ツヴァイク全集 11 ジョゼフ・フーシェ

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (378ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622000112

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    ── ツヴァイク⦅全集〈11〉ジョゼフ・フーシェ 19741101 みすず書房⦆
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4622000113
     吉田 正己・仏和訳
     
    (20210616)
     

  • 「ジョゼフ・フーシェ」
    ナポレオンとフーシェはまるで気が合わなかったけれど、ナポレオンがナポレオンにならなかったら、フーシェの人生はさぞ味気のないものになっただろうな。

    フーシェの主人はフーシェ自身だ。さらに言うなら、フーシェは彼の情熱に仕えていた。彼の君主でさえ情熱を満たすための手段以上の価値は無かった。
    誰もがフーシェを裏切り者と罵る。しかし、フーシェにしてみれば、おのれの真の主人に忠実に仕えていたにすぎないのだ。

    彼の真の主人たる情熱とは、では何か?陰謀である。ややこしい政治の世界でギャンブルをすることである。情報を集め、全ての関係者にいい顔をして見せ、計略を巡らし、時代を変える事件の始まる前から終わりまで、眺めていることである。

    だから彼は、権力の頂点に立ったとき、腹八分目で満足するべきだったのだ。目立ちすぎる場所に留まってはいけなかった。退く時を見誤ったために、彼は自分自身を裏切るしか無くなってしまった。早めに退いていれば、祖国から永久追放されることもなかっただろう。フランスにいさえすれば、大好きな陰謀と引き離されることもなかった。

    ナポレオンはなぜ、せめて百日天下の間に自分から玉座を降りなかったんだ?
    そうすれば、ボナパルト家はもっと永く栄えることが出来たかもしれないのに。英雄の奇妙な優柔不断

    ナポレオンのような偉大な人間に憎まれたことは、いっそ名誉なことだろう。

    王族と二十ばかりの貴族による独裁を、自由を求める民衆は血が血を呼ぶ革命で打ち倒した。
    革命はもっと厳しい一人の天才による独裁を招いたが、疲れ果てた民衆は独裁者を追い出し、自由を思い出した。
    ブルジョワの時代が始まるのである。
    そして最後に残るのは、いつでも名も無き人びとだ。

    権力を持つということは自由な手を奴隷船の鎖につなぐようなもの。波に揺られているうちに、権力という波が血の中でざわめくようになる。そうすると、自分が奴隷船に乗っていることも忘れて、そこから離れがたくなる。

    「明日の歴史」
    第二次世界大戦直前の世界は、どこの民族も国民も病的に激っしやすい状態にあり、非常な道徳的危機に直面している。

    目に見えない不安の空気に覆われた人びとは、理解し合うより憎み合う方が、生産的な発展の努力よりはおそるべき破局を待つ方が容易になる。

    第一次世界大戦の記憶がその原因だ。

    あのおそろしく長い四年間は、どこの国でも人びとの感情を高め、結集する努力をしていたが、それは戦争を終わりまで続けるためだった。

    もともとは戦争などというものには無関心な、全く平和な人びとに、本来持っている以上の憎しみや敵愾心を次々と人工的に造り出させるために発明されたのがプロパガンダというおそろしい科学だった。


    憎しみや殺人、熱情への義務に馴らされた世代は、軍国主義への中毒状態に陥り、戦後も活動を続けた。

    対象は変わったが、戦争中の心理状態そのままに、恐るべき熱情で、人びとは憎み争うという欲望を満たし続けた。

    どうやったら、憎しみを退けて、人間らしさを取り戻すことが出来るだろうか。

    未だに解決法の見つからない問題だが、意思の疎通を続けることが、希望につながる道ではないだろうか。


    けれど私たちはもう、あらゆる会議や宣言・呼びかけに幻滅して、冷ややかに見ている。

    人間の理性とは、未来のために生きること。理性はその性質から言っても、すぐに効果が現れるものではない。

    憎悪という心理状態にある人間は、学ぶということをしない、彼らに期待するのは止めよう。そして、子供たちがよりよく、より人間的に、より幸福になるため、彼らをよりよく、より人間的な教育を与えよう。

    人類の歴史から、自国や諸外国の歴史から学び、理解することは、人生に対する政治的・個性的・道徳的立場を決定的に形作る。

    教科書は、ものの見方、考え方がどれ程の早さで変わっていったかを、後の世にはっきりと示す。

    第二次世界大戦以前の若者は、国家賛美のための歴史を教え込まれていた。
    年寄り教師が、歴代天皇の名前を暗記していると自慢していたのを思い出す。とっくに死んだ連中の名前を正しい順番で言えたから、なんだっていうんだ?いったい、それが未来の世界像の役に立つのか?

    若者が自由に人間的な目で世界を眺めることが出来るようになる前に、それぞれの国によって色の違う色眼鏡をかけさせ、国家の利益という偏った角度からのみ世界を見るよう誘導するのが歴史教育だった。

    歴史教育は、客観性を養うためではなく、若者を愛国的な未来の兵士に、理性無く従うだけの奴隷にするという目的のためにだけ行われていた。


    教科書は子供たちに、人類の歴史とは戦争の歴史であることを教え、物静かで、平和に国を治め、進歩を求めることを知っていた人びとのことはほとんど無視している。

    戦争を遂行した男たちだけが、重要であり、英雄として記されることを見た子供たちの従順な頭には、大切なのは戦うことだという思想が、繰り返したたき込まれた。

    国益のためなら侵略も肯定される、「成功」という結果だけが決定的なものだ、ということを繰り返し教えられた結果、世界を打ち壊しているあの興奮、憎悪、不安の状態を引き起こすことになった。

    第一次世界大戦は他のいろいろのものと一緒に、戦前の若者たちに掛けられていた色眼鏡も壊そうとした。

    四千年前も現代も、私たちは闘争本能のまま同じように行動している。原始的な武器を精密な兵器に持ち替えて。少人数の野蛮な群れを幾百万の軍団に換えて。ときの声のかわりにラジオに宣伝文句をまくし立てさせて。それが進歩と言えるだろうか?

    世界大戦を引き起こすように教育されてきた子供たちがいた。

    時代を毒する性悪な本能の全てのことの教育を受けて育った子供たち。

    百万の命を犠牲にしても、どんな手段を使っても、国家の勝利こそが全てだと教えられて育った子供たちだ。

    「わが民族を利するものはゆるされる、ということが法的に正当化され、如何なる犯罪をも許す口実を、イデオロギーがつくり出すのです。」

    戦争は人間が行う最高の行為であるという嘘が組織的に崇拝される時代

    この様な教育と時代の中で育った子供たちは、前の世代よりもっと陰惨な血の海の中に突き落とされてしまう。


    歴史は、人類の体験の総額なのだから、最も重要な教養科目だ。

    人間の生活を、停滞している現象として記述せず、人間らしさと人類の共通なものへの進歩として記述する歴史が必要だ。

    世界の全てが祖国に始まり、祖国に終わる、その外ではどんなことが起きているのか知るよしもなかった時代の人びとが未来のために必要とした歴史と、世界中とつながっている現代の人びとが未来のために必要とする歴史は違うはずだ。


    全世界を見渡す手段を持っている私たちは、他の人びとを犠牲にして生き残るのではない、共生する方法を模索できるはず。

    「明日の歴史は全人類の歴史でなければなりませんし、個々の争いは共同体の福祉に対して犠牲を要求するような形で行われてはなりません。」

    戦場で行われた行為は破滅的な無意味であり、創造的な理性によってよりもむしろ偶然によって形作られたのだ。

    「そこで、トルストイはこう警告します。結局は無意味な、むしろにくむべき業績のために感動することなんかやめてしまい、それを何かもっとよいもののためにとっておきなさい、感動を無駄遣いしてはなりません、と。」


    戦争という出来事を隠すべきではない、けれど、誇るべき功業とはとはみなさない。

    人間の歴史には、敵対と殺し合い以外に、別のことだって起きていたはずだ。

    「うすぎたない動物であった人間が自分の穴の中からはいずり出て、いろいろなことを学んだ。獣や他の人間を殺すだけでなく、陸上と水上を前進し、長い年月の内には自分の手の力を機械力によって、千倍にもする原理を自分のものにした。……人間をこのようにした何事かがたしかに起こったに違いないのです。」

    「文字を発明し、顕微鏡によって目に見えないものを見、望遠鏡によって星を観察し、その運行をはかる、雷電を飼い慣らし、陸や海の彼方と話し合い、考え、見る、……このようなことを人間に強いる何事かが起こったにちがいないのです。」


    文明の発達という偉業は、征服の歴史よりも、重要ではないだろうか。
    もどかしいほどゆっくりした前進でも、同じ所を血まみれになりながらぐるぐる回っていることより誇らしくはないだろうか。

    血まみれの歴史より、人間はまだ人間の偉大さに到達してはいないが、確かに前進していることを示す歴史のほうが、なぐさめになり、はげましにならないだろうか。

    対立を強調して、協力を隠す歴史から何を学べるだろう。

    孤立した国家は、ナショナリズムを絶対の価値として考えるように、人間が国家の奴隷として追従するように求める。

    国家思想とナショナリズムの異常肥大は人びとを不幸にする。

    「私たちは立場を変えなければなりません。世界を正しく眺めようと思ったら、もう数段高くのぼって、いわば個々の景物が一つの風土の中にとけ込んで行き、雄大なパノラマが展開するところに足場を得なければならないのです。このような立場の変更は可能であるばかりでなく、あらゆる点で大変に有望なことだと私には思われます。」


    共存共生を目指すのが、自然の掟だ。

    本能の声にのみ従う動物が共生を目指して行動するのに、本能に打ち克つ愛を持つ筈の人間が、未だに闘争本能から脱却できないのはどうしたわけだ?長い長い年月があったのに。

    戦争を行ってきたことではなく、良心に恥じながら、戦争に巻き込まれてきたということや、英雄主義をもはや信じていないということが、人類の本当の功績ではないだろうか?

    「十年といわずどの一年間もが、新たな発明・発見を私たちにもたらしてくれ、私たちの活動領域により大きな力をあたえてくれるものなのです。私たちは時にはつまずきもし、血なまぐさい戦争をひきおこして、あの昔ながらの野蛮な状態にもどることがあるにおしても、私たちは決して意味に堂々巡りをしているのではなく、目に見えない目標に向かって屈することなく近づいていってはいるのです。」


    「私たち諸民族をそれぞれ孤立化させ、敵視させ合ったことはすべてあやまりだったのであって、私たちが共々手をたずさえて進むようにさせてくれたものこそ本当に分明であり、進歩だったのだ、という認識を、私たちが明日の歴史にあたえることができるとするならば、明日の精神状態は今日のそれよりもよほど良いもの、明るいものになろうか、と私は思います。」

    戦史は、国々が、諸民族が、互いに迷惑を掛け合い負債を負い合ってきたということだけを示すにすぎない。

    ツヴァイクの夢見る明日の歴史は、一国がどれほど他国のおかげをこうむっているかということを示す。

    戦争の歴史が青年たちを戦争に駆り立てる一方、文化史は、独裁者や検察官たちが何度も滅ぼそうとしてついにできなかった多彩で多様な人間の精神をそれぞれ尊敬することを教えてくれる。

    もはや模範とされるのは征服者、侵略者ではなく、人間の精神に仕え、知識を増やし、発展させた人びとだけが英雄と呼ばれるだろう。

    情熱的な目に見える成功を著述することは、公平、寛容、ヒューマニティーを表現するよりずっと簡単だ。

    歴史は娯楽ではない。

    利己的な野望のために幾千、幾百万の人びとを死地に追いやった者のかわりに、信念のために自分の命を投げ出した人びとを人間の模範例として取り上げることの方が、歴史の著述家の義務ではないだろうか。

    創造的精神は、何もかもが分断され混乱した混乱の時代にも、何もかもがつながっていることを見つけ出す。

    血なまぐさい見せ物は、人類の歴史の一部でしかない。

    人は微々たる存在だが、それぞれ意味を持っている存在だ。

    「私たちが過去というものに対しても、私たちの人間性のより高い段階へと発展していくのだという意義を与えることが出来るからこそ、過去を有益なものとして受け取ることが出来るのです。」

    歴史は単なる戦いのカレンダーではなく、人類が向上してゆく発展段階の記述であるべきだ。このような歴史は可能だ。

    ウェールズ 歴史 諸民族がお互いに力を貸しあって成熟していく

    英雄的な行いは戦場においてではなく、一人の人間の心の確信の中にある。

    1797年、ナポレオンはオーストリアを打ち負かして征服した。同じ年同じ場所で、アレッサンドロ・ヴォルタが世界で初めてバッテリーを作った。ナポレオンの帝国は消え去り、オーストリアもいまでは同じ国ではない。けれどバッテリーは今も世界中で人間の生活を助けている。

    戦争という血なまぐさい野蛮行為が通り過ぎ過去のものになっても、新しい進歩や英雄的行為は欠けることがないだろう。

    私たちは今おこっている事柄の偉大さや力強さを、実際十分には知っていない。

    「私たちは一人の指導者の政治的な大小の成果や、取るに足らない小さな領土の征服が私たちの時代の歴史なのだという誤った考え方をしています。そんなものはごくわずかな間の歴史でさえもありません。次の世代の表面上・内面上の生活を本当に変えてしまうのは、今このときにあって、たくさんの実験室の内のどれか一室で行われている目立たない実験の中で、私たちには直ぐ見当の付かないような複雑な計算のもとで生まれつつあるのです。」

    人は人生の如何なる時にあっても精神的には進歩しており、手を取り合って進むときにこそ勝利を得ているのだ。

    「私たちは、明日の歴史が持つことになるはずの、このような新しい意味において現在の状態をうち眺めるときにこそ、私たちの時代に絶望もせず、また、国家市民としては失望させられながらも、私たちがこの時代の人間だという誇りを保持することが、初めて可能になるのです。私たちが恐怖心無しにこの様な歴史の血みどろな渦巻きに見入ることが出来るのは、私たちがその渦巻きをよりよい未来のための創造的な準備過程、新しい人間性の準備過程と見なす場合だけなのです。歴史が一つの意義を持つものとすれば、それは私たちの誤りを見出し、それを克服することでなければなりません。昨日の歴史が永遠に前科を重ねてきたことの歴史であるならば、明日の歴史は私たちの永遠の向上の歴史、人間の文明の歴史であらねばなりません。」

    「創造する詩人としての歴史」
    1939年、ストックホルムで開催されるはずだった第十七回国際ペンクラブ大会のための講演原稿。この大会は第二次世界大戦の勃発によって中止された。

    全人類の歩んできた道の先に私たちがいる。巨大な祖先の列の先頭を歩く私たちがいる。それは一緒に生きていくという偉業を完成させるためだ。願いを託し続けるためだ。

    幻想的な状態は、創造的な状態は、持続させ続けることは出来ない。歴史は、天才や超人ばかりを作り続けるわけにはいかない。休むのは次の跳躍への準備期間だ。

    詩人たる歴史は、繰り返すことはない。必ず新しいものを創りだす。歴史は似たようなことを演じることはあるが、似ているだけで、同じではない。
    「何故なら歴史は、繰り返すのにはあまりにも豊かすぎますし、自分の正体を推し量らせるのには、あまりにも複雑すぎるのですから。」

    過去から未来をおしはかることは決して成功しない。

    歴史として伝えられていることの全てが、完全な現象なのではなく、本来の姿の一面に過ぎない。常に何か断片的なものであるに過ぎない。
    「世界史は始めから終わりまで読めるような、欠落のない書物ではなく、十枚中九枚の割合で朽ち果てている手稿なのです。その幾百頁かは判読することが出来ますが、幾千頁かは隠滅しており、つなぎ合わせ、空想で補うことによってのみ、まとめることができるのです。歴史におけるこのような数多い謎のような場所は、むろん詩人たちに、そこを補おう、そこを創作しよう、という気をおこさせずにはいません。」

    「おそらく私はもっと大胆にこう言ってもよいでしょう。歴史というものは本来は存在しないのであって、語り手の技術によって、記述者の空想力によってはじめて、単なる事実が歴史になっていくのだ、と。どんな体験も現象も、それが誠実に、真実らしく語られれば、最終の意味で真実となるのだ、と。本来偉大な現象とか、本来卑小な現象というものはないのであって、活き活きと残るものと死滅するもの、つくり出されるものと消え去っていくものの差があるばかりなのです。」

    出来事を保存するたった一つの方法は、それを詩的な歴史にまで高めることだ。世界史上で優位を占めるのは、詩的な民族であり、創造的な要求を持つ人間性こそが全てを決する。

    歴史は常に、詩的な偉大さに達したところでこそ初めて、本当に生きていることになる。

    「こんなわけで、今日、私たちを混乱させ、おしのけるものは皆、何か新たなもの、未来のものを私たちにもたらすはずの波乱なのであって、生きていて無駄なものは何一つありはしないのです。あらゆる瞬間は、私がこの言葉をしゃべっている間にもまた、過去になっていきますし、すぐに歴史になってしまわない現在というものもありません。私たちは皆、せりふ無しの端役として、共演者として、幕を次々に開けていく芝居にいつも加わっているのです。それ故、緊張と畏敬の念を持ってその解決を待つことにしましょう。詩的で意味深いものとして歴史を愛する者は、現在をも、また、自分の存在をも意味深いものとみなさずにはおれません。そうしてこそ私たちの心には、あらゆる逆境のうちにあって次のような自覚が生まれてくるのです。……私たちは誰しも創造し、行い、書きながら人生の目的を果たしていくのだ、誰もがそれぞれ別の目的に向かいながら、結局は同じ目的、あの非常に大切な、時代を超越した目的を果たしていくのだ、と、いう。ゲーテはそのために次のような不滅の言い回しを考え出しました。
    「私たちは永久のものとなるためにこそ存在する。」」

  • ナポレオンには「予はたった一人だけ、真の意味で完全無欠な裏切り者を知った、それがフーシェだ!」と言わしめ、ロベスピエールは「陰謀の親玉」と呼んで唾棄し、バルザックからは「人々に対してナポレオン自身より以上の権力をもっていた」と絶賛された、天才的な卑劣漢、政治的寝業師ジョゼフ・フーシェの伝記。確固たる無信条でもって勝敗がついてから勝者側につき、情勢や他人に関する多くの情報を握って操作するというやり口(警察大臣とかだった)で、フランス革命から第二王政復古までの激動期の政治に少なからぬ影響を持ちつつも生き延びることができた真っ黒けっけなフーシェの生き様を、「まったく心理学的な興味から」やや喜劇的に描いている。 祝いの席のスピーチに使いたくなるツヴァイクの慧眼なお言葉が多くてメモ。
    「この世のいかなる悪徳や残忍さでも、人間の臆病さほど多くの血を流しはしない」 「王者は、自分が弱みを見せた瞬間を目撃した人を愛さないし、専制的な性格の人は、たった一度でも、自分たちより賢いことを示した顧問役を愛さないものだ」 「何しろ権力は、怪物メドゥーサの顔みたいなものだ! 一度支配し命令する陶酔感を味わった者は、もう決してそれをあきらめることなどできない」 「フーシェが人間をひどく軽蔑するのは、自分のことを知りすぎているから」 「裏切りものたちからだけは、予は真実を聞きえた(ナポ)」 「ナポレオンを裏切ったのは、わたしではなくて、ワーテルローだ(フー)」 「うなぎとか蛇とか、れっきとした冷血動物は、素手でうまくつかまるものではない」 「彼の妻が亡くなってしまった今となっても、たった一人だけ、彼を助けてくれるものがあった。それは「時」であった」 「人間と人生とに倦み疲れた彼は、ここにはじめて、名声と権力以外の幸福、すなわち、忘却を求めたわけである」

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