なぜ私はここに「いる」のか―結婚・家族・国家の意味 (PHP新書)
- PHP研究所 (2003年9月17日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569631370
作品紹介・あらすじ
「個の自由」が大手を振るう現代社会。愛のかたちは多様化し、家族のしがらみは否定される。それでも私たちはつながりを求める。たとえ嫉妬や憎悪が渦巻こうとも、この不安な「私」は他者との身体的・情緒的な関係なくしては保てない。だからこそ人は言葉を交わし、心を通わせることで、世界と深くかかわっていこうとするのだ。事実婚、夫婦別姓などの動きを視野に入れながら、個人および社会にとっての結婚・家族、その延長にある国家というまとまりの意義を問い直す。存在論、言語論の可能性を探る哲学的挑戦。
感想・レビュー・書評
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情緒的な意味を含んだこの世界を生きているわれわれの実存のありようを明らかにするとともに、そうした立場に基づいて結婚・家族・国家の意味についての考察を展開している本です。
前半は、著者の実存主義的な立場が、「いる」という日本語を手がかりに説明されています。著者が手がかりとするのは、ハイデガーの「現存在」とは日本語の「いる」のことにほかならないという、詩人の菅谷規矩雄のことばです。「いる」という語はふつう、「あそこに猫がいる」「彼は走っている」「壮麗な伽藍が並んでいる」のように用いられます。著者はこうした「いる」の用法に検討を加えて、「いる」とは「話し手の身体それ自身が、言葉で直接指示された状況に……参入していることを示している」と述べています。つまり「いる」ことによって、自己と世界は生き生きとした情緒を含むような仕方で結ばれているのです。このことが著者の実存的な立場の根底をかたちづくっています。
次に著者は、結婚・家族・国家の意味を、実存的な身体をもつわれわれがエロス的・社会的な相互承認を形成してゆくプロセスにそくして解明しようと試みています。ヘーゲルは『法の哲学』において、人間の精神が家族から市民社会へ移行し、さらに国家へと進んでいく弁証法的なプロセスを描きました。しかし著者は、これは起源論的な発想に基づいた叙述ではなく、「より高い精神を持った共同体を、私たちは理念としてもたなくてはいけないという、一種の思想的な呼びかけだった」と解釈しています。
近代市民社会の中で「成熟」を問題にする著者の議論の大枠はそれなりに理解できたのですが、ジェンダー論批判などに見られる著者の「結婚」や「家族」についてのセンスは少し窮屈すぎるようにも感じました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人間学アカデミーの「存在論」講義の書き下ろしです。
著者は、存在論を他者との情緒的なつながりを西洋哲学が探求不足であるとの視点から論じています。
他者との身体的・情緒的なつながりから存在論を論じ、結婚、家族、国家というつながりに言及していきます。
私の個人的な感想としては、他者とのつばがりから自分の存在論を論じるのは難しいと考えます。
他者とのつながり云々以前に自分はすでに存在しているのですから。
それをいかに言語で表すか、過去の哲学者を悩ませた永遠のテーマだと思います。
そもそも私とは何なのか?
まずはココを定義できないと他者とのつながりは論じられないと思います。
正直、難解な本です。
哲学好きでないと読めません。
新書としてはハードルが高いと思います。 -
話が広い。
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哲学特有の分かりづらさが
散見していますので
本来評価は1~2でも十分かと思います。
とかく、新書にしては「難解」そのものだったのが
非常に印象的に映りました。
この難解さはおおよそ終盤のほうまで
続いてくるのでいやな人は
軽く読む程度にとどめたほうがベターでしょう。
だけれども、夫婦別姓・フェミニズムのそれは
確かに…と思えることもあり
一概に悪い本とは言えませんでした。 -
わたしは、今、なぜここにいるのかということを今まで生きてきた中で感じられました。だから、ちょっと題名に興味がわいたので、この本を読みました。
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私は、この本を読んで、人間は相手と言葉を交わし、心を通わせることが大事なのだと分かりました。人と出会い、お話をすることによって、性格が形成さ...私は、この本を読んで、人間は相手と言葉を交わし、心を通わせることが大事なのだと分かりました。人と出会い、お話をすることによって、性格が形成されていき、成長していくのだと思いました。だから、周囲の人たちとのつながりを大事にしていきたいです。2009/07/28
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