- Amazon.co.jp ・本 (362ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560072073
作品紹介・あらすじ
文学の魔術師による究極の〈読書〉小説
あなたはイタロ・カルヴィーノの新作『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。しかしその本は30頁ほど進んだところで同じ文章を繰り返し始める。乱丁本だ。あなたは本屋へ行き交換を求めるが、そこで意外な事実を知らされる。あなたが読んでいたのは『冬の夜ひとりの旅人が』ではなく、まったく別の小説だったのだ。書き出しだけで中断されてしまう小説の続きを追って、あなた=〈男性読者〉と〈女性読者〉の探索行が始まる。大学の研究室や出版社を訪ね歩くうちに、この混乱の背後に偽作本を作り続ける翻訳者の存在が浮上するのだが……。
様々な文体を駆使したメタフィクションの手法を用いて、「あらゆる本を書く」という不可能事に挑み、読書という不思議ないとなみ、その至上の歓びを謳いあげる〝文学の魔術師〟カルヴィーノによる究極の〈読書〉小説。
感想・レビュー・書評
-
書き出しだけで中断され続ける小説を追いかけて世界をめぐる〈男性読者〉と〈女性読者〉の冒険。文学の魔術師による究極の読書小説。
肩の力を抜いてあまり考えすぎずに気楽に読もうとしていたのだが、、やはり一筋縄ではいかない。迷宮入りしてしまう。
読書とは。物語とは。
個人的には「絡み合う線の網目に」が印象的だった。あと、第八章で、本を取り上げられてしまう話のくだりがおもしろかった。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
宮沢賢治に『注文の多い料理店』というよく知られた一篇がある。森のなかにある西洋料理店にやって来たハンター二人が、やれ、クリームをすり込めだの、金属でできたものを外せだのという小うるさい注文に、納得するべき理由を自分たちで見つけ出しながら店の奥に進むうち、ようやくその注文が、料理を食べるためでなく、自分が料理されるために出されていたことに気づく、やっつける側がやっつけられるという皮肉風味の香辛料をたっぷり効かせた上出来のコントである。
イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を読みはじめたとき、その話を思い出した。というのも、語り手は、これから本を読もうと身がまえている読者相手に、やれ小用をすませておけ、足は机の上に投げ出せだのといった注文をやたら繰り出すからだ。まさに注文の多い小説家そのもの。そうして、早く本文を読みたいとあせる読者を焦らしながら、ようやく語りはじめた『冬の夜ひとりの旅人が』という話は、話の途中で突然打ち切られてしまう。
第一章が終わり、第二章へと歩を進めた「あなた」は、そこにまたしゃしゃり出た語り手が本の乱丁を指摘する文章に出会う。十六ページ折りの造本で三十二ページ分がそっくりそのまま同じページが綴じられていたというのだ(確かめてみたが、そんな事実はない。出版社はそこまで馬鹿正直にテクストをなぞらないということだろう)。腹を立てた「あなた」は、本屋に駆けつけ苦情を言う。本屋の言によれば、製本上のミスにより、ポーランド人作家タツィオ・バザクバルの新刊小説『マルボルクの村の外へ』と入れ替わっていたというのだ。
つまり、それまで「あなた」の読んでいた小説は、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』などではなく、ポーランド人小説家の手になるまったく別の小説だったわけだ。しかし、本好きの常として一度読みはじめた小説はその続きが読みたくて仕方がない。「あなた」は、カルヴィーノの小説など放り出し、バザクバルの小説はないかと本屋に聞く。本屋はさっき別の女性も同じことを言ったと答え、その若い女性ルドミッラを指さす。こうして、男性と女性二人の読者は出会う。
これ以降は、この二人の読者が、小説の続きを読もうと悪戦苦闘するストーリーが展開する。もうお気づきのように、どこまでいっても、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説は完結しない。ポーランド人作家が書いたノワール風の小説が、チンメリアという相次ぐ領土分割のため、今は地上から消えた幻の国の言語で書かれた小説へと変わり、その名も『切り立つ崖から身を乗り出して』という別の作品が新たに登場し、というふうに次から次へと別の言語で書かれ、あるいは翻訳された別の小説に姿を変え続ける。
その題名だけ紹介すれば、『風も目眩も怖れずに』、『影の立ちこめた下を覗けば』、『絡みあう線の網目に』、『もつれあう線の網目に』、『月光に輝く散り敷ける落葉の下に』、『うつろな穴のまわりに』、『いかなる物語がそこに結末を迎えるか?』という、人物も筋も舞台背景も全く異なる十の小説が、その冒頭部分だけを、文学好きには分かる著名作家の文体模倣を施され、目もあやに展開される仕掛けだ。アルゼンチンのパンパを舞台に、ガウチョの登場する一篇はボルヘスだろうと見当をつけたが、あとは不勉強で知る由もない。
それだけでも愉しい仕掛けだが、カルヴィーノの愛読者にとって、もっとうれしいのは、その合間合間にはさまれる、作家イタロ・カルヴィーノの小説論だろう。自分の考える理想の小説とは、どういうものか。一度は書きたい究極の小説の形とは?読者として知りたい作家ならではのアイデアを、こんなに明かしてしまっていいのだろうかと思うほど、嘘も隠しも衒いもなく、あからさまに語ってみせる。こんなカルヴィーノ、見たことがない。
自身の分身として登場する作家サイラス・フラナリーは、自分が書けなくなった理由を「あらゆるものを含む」本を書くという「とんでもない野心、おそらくは誇大妄想的錯乱」のせいだという。マラルメ以来、文学者の抱く見果てぬ夢、すべてを包含した「一冊の本」というやつだ。しかし、そんなものはあり得ない。カルヴィーノはだから瞞着的手段に訴える。偽作者や剽窃者、怪しい翻訳家の姿を借りて、世に知られた世界文学の作家から日本人作家やソ連の反体制作家小説に至るまで、すべてのありそうな小説の断片をでっち上げたのだ。
「おのれの外にあるものに言葉を与えるためにおのれ自信を抹消しようとする作家には二つの道が開かれている。そのページの中にあらゆるものを汲み取り尽して、唯一の本となりうるようなものを書くか、それとも部分的なイメージを通じてあらゆるものを追求しうるように、あらゆる本を書くかである。あらゆるものを含む唯一の本とは完全無欠な言葉が啓示された聖なる書物以外にはありえないだろう。しかし私はそうした完全無欠さを言葉にこめうるとは思わない、私の問題は外にあるもの、書かれていないもの、書き得ないものを扱うことにある。私にはあらゆる本を書くよりほかにありうる限りのあらゆる作家の本を書くよりほかに道は残されていないのだ。」
このフラナリーの言葉をそのままカルヴィーノ自身の認識と重ねて読むほどナイーブな読者もいないと思うが、作家晩年の作品の中に披歴されていることを考えると、これまで様々な手法を試してきた実験的作家であるイタロ・カルヴィーノの考える集大成的な書物の姿と考えたくなる気にはなる。
一方で、この作品から分かるのは、カルヴィーノがただ作者が書きたい作品にのみ拘泥する独りよがりの作家ではなく、「理想の読者」を想定し、その読者が読みたいと思う「本」を書くことを突きつめようとする、読者との対話を愉しむ作家だということである。そういう意味では、読者の側も心して読みにかからねばなるまい。足を載せるのに適当な台を用意するのはもちろんのこと、小用などは読書にかかる前にすませておくのは作者に対する当然の儀礼と心得ておかねばなるまい。さて、準備万端を整え、そうしてはじめて「あなた」は、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説を読みはじめることになる。 -
年末に途中まで読んだのだが、文字をただ目で追っかけてるだけのような気持ちに陥り、貸し出しを延長し田舎に持って帰り、改めて玉ねぎの皮をゆるゆると剥くように読みました。やはり読者は傲慢なままでいてはいけないな。作者が床に寝転んでいたら自分も一緒に寝転ばないと、作者の意図しようと示唆しようとしてる物が見えてこない。それを「自分には合わなかった」「自分には響かなかった」とか言うのはやっぱ違うんだな。人様が時間をかけて作った物をただ一度だけ前から後ろへめくっただけで、自分の中で結論を出すというのも傲慢なんだなあ。
-
読書という体験そのものをより豊かに読ませてくれる不思議な小説。とにかく没入感が段違いで、読んでる最中の感覚はもう魔術としか言いようがない。
書店で本を買う所からしてバーチャルリアルかつ異様な豊穣さで、言葉の上で本が分子に崩壊する所ですら自分で体験しているような気がした。リフレインしながらとんでもない規模に発展してゆく楽しい眩暈。そして、死んだ言語で書かれた散文の、あの途中までしかない不確かな感じ、断崖から遠くの彼方を望むような感じ。女性を追う男性というイメージと読書との重なり。
意識したことはなかったが、本を読むとはそうした体験だったかもしれない。常にそこにあったはずなのに、言葉にしてもらう事ではじめてたどり着ける場所にたくさん連れて行ってもらった。おかげで不思議にほっとした。
こんな時代だからこそ、詩人、作家、芸術家はいてくれなくちゃ困る。デイヴィッド・シェンク『ハイテク過食症-インターネットエイジの奇妙な生態-』で引用されていて本書を知ったのだが、まさに猛烈な技術革新によって日々加速させられ、錯乱と焦燥でとっ散らかり気味な現代人の精神を落ち着かせてくれるのは、断崖から彼方を望むアーティストたちの言葉であり、視点であり、作品なのではないか。
実際、読んだ後に自律神経のバランスを測ったら、副交感神経がかなり優位になっていた。読んだだけで、リラックスするということだ。
あの世にいるイタロ・カルヴィーノ先生だけでなく、翻訳者、編集者、出版社、デザイナー、割付職人、印刷会社、流通会社、書店、図書館の方々にまで感謝の気持ちがわいてくる読書体験だった。 -
何とも奇妙なメタフィクション。どこへ連れて行かれるのだろうと序盤はとてもワクワクした。基本的に読者と作者についての物語だったと思う。
架空の国や架空の作者の架空の小説が10編収録されており、ちょっとしたアンソロジー感もある。
日本のタカクミイコカという作者が書いたとされる「月光に輝く散り敷ける落ち葉の下に」という作品が、谷崎風なのか妙にエロかった笑
南米小説風の「うつろな穴のまわりに」も続きを読みたかったな。 -
読書が生き甲斐の人間にとっては、非常に深い余韻の残る佳作ではないだろうか。
10の断章はそれぞれ独立した短編のようにも読め、且つほんの少しずつ繋がっている。コミュニケーションの物語でもあり、書かれていない人生を示唆する見本帳のようでもある。
各々の読者は好きな断章のなかで(章立てしてある本流も含め)各々の人生のヴァリアントを生きる。 -
気が狂うかと思いましたよ。読書を読書するメタメタ。ドグラ・マグラを読んだ感覚を思い出した。
-
久しぶりのイタロ・カルヴィーノ。といっても、私は「不在の騎士」「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」くらいしかちゃんと読んだことがなく(「レ・コスミコミケ」と「柔らかい月」は持ってるけど途中で投げ出す)、たまたまSNSで知った本書に興味を持って購入した次第。
どんな内容か、というのは帯やカバーの後ろに書いてあるまんまなので省きますが、私が読み始めて感じた最初の印象は「夢みたいだ」です。夢というのは、眠っているときに見るあの夢です。途中で分断され、整合性が全くない。私にはコントロールできない世界。そんな物語が10章にわたって描かれるわけですが、それぞれてんでばらばら。そして、「あなた」つまり読者(男性読者、と規定されている)は、その物語の続きを求めて彷徨うわけです。そこに「あなた」と対極にある「女性読者」が登場し、「あなた」の心はかき乱される。分断された小説の章と、「あなた」が小説(の書かれた本、あるいは原稿)を求めて右往左往する章が交互に描かれるのですが、やがてそのどちらもが結び合わされる結末に向かうのか向かわないのか・・・。
私が思うに、この本は「普通の小説では飽き足らなくなった読書中毒の人」こそが喜びそうな本、ということです。「文学の魔術師」カルヴィーノの魔法に身を委ね、読書という麻薬に酔い痴れるのです。
これを機会に、本書より以前に書かれた「見えない都市」「宿命の交わる城」も読まなければ、と思いました。 -
文学ラジオ空飛び猫たち第30回紹介本。 〈あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている〉という書き出しから始まる型破りな小説。作中には10本の小説内小説が挿入され、主人公の男性読書とともに読者(ややこしい)も物語に翻弄されますが、それがとにかく楽しいです。文学の魔術師、イタロ・カルヴィーノの代表作。究極の読書小説。 ラジオはこちらから→https://anchor.fm/lajv6cf1ikg/episodes/30-eq2egv
-
第三章まで粘ったけど眠くなりすぎて頓挫。これで3冊連続頓挫。次は川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」。なんとか読み切りたい。きっつー。
-
新聞の書評か何かで読んだ。これが紹介されたのは、日本人の架空の小説家と小説が紹介されていたからであろう。著者の経歴と少しは関連があるが、わかりづらい。
-
僕の文学の入り口。
-
さっぱり分からない(褒め言葉)
-
出だしの本屋の情景が、本好きの心をくすぐる。そう、そう、そうなんだよね、って。タイトルもいいなあ。
-
タイトルに「冬」がつくので、今の季節にちょうどいいかしらと思い読んだら、あまり関係なかった。千夜一夜物語のような、物語の入れ子式構造。物語の中に出てくる物語を読むって、夢の中で夢を見るのと少し似ている。
主人公は男性読者になっているけれど、「読む側」よりも「書く側」の方にスポットライトが当たっている感じがした。私は普段小説を読むとき、作者がどんな人物かとか何を思って書いたのかとか、そういった情報を知らずに読むことが多い。この本に出てくる女性読者(ルドミッラ)に近いかな。本の作り手側の余計な情報はできるだけ入れずに、純粋に小説を楽しみたい。小説を書いたことのある人は、違った視点で読める本だろうと思う。
苦悩する小説家の自問自答の日記である第八章と、最後の話中話「いかなる物語がそこに結末を迎えるか?」がおもしろかった。世界から、感覚から、ものを消していく感覚。私も無意識にやっている。文章にするとこうなるのか、と不思議な感じがした。 -
ちくま文庫版を持っているが、Uブックス版で再読。文庫版は品切れなのかな?
『あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている』から始まる冒頭の一節は、何度読んでもユニークで面白い。カルヴィーノは元々、作風をかなり変える作家だが、本書ではその変化するテクストが次々と現れ、まるで万華鏡のように感じる。
久しぶりに読んで堪能した。カルヴィーノ、また久しぶりに読み返そうかなぁ……(でも何処に仕舞ったのだろう)。 -
単行本で既読。
-
あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。しかしその本は三十頁ほど進んだところで同じ文章を繰り返し始める。乱丁本だ。あなたは本屋へ行き交換を求めるが、そこで意外な事実を知らされる。あなたが読んでいたのは『冬の夜ひとりの旅人が』ではなく、まったく別の小説だったのだ…。繰り返し中断され続ける小説を追いかけて世界をめぐる“男性読者”と“女性読者”の冒険。「文学の魔術師」による究極の読書小説。
-
書籍についてこういった公開の場に書くと、身近なところからクレームが入るので、読後記は控えさせていただきます。
http://www.rockfield.net/wordpress/?p=8285