絶歌

著者 :
  • 太田出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (294ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784778314507

感想・レビュー・書評

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  • やはり犯罪行為がそのまま収入の糧になるのはどうなのかな、と思い購入を躊躇していました。でもどうなんでしょうね、犯罪を犯した人物の手による著作、というのは他にもたくさんあるような気もしますが。この点については自分でも未だ消化不良です。

    で、内容ですが前評判通り遺族の立場を慮っていたらとても書けないような文章・表現のオンパレード。自己顕示欲もたっぷりと感じられます。でもそもそもそういった資質をして”反社会性パーソナリティ障害”を当時から疑う声が高かった元少年Aですから、そこを責めるのもどうなのかな… 同じ理由で「反省していない」「更生していない」という批判にもいまいちピンときません。

    先天的なものなのか後天的なものなのかはわかりませんが、共感性の希薄さとか言葉の巧みさ(表面的なものが多いとはいえ)とか読み取るにつけ、「ああ、やはり更生ということは並大抵のことではないのだな。」とじわじわくる感じでした。

  • 酒鬼薔薇聖斗こと少年Aが上梓した「絶歌」を読み終えました。
    著者名は「元」がついて「元少年A」となっています。少年Aですら匿名なのに「元」を付けているのは法的に罪を償ったからもう少年Aではないんだ、との意味があるのでしょうか。

    まず、この「少年A」って誰?という人も多いと思いますので、簡単に事件のあらましを説明しましょう。

    「この少年Aは1997年(平成9年)当時14歳で、住んでいた兵庫県神戸市須磨区で小学生2名を殺害し、3名に重軽傷を負わせた。これを『神戸連続児童殺傷事件』、別名『酒鬼薔薇事件』『酒鬼薔薇聖斗事件』とも呼ばれる。少年Aは絞殺した児童の一人の首を切断後、須磨区の中学校正門に晒し、それに対する犯行声明を神戸新聞社に『酒鬼薔薇聖斗』と名乗って送った。これが事件別名の由来になっている。
    この事件は連日報道され、中学生が残虐な事件を起こしたことから国民の注目を集めた」

    ウィキペディアに犯行声明があったので添付します。

    「さあゲームの始まりです
    愚鈍な警察諸君
    ボクを止めてみたまえ
    ボクは殺しが愉快でたまらない
    人の死が見たくて見たくてしょうがない
    汚い野菜共には死の制裁を
    積年の大怨に流血の裁きを

    SHOOLL KILL
    学校殺死の酒鬼薔薇」
    文字通りの中二病ってやつなんですかね。こんなのに殺されるって不条理としか言いようがない。

    だいたい事件のことはわかりましたでしょうか。

    では、レビューです。かなりの主観、憶測が入っています。

    なぜ少年Aは本書を書いたのか。本文中で「僕には書くしかなかった」と散々言い訳していますが、

    「金がほしかったんでしょ」

    この一言につきます。

    少年Aは事件後、少年院を退院し、社会に出ます。当時21歳で彼なりの理由で職を転々とします。そんな状況ですから経済的に不安定な生活で、自分の犯罪自慢出版で一攫千金を狙ったんでしょうね。

    内容に行きましょう。
    本書は手記とされています。手記とは「体験、感想をつづったもの」とあります。
    ところが、本書は小説のような風景描写や心理描写をしているため、途轍もなく胡散臭さが文章についています。
    たとえば、29ページの「それぞれの儀式」の章は住まいの近所にある「タンク山」の風景が書かれています。同章四行目から本文抜粋。

    「雨上がりのタンク山の美しさは壮絶だった。雨を啜って湿り気を帯びたセピア色の腐葉土が、雲間から降り注ぐ陽の光のシャワーをそこかしこに弾き散らし、辺り一面、小粒のダイヤを鏤めたように輝いて、僕の網膜を愛撫した。」

    これなんか最高に気持ち悪いです。この文章は事件当時に少年Aが見た風景を書いています。動物を殺したり、小学生を二人も殺害するような人物がこんな様子で世界を見ているわけないと思うんです。もっと歪んでいるはずです。本文でも「ランドセルを心底嫌悪していた」と書いています。無邪気の象徴とも言えるランドセルを嫌うって相当ひん曲がった性格しているはずです。
    何が言いたいかと言うと、上の引用文は単なるカッコつけです。僕はこんな文章を書けるんです!って言いたいんです。そもそも32歳になる著者が20年近く前の風景なんて詳細に覚えているわけないです。記憶をカッコよく捏造してるだけです。こんな文章が至るところにあるので、僕の本書への印象は「嘘ばっか吐いてる」と固まっていきました。

    その印象を持って読み進めていくと、「原罪」と言う章の48ページあたりに「人殺しへ向かう契機」が書かれています。「大好きなおばあちゃんの死後、おばあちゃんの愛用していた電気マッサージ器でオナニーすることで性と死がくっついた」と言っています。なんだかよくわからないのですが、要するに「いけないことをやるって快感!」ってことらしいです。これが人殺しに発展していくんだそうです。こんなの読んでも鼻くそホジホジものです。後付け設定感がプンプンします。

    「殺すことが快感だった」

    おばあちゃんまで引き合いに出してますが、この一言だけだと思います。

    ツッコむところが多くて、疲れてきちゃった。
    もういいや。気になったところだけ書きます。

    ・なぜ人を殺すに至ったのかが書かれていない
    一番の肝な部分がないってどういうことなんでしょうか。三人への凶行の事実がそれぞれたった一行で記されているだけです。お得意の文章で細かく様子を書いてほしかったです。猫を殺すところは身の毛がよだつくらい熱心に書いているのに、人のは事実を一行だけ。前にあげた週刊文春同号によると出版社側がその文章を削ったらしいですが、遺族への配慮ですかね。
    憶測ですが、もしそうだったとしたら、最初からこんな本だすんじゃねーよ、と言いたいです。遺族に内緒で少年Aの自己満足オナニー本を出版して、精神的に遺族を強姦しておいて配慮もクソもあったもんじゃねっす。
    猫も当然殺してはいけませんが、人を殺害するのは訳がちがいます。彼はその一線を越えてしまった。なぜ越えてしまったのか、またそのときの精神状態や気持ちはどうだったのか。少年Aの狂気を知りたかったです。

    ・どこまでも自分本位
    第二部の「ちっぽけな答え」の章で「なぜ人を殺してはいけないのか?」に著者はこう答えています。

    「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

    このように彼が考える理由は「他人から受けた優しさや温かさを素直に受け取ることができなくなる。喜びや幸せを感じることができなくなるから」とだそうです。
    第二部では少年Aが少年院から出た後の生活を綴っています。社会で暮らしてから優しい人もたくさんいたようです。彼らから親切を受けても、自分が殺人者だった過去が邪魔して素直に感情を出せなくて苦しい。こんな苦しみを僕みたいに味わってほしくないってことです。
    気持ちはわかりますが、自己完結しちゃってますよね。

    僕が考える人を殺してはいけない理由

    社会的には、
    「殺害することによって、人の生きる権利、またその人に関わる人、関わるだろう人の未来を奪ってはいけない」
    簡単ですよね。少年Aが受けた親切などを殺されてしまった二人はもう受けることはできないですし、生きていたら二人も成長して、恋愛、結婚、出産などしていくこともあったろう、もしくは偉大な発明をしていたかもしれません。人を殺して他人の生きる権利を奪ってはいけませんよね。

    根源的には、
    「殺人していい世の中だったら、世界は破滅してしまうから」
    あーむしゃくしゃするから人殺そ!でもいいわけです。学校なんかでも「あいつ昨日ムカついたから殺すわ」って社会です。人は殺す側、殺される側の両方になるわけです。周りは全員敵!隙を見せたら殺られる!そんな世の中が発展していかないですよね。
    「バトルロワイヤル」って作品をご存知でしょうか。昔、話題になったやつ。ああいった世界になっちゃうんですよね。

    何が言いたいかと言うと、二人を殺害して、世間一般の人よりも死について、人を殺す罪悪について、人よりも考えているはずの著者が本を出してまで伝えたかったことって、軽いよなって思います。

    283ページで著者は「『なぜ人を殺してはいけないのですか?』というその問いに、僕は一生答え続けていこうと思う」って書いてます。

    しなくていいです。もうじっと粛々と苦悩に堪えて生きてください。

    ・本書を読んで得られること

    ないです。本書からは。ただ、少年法や死刑制度を改めて考える契機にはなります。

    少年法が多くの少年少女を立ち直らせただろうことを認めながら、少年Aのような常軌を逸した罪を犯した人物にとって有効なのかと訝ってしまいます。少年院で7年、社会に出て10年くらいで出版された本がこれなのですから。遺族はやられ損です。
    また彼の登場後も一年に一回くらい「人を殺す経験がしたかった」と人を殺す輩が出てきます。少年法で守られているから殺しても大丈夫!って魂胆なのでしょうかね。

    じゃあ、異常殺人者には死刑を!と単純に言うと、先程の「なぜ人を殺してはいけないのか」の社会的な理由と矛盾します。異常殺人者に生きる権利はないのでしょうか。しかし、少年に死刑は求刑されないけど、成人にはある。成人の死刑はなぜあるのでしょうか。そしてこの差はなぜか。死刑には同じような犯罪を犯そうとしているものに対する抑止力効果があるよな〜、と答えを出すのはむずかしいですが、自分なりの考えを持たなければと改めて感じました。

    つらつら書きましたが買ってまで読むべき本ではないです。

  • 1997年に起きた神戸連続児童殺人事件の犯人「少年A」による手記。もう18年前の事件であるが、発売後すぐに大きな話題となった。
    騒動では、その内容よりも、出版すること自体が問題にされた。被害者である土師淳くんの遺族から、同書の出版の差止めや回収の要望をマスコミを通して公表されたことは、出版を批判する側にその根拠を与えたように見えた。その報道がなければどのように評価されたかわからないが、遺族感情に配慮すべきであるなど出版に否定的な意見も多かったように思う。その多くは、自分には非当事者による越権のようにも思えた。場合によってはある種日本に特有なのかもしれない不必要な不寛容さであるようにも見えた。Amazonに並べられた断定的な星1の否定評価は、少年Aの事件とは別に何かゆがんだものを表出しているように感じた。

    本の出版により、加害者に印税という形でお金が入ることに対して批判する人がいる。それによりその人自身のお金のいくばくかが取られるわけではないのに、不思議なことだ。加害者が得をすることが広く知れ渡ることで、このような犯罪が増えるという意見については首をかしげる。それはこの手の犯罪に対するモティベーションやリスクや環境というものについての想像力や誠実さを欠いているのではと思う。また、本書出版にあたっては実名であるべきという論については、彼の状況を鑑みてそのことを主張することは合理的ではないだろう。多くの場合、そこには実名表現に関する是非の議論はなく、何よりけしからんという感情的な意見でしかないように感じる。多くのものは、正義の名前を借りた意識されないおかしな嫉妬の正当化でしかないようにも思える。ただ、その意見は同じ意見を持つ人の間で共有されて増幅されていく。そこにある種の恐ろしさを読み取るべきなのではないかと思うのだ。

    結局、本書の出版の是非に関しては、森達也が朝日新聞のインタビュー(※)答えた「「意味のある本だから出版されるべきだ」と主張したいのではありません。「多くの人が納得できる意味づけがなければ出版されるべきではない」という空気が強まることの方が心配」とした意見にほぼ賛成する。出版するかどうかの判断は、遺族感情をどう考慮するのかも含めて原則として著者の側にある。そして、それはその内容の意義にはよらない。もちろん遺族側もそれに対して意見を表明することもできるし、裁判に訴えることも正当だろう。ただし、何かしらを慮って出版差止めの圧力を世間からかけるべきではないし、第三者はその点について少なくとも意見表明以上のことを行うべきではないと思う。


    さて問題は内容の方である。出版の経緯の問題に対して、その内容についてマスコミにおいて語られることは少ないように見える。この本に対する不満をひとつ挙げよと言われるならば、医療少年院での経緯がごっそりと抜け落ちていることを躊躇なく挙げることができる。その6年半の内容こそが、現時点においては本質的に重要であると思われるからだ。矯正の経緯を記した『少年A矯正2500日全記録』(未読)といった本もあるが、彼の性的倒錯がどのように矯正された(と判断されるに至った)のかについてこの機会において自らの視点において語られるべきであったと思う。その点は非常に残念なところであるが、その期間の事実があえて書かれなかったことに対して、その理由を深堀りしておくことは可能だろう。

    随所に多用されるどこか場違いで仰々しい比喩や耐えられないほどの装飾的な表現からは、明らかに露骨になった自己愛を読み取ることも可能だ。そういった表現が事件の経過や逮捕後の感情を綴った第一部に多いのに対して、第二部の医療少年院出所後にそういった類の表現が抑えられているのは偶然ではない。そこには、自分はあの「少年A」だという自負が見え隠れしているように見える。それを隠すことに失敗しているといった方が正しいのかもしれない。そのことと医療少年院での内容が書かれていないこととは無関係ではないだろう。その期間の出来事は、彼の自意識にとってはいまだ隠されているべき事柄であるのだ。仮に何らかの守秘義務が課されているとしたとしても、それは彼にとって自らを納得させるに都合のよい事実であっただけだ(守秘義務があるのかどうかもわからない)。本の趣旨から鑑みても、必然性があればそこは触れられるべきことだ。

    取調べやその後の経験は、彼の自己認識や記憶や感情にどのような相互作用を与えているのだろうか。人間において自己の記憶は修正されるものであり、特にこのように心理的な負担が大きな事件については当然その記憶にも大きな力がかかっていると認識するべきである。幸運なことにその葛藤は、本書の中でも読み取ることができる形で表れているようにも思う。

    最後に『絶歌』というタイトルと帯につけられた『生命の手記』とはどのような意味だろうか。これは「歌」と名付けるべきものではないのではないだろうか。要するに、この本は彼もそう言っているように、贖罪のための本でもないし、彼のすべてを告白するための本でもない。であるから遺族から反対があったとしても出版を止める理由にもならない。誰のためでもなく、彼自身のための本である。そこに疑いの余地はない。最後の「道」という断章において、「自分の足跡を遺す」と語っていることからも明らかだ。「被害者のご家族の皆様へ」として最後につけられた文でも、この本を自己救済としている。2人の被害者が、その足跡を遺すことを永遠に絶たれているにも関わらず。そこにおいて批判は可能であるにしても、それを止める権利は自分たちにはないのである。

    ※ 加害者は語りうるか 「絶歌」出版を考える (朝日新聞デジタル)
    http://www.asahi.com/articles/ASH6P7TT0H6PUCLV00D.html

  • たまたま購入ではなく手元にあったので読んでみた。

    買う、買わない、
    読む、読まない、
    印税だ、遺族の気持ちだと言ってると
    論点はズレてくる。
    本の印税を遺族に!と明言したら
    偽善者だなんだと叩かれるのだろうか。

    本の率直な感想は、
    中学二年生の頃が好みそうな言葉を並べた描写と、日々の日記。

    読もうと思ったきっかけは、
    あるレビューでこう紹介されていたから。
    「被害者の手記や加害者の第三者による手記は多いが、
    日本では、加害者は徹底的に隠蔽され、どんな生活を送るか何をしているのかが全く不透明であること。
    それが生の声で聞ける、どんなものかを知ることができる本」

    まさに。
    結果、彼が「超極私的」な理由で殺人を犯すにいたり、
    母親や家庭環境などは大きく影響していないと明記してる点に於いて、親として少し救われた。
    新生児の我が子を抱きながら読み進めること4時間ほどで読了。

    読者が、稚拙だと言い放つのは簡単だが、
    じゃあ自分で描けといわれたら苦しむでしょうね。
    つらつらと長い情景描写は、小説や言葉に憧れた時期に使いたかった単語が並んでいる。
    まだ幼いのかなと感じる部分があった。

    意外なほど手厚く保護され続ける彼が
    つまらないことで捕まりたくないと逃げる姿が
    意外だった。
    もう2度と失敗できない、と刻まれている。
    ただ、怖いのはヤケになったときに
    どうか誰も巻き込まず、どっかお一人で勝手に狂ってほしい。
    世の中のおそろしい理由なき事件全てにそう思う。

    どうか、誰でもいいなら、誰も巻き込まず
    ご自身のみで派手にお亡くなりになってほしい。
    迷惑をかけてくれるな。

    殺人映画でも過去の事件でも手記であっても、
    どんなに発信者が気をつけていても
    受け取り方ひとつで変わってくるのだから、
    規制は難しい。

    この本を読んで、
    こんな生活や思いをしたくない、と留まるか
    こんなレベルならと踏み切ってしまうかは
    誰にも分からない。

  • 善悪を教えられずに育ったために、または貧しさや環境ゆえに、あるいは人間らしい心を持って生まれなかったために罪を犯した子どもたちを、一から教育しなおす矯正教育の素晴らしさと、その限界について考えさせられた。

    「自己陶酔してばかりで、全く反省していない」という批判が多いが、それは少し違う気がする。

    そもそも相手の痛みを思いやる共感性が欠けていたからあんな惨い犯罪ができたのだ。発達障害だろうか、サイコパスだろうか、なんと呼ぶのが正しいかは分からないけれど、彼が心理的に異常であったことは確か。心理的障害を持っていた彼の言動を健常者のモノサシで測るのは違和感がある。


    そんな彼を育て直し、罪悪感や感謝の気持ちを育んだのは少年院などでの矯正教育だ。

    けれども、恐らく矯正教育にも限界がある。少年院にはハタチまでしか居られない。短期間で人間を根本から変えて行くことは難しいだろう。

    特別手厚い教育を受けた元少年Aは、彼なりに人間らしい心を育み、自身の成長や罪の意識を形にしようとしたのだと思う。しかしこうして匿名のまま遺族の了承を得ずに出版することで、世間がどのような反応をするか、それを想像するために必要だった何かが、まだ欠けていた。
    あくまでも憶測の域を出ないけれど、私はそんな風に感じた。

    たくさんの批判や社会的文脈を脇において、単なる読み物として捉えると、また違った感想を持つ。決してつまらない文章じゃない。ただ全体的に、実年齢より幼い印象を受けた。20歳くらいの、イビツな文才を持った文学青年の作、というイメージ。

    今回の出版について、ご遺族の心情を思うと買ってしまったことがうしろめたい。でも個人的に関わりのある分野であるし、中身を見ないでいろいろと言いたくなかった。

  • うーん
    この本の出版にしても、元少年Aにとっては『ゴビョーキ』な
    ポーズでしか無いんでしょうか
    真意が見えてこず、只管困惑の内容でした
    何が真意で何が善意・悪意・虚偽なんでしょうか

    朝の報道番組の女性コメンテーターが、
    「ナルシシズムの塊のような』
    と内容・出版を揶揄してた

    確かに、自分の言葉に、センテンスに、酔いしれてる感じは
    否めないなあ、と思うところが多々あったかも
    引用の多さ、そもそも引用しているジャンル・作家・部分が、
    『如何にも、』というような

    倒錯している部分は、矯正されることは無いんでしょう
    この状況に、自分の歴史に、そもそも誕生に、結果行いに、
    全てが彼にとっては単なるポーズであって、居丈高な印象を
    受けるのは何でだろう
    ドラマチック、ストーリー仕立て…小説家気取り、
    或いはフィクション化したいのでしょうか

    自分の運命や行い、結果や現在を悔やんでいる・苦悩を綴って
    いるというよりかは、まるで
    「風化した事件の当事者が語る』
    といった印象も

    佐川や市橋の時とは違う、というか…
    事件が風化することはどんな事件においても無いと思うけど、
    とにかく前述の二人の本の出版とはまるで違う何かを感じた
    そもそも、事件数年後とかに被害者家族・遺族へ向けて謝罪の
    手紙を送っていたことについては当時も報道で知っていたけれど、
    あれも結局、元少年Aの「ポーズ」であったということよね
    それなら、淳君のお父さんが感じていたこと・メディアに
    向けて出した心情や言葉は一体何だったのか
    元少年Aは一体何を考えてどんな気持ちで誂えたのか

    終盤、謝罪の言葉を連ねて、
    ”精神的にきつかったこと、壊れかけたこと”
    に触れていたけれど、何故、当然の報いを書くんだろう
    謝罪で
    終わってはいるけれど、自己憐憫・陶酔・心驕・虚栄心、
    そんなのばかりがひしひしと伝わってくる

    ここまでの言葉・文章を書ける博識さ
    (露呈させたいだけの感じもするけど)、
    を感じたのに、謝罪の言葉が、「申し訳ありませんでした」、
    であることにも、個人的には甚だ疑問

    「申し訳ございませんでした」
    じゃ無いの?わざとなの?

    そしてまたまた下らないことかもしれないけれど、
    もっと言うなら、
    これに関してはまだまだ終わっていないことなんだから
    「申し訳ございません」
    じゃ、ないの?

    長くなったけどまた時間おいて読んでみよ
    元少年Aの今後が、気になる

    …そういえば報道の街頭インタビューでこの本の出版について、
    どう思うか一般人に聞いてたけどその中の一人の主婦が、
    「読みたくない、罪を償ってほしい!」
    と言っていた
    この場合、一体何をもってすれば償い?
    その主婦の言うところの償いは、【死刑】か何かの具体的な
    法的な、処罰のことでしょうか

    見ながらぼんやりと考えてしまった
    少年法については見解が分かれるし難しいですね、
    犯罪の加害者はどんどん低年齢化してるし【正解】
    とやらが無いんだもんね

    どうしたって、
    犯罪自体は無くならないのがこの世の中だと思う

    事後のことだもん、処罰だの何だのって

  • まだ読み途中だが、猫の場面の表現がエグい。これ以上読み進められないかも。 
    読み終えた。簡単に感想を書いてはいけない気がする。
    もう少し調べてからまた考えてみようと思う。

  • 何と書いたらよいのか。
    あれだけの事件を起こしておいて「本当に申し訳ありませんでした」。
    言葉を失ったし、ああ、こいつは心底自分の事しか頭にないのだな、人を殺してはいけないのも「自分が苦しむ事になるから」。
    そう言ったことに事件を起こす前にどうして気づけなかったのか。
    この男は全く反省していないし、根っからの厨二病である。数多の言葉を、文学作品を引用して並べ立てようとしてもそれは変わらない。

  • 星で評価するような本では無いので、星がないのは悪しからず。これがフィクションだったらどれほど良いだろうと言う考えを読んでいる途中に何度も反芻することになる。
    読み終わったあと、クソデカため息でる。
    勘弁してくれという表現が多数。
    更生してるかという問はこの本だけじゃ分からないけど、これを出版してからの著者の言動を見るとはらわた煮えくり返るところがある。
    これだけを読むと考えが偏るので、被害者遺族が出されている手記も一緒に読むことをおすすめします。
    自分が産まれる前の事件だからどこか現実味がなくて、フィクションのように感じていたけど、それでもキツかった。読んでいて頭が痛くなる。
    だから、遺族がこの本を無断出版され初めて読んだ時の気持ちを考えると居た堪れない。
    被害者、被害者遺族には謹んで哀悼の意を捧げます。

  • 文章は思っていたよりも読みやすく、一晩で読み終えてしまった一冊。
    加害被害のどちらでも無い自分はあくまでも フィンクションの様なノンフィクションを咀嚼するイチ読者でしかないと改めて感じた。
    高尚な学びが得られるわけでもないが、悪影響と呼ぶほどの影響力も無いとも思う。
    越えられない境界線が筆者と自分にはあるが、その境界線自体が酷く曖昧にも見えて、いつ誰がどんなタイミングでそこを越えるのかも分からないからこそ この本に面白さを覚えるような気がする。
    一度は読んでみても損は無いと思う内容。

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