論について、俺には理解力も興味も足りなかった。(ただ、「ザーヒル」と「アレフ」だけは興味をもって読めた。)
パロディとしての性格の強い作品が多いようなので、もう何年か後に読み返せばもう少し興味をもって読めるかもしれない。