侍女の物語 [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 勧められたので読んだ。カズオイシグロの臓器のために生きている人の話を思い出した。子どもを産むために生きている侍女。ある日クーデターが起きて、女性の仕事も給与口座も取り上げられて、パートナーや近親者の所有物になる社会。でも、誰もこの社会を変えることができずに終わったのだ。後味は悪い。

  • どんなに小難しくて、恐ろしいか、となかなか読みはじめられなかったのだけれど、読みはじめてみれば思っていたほど小難しくもなく、SFみたいで(って近未来設定だからSFなんだけど)すごく引き込まれておもしろく読んだ。
    読んでいくうちに、なにがあったのか、どういう世界になっているのかという設定が少しずつわかってくるのはミステリみたいで。
    でも、恐ろしくて、読みながらほんとに気持ちが沈んだのは確か。自由のない、閉塞感がすごかった。

    ある日突然、財産も仕事も奪われて、一時的な政策と思っていると、どんどん世界がおかしくなっていって、っていうのがすごくリアルで、いますぐにでも起きそうな気がして本当に恐ろしかった。
    一方で、どんなに虐げられても地下組織のようなものはでき、正しいほうへ戻ろうとするのかもしれない、と一縷の希望をもつような気がしたり。

    ほかにも、男女差別とか女性の権利とか恋愛とか家族とか、物質社会とか、もうさまざまなことが描かれていて、考えだすと本当にいろいろ考えさせられる。。。

    主人公やその友人たちの行動がちょっと冒険小説っぽくも読めたりもした。勇気ある少女が未知の世界で冒険するっていう少女小説のような雰囲気も感じたり。

    まったく古い感じもしないし、とにかく、やっぱり読んでよかった、と思った。

  • 暗い…。辛かった。

  • 10年ぶりの再読。そして本当にあらすじしか覚えていなかったので、前回と同じようにこわごわ読んだ。そして今回は実に予言的な小説だなと思った、というのもこの10年で、権力者がそうしたいと思えば、いくらでも社会を後退させることができるのだと知ってしまったから。突然の職場追放や預金封鎖だって、実際にやろうと思えばできるのだ。

    今回印象に残ったこと。

    - 語り手が保護者ぶった態度をとったパートナーに対して感じる苛立ち、そしてその苛立ちを伝えずに飲み込んでしまうシーン。あれはほんとうにあるあるだと思うのだけれど、主たる生計維持者の立場にある読者はあの流れをどのようにくみ取るのだろうか。

    - 最終章の歴史学者の語り。前回読んだときは「あ、あの体制はずっと続いたわけじゃないんだ」と安堵したのだけれど、今回は「こんな“物語”を深く読み込む立場にあって、よくもまあ冷静に好奇心を持って研究できること!」とむかっ腹を立ててしまった。でも時間をおかなくても、同時代のほかの国の人たちにはそういうものだったろうし、今の自分だってほかの国の人に対してエンパシーがあるかといわれたらそうじゃない。この避けられないしんどさはどうやって解消したらいいのだろう。

    2回目も読みやめられない面白さだったわけだけれども、語り手がずっとぶつぶつ言っているのが退屈だったりどうでもよかったりする人もいるんだろうな、ということにも気が付いた。立場の違う人たちみんなで安心して生きることの困難を思う。

  • ディストピアものが苦手なせいもあって、何か月もかけてだらだらと、でもやはりやめられずに読んだ。
    なので、こまかいところまでは読み切れていないけど、議会への襲撃とテロをきっかけに、あれよあれよと独裁政権が誕生してしまうあたりは、あまりにリアルで、ありそうでこわかった。

    というか、アメリカにおける宗教右派の異常な執念や、日本での、女性をただ出生率をあげるための生き物と捉えているかのような政治家の言動など、部分的にはすでに現実になっている部分も多いのでは。

    最後の歴史学会がちょっと意外で。なんのためにつけ加えられた章なんだろう。少しほっとするとともに、謎を感じた。

  • 女性目線のディストピア小説はなかなか見ないので手に取った作品。
    主人公から見て、心の底から気を許せる人物が出てこない絶望感。一見優しくしてくる司令官も、全く主人公に対等に接することはなく、どこか見下すような接し方に気持ち悪さがあるし、とりあえず状況に救いがない。ラストも、その後主人公を取り巻く環境が良くなるのか悪くなるのか読者の判断に委ねられるような形だけれど、主人公に救いがあることを願ってやまない。
    主人公が度々元夫のルークとの思い出を回想するシーンがあるが、もし自身にこのような悲劇が降りかかったとしたら、と考えるだけで胸が締め付けられるような思いがした。そのルークとの関係も、よくよく読んでみると対等ではない描写もあるけれど。現代のフェミニズム問題を先取りした作品でもあると感じた。

  • ずっと気になっていた本、おもうところあり読む。およそ560ページの長編だが、易しい語りにより読むことそのものは難しくなかった。だが、読むことにより生じる恐怖や痛みを受けとること自体は厄介であった。歴史は繰り返すと言う。優れた書物はいつ読んでも真価を損なわない。どのように女性の肉体を公共の財産とするのか。どのように高学歴の人間が社会を支配するのか。学のない人間こそ、いつでも恐怖を抱いている。原題は『The Handmaid's Tale』。Handmaidと検索してみたら、なんと“奴隷”の意味を含んでいた。

  • じわじわ効いてくる毒のような小説だった。語り口が穏やかなのも相まって、読み始めのころはあまり悲壮感は抱かない。異常な状況の国ではあるが、よくあるディストピア系小説の世界観だな、という印象だった。
    その印象は小説全体の語りのせいでもあるだろう。どこかたどたどしいとも言える、とても平易な話し言葉による一人称小説。事実この作品の全ては主人公であるオブフレッドという女性の主観で語られる。さながら彼女の脳内をそのまま写し取ったがごとく、平坦な女の一人語りが続くのだ。彼女の口を通して語られるこの世界は、語り口の平凡さと相まって、どこか陳腐で間延びした印象を受ける。作中後半になればなるほどこの国の異常さ、苛烈さ、絶望感と閉塞感が浮き彫りになっていくのだが、この語り口自体がクッションになってしまい、イマイチ現実の危機感がこちらに伝わってこない。
    だが、私はこの口調こそがこの小説最大の特色にして特筆すべき点であると考える。この小説はこの平凡な口調で語られなければならないし、だからこそこの小説は世代を超えて読み継がれるべき名作になったと思うのだ。

    最初、私はこの小説を長くて冗長だと思っていた。脱線と回想が多く、整った作劇上の構成や劇的な場面もなく、ただただ一人の女の独白がずっと続く。その人がその場でしゃべっているのを聞いているような、脚本も下書きもないただの問わず語りを聞かされているような、そんな気持ちになっていた。
    実際この小説は女の一人語りを文字に起こしたものだと終盤に判明する。だからこれだけ冗長だったのかと理解はすれど、これを「小説」という形式で発表する意味はあるのか、曲がりなりにも「小説」ならばもう少し体裁を整えるべきだったのではという印象も依然として残った。

    だが第十四章の「救済の儀」の書き出しで完全にその印象は変わってしまった。この小説はこの形式で、この冗長さで無ければならない、むしろだからこそ意味を持つと思えたのだ。

    「私は聞いて欲しいのだ。ここまで聞いてくれたあなたに」

    これまでずっと、この小説は一人語りだった。オブフレッドが1人で語って、オブフレッドが1人で回想し、オブフレッドだけがこの小説の世界にいる。他の登場人物も背景の景色も全てオブフレッドの語りの中だけに存在している。彼女はたった独りだ。
    だけどこの章の書き出しで、唐突に彼女は他の人間をその場に出現させた。読者だ。彼女は読者にこう語り掛けるー「あなたに聞いて欲しい」と。
    読者はここで思い知ってしまう。彼女がここまで切々と、まとまりの無い言葉で、冗長な問わず語りで、それでも喋り続けてきたのは何のためか。私のためだ。読者たる私に聞かせるために、オブフレッドは必死に喋り続けてきたのである。
    そしてオブフレッドはさらに「こんな長い話に付き合ってくれたあなたのために最後まで語りたい」というのだ。うまく喋れなくても、簡潔に要点を整理できなくても、不格好な構成でも、なんとか喋るから、と。

    そして、その後語られるのは彼女の「正しくなさ」だ。
    オブフレッドは正しくない。それはギレアデという国にとっても正しくないし、現実を生きる今の私たちから見ても正しい行いをしているわけではない。
    オブフレッドは見て見ぬふりをする。自分の目の前で捕まった人を見て「私じゃなくてよかった」と思う。共に国への叛意を確かめ合ったオブグレンが秘密組織への関与の疑いで摘発されかけ、直前で首を吊ったと聞いて「自分の叛意が漏れることは無い」と安心する。かつての友人であるモイラが政府高官の売春婦の地位に安住し、フェミニズム思想や反骨精神を捨ててしまったー棄てさせられてしまったことに身勝手にも落胆する。「ニックはルークの代わりにならない」とあれほど言っていたにも関わらず、彼との逢瀬に溺れ、現状から離れる意思も失い、「もうこれだけでいい」と時間を浪費する。

    だが、誰が彼女を責められるだろう?自由と尊厳、何より生命の安全を剥奪されたこの極限の状況の中で、誰が正気を保てるだろう。「産む器」としての機能のみを求められ、その機能を失えば直ちに人間以下の扱いを受けることが決まっている状況で。
    いや、既に人間扱いはされていない。子を孕む子宮に歩く手足が着いている、侍女はそういう扱いを受ける地位だ。
    自由意志も個人の尊厳も許されず、ただ子宮のために健康を義務化され、生存を許可される存在。自分の意思も感情も何もかもが無価値として切り捨てられ、なかったことにされた存在。この状況で、一体誰が高潔に、正しく、公正にあれるというのだろう。

    途中のオブフレッドからの語りを受け、この小説の冗長さ、纏まらなさの意味を知り、そしてオブフレッドの懺悔とも言える「正しくなさ」を目にする。読み手はここで一気にオブフレッドに接近してしまう。
    彼女の苦しみ、悲嘆、嘆き、無力感、やるせなさ、甘さ、弱さ、過ち、欠点、犯した罪、それら全てを前に出されて、どうして彼女を一方的に責められるというのか。
    「せめてあなたには聞いて欲しい」「この長い話に付き合ってくれたあなたに」というオブフレッドの独白で、必死に言葉を紡ぐオブフレッドの姿が勝手に浮かぶようになってしまう。

    もし自分が彼女の立場だったら。そう思えばこそ、彼女に同情せずには居られない。そして彼女の感じた苦しみに多少なり共感する部分のある人達は、余計に彼女に共感の意を寄せざるを得ないだろう。
    なんて恐ろしい小説なんだ、と私はここで驚嘆してしまった。ほんの少しの言葉だけ、章の中の短い節の言葉だけで、全ての印象を一変させてしまう。マーガレット・アトウッドの技量に恐れを抱くしかない。

    だが、この作者の何より恐ろしいところは一番最後の章にあると思う。正確にはそれは小説の中の一つの章ではない。小説の一部で、欠くべからざる部分であるのは確かだが、これまでの『侍女の物語』とは全く違う性質を持った一節だ。

    『歴史的背景に関する注釈』と名付けられたその節では、これまで記述されてきた『侍女の物語』の正体が語られる。それはギレアデという国に関して残された一つの歴史的史料である。
    とある女が語った自身の半生、ギレアデの支配下で起こったことを収録したテープ群であり、ギレアデ崩壊から150年以上経った現在(この『注釈』の節が書かれた時点での現在)では、その信憑性も含めて研究対象になっているのだ。ギレアデという宗教的独裁国家の貴重な内部資料として。

    そう、この物語は『ただの女』の記録でしかない。どこにでもいるありふれた女の悲劇であり、特筆すべき不幸な歴史的事実ではない。
    過ぎた年月の前に簡単に『記録』に還元されるような、なんなら彼女の境遇をめぐってやや下世話なジョークが交わされ笑いを誘うような、その程度の扱いができる『単なる事実』でしかないのだ。この節を迎えた私はそんな事実を突きつけられた気持ちになった。

    読者はここで唐突に突き放されてしまう。あれほど自分の身近に迫り、親密な関係になれたと思った彼女のことを、自分に必死で語り掛けてくれたあの子のことを、単なる歴史上の路傍の石として消費する人たちのことを目の当たりにしてしまう。

    彼女の苦しみや命のことは、歴史という大河の中では小さな小石に過ぎない。まして彼女の『女としての苦しみ』なんて、『よくあること』でしかなかった。この節の中でピークソート教授ーギレアデの著名な研究者は語る。『ギレアデには真に独創的なものや固有のものはほとんどありません』
    彼女の苦しみも悲しみも不幸もなにもかも、取り立てて嘆くべき特別な悲劇ではありはしないというのだ。

    でもだからこそ、この小説は力を持つのだと思う。
    この小説で描かれた彼女の苦しみは、全ての女に通ずる苦しみだ。
    子宮を持ち、生殖の機能を得た瞬間から、そして歴史的に形成された価値観から、女が受忍するーさせられる苦しみ。産む器として見られること。力の弱い存在として行動を制限されること。『ありふれた』『ただの女』の悲劇は、だからこそそこら中に転がっている。
    性別が女であるというだけで誰もが『オブフレッド』になりうるし、その要素を持っていてもおかしくはない。ディストピア小説とジャンルは着いているけれど、これは『ありふれたどこにでもいる女たちの現実』でもある。『悲劇とすら認識されない、よくある女の一生』でもある。そう思わせるほどにリアルに接近した力を持っている。

    念のためだが、この小説を読んで『私はオブフレッドではない』『すべての女というが、私はこのような苦しみを受けたことはない』「勝手に一緒のグループにくくらないで欲しい」と感じたのなら、それはそれで真実だと思う。特に1番最後の意見に対しては本当に尤もなことだと思うし勝手に訳知りヅラで近寄ってしまって申し訳ないと思う。大きな主語を使ってしまったが、当然『オブフレッドではない』女性たちもいるだろう。そういう世界の方がずっといいし、そういう世界であってほしいと願わずにはいられない小説だった。

  • 面白かった。読む手が止まらず一気読み。ディストピア小説を読んでいて現実を見つけることがあるのはいつものことだけど、いつもよりもリアルを感じる部分が多くて恐ろしかった。読んでて現実でよくあるじゃんと思う瞬間があり、気づいてゾッとした。印象的だったのは「選択に対する責任」。選択肢は少なく、2つしかないとかのレベルなのに選択できたことを喜ぶ世界で、与えられた数少ない選択肢の中から選択したら全ての責任はこちらにあるという。全てが管理されているよりも自ら選択した自負があると管理されることに能動的になってしまう感じ
    選択肢から好きなものを選んでいる自由意志があるようでいて、実は選ばされているというのは現実社会でも当たり前にあることで、改めてその視点に気付かされた。 他にも、こいつよりはマシって感情を引き起こす特権意識で誰も連帯できないところや、その中で生まれる同情や友情めいた感情と、それがすぐさま消え失せる感覚が生々しかった。 あとコロニーの恐ろしさ。想像してゾッとする。マジでそれ以外なら全部マシと思える。
    「え!?ここで終わり!?」ってなったあとの「歴史的背景に関する注釈」も良かった。新鮮。主人公の日記で語られるディストピアは「われら」「1984」の系譜だが日記を後に発見し歴史として解釈するってのが面白い。主人公からの一貫した視点だけはなく百年以上経った後俯瞰で語られると冷静に反芻できて思考を煽られる。

  • ひでー話だ

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著者プロフィール

マーガレット・アトウッド(Margaret Atwood):1939年カナダ生まれ、トロント大学卒業。66年にデビュー作『サークル・ゲーム』(詩集)でカナダ総督文学賞受賞ののち、69年に『食べられる女』(小説)を発表。87年に『侍女の物語』でアーサー・C・クラーク賞及び再度カナダ総督文学賞、96年に『またの名をグレイス』でギラー賞、2000年に『昏き目の暗殺者』でブッカー賞及びハメット賞、19年に『誓願』で再度ブッカー賞を受賞。ほか著作・受賞歴多数。

「2022年 『青ひげの卵』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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