ガリレオの生涯 (光文社古典新訳文庫) [Kindle]

  • 光文社
4.20
  • (1)
  • (4)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 33
感想 : 4
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (346ページ)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  ブレヒトは、若い頃に『三文オペラ』の演劇を見て、感激したことを覚えている。何とも言えぬ皮肉に満ちた劇だった。ブレヒトは、ドイツ生まれ。二番目の妻がユダヤ人。1898年2月10日 - 1956年8月14日。ナチスのユダヤ疑惑の中で焚書されている。1933年に亡命。『ガリレオの生涯』は、亡命中に書かれている。晩年1955年スターリン平和賞を受賞しているのが、個人的には気に食わない。
     この『ガリレオの生涯』は、1938年に書かれ、1943年にチューリッヒで初演された。そして、第2次世界大戦の終末に原爆が使われたことで衝撃を受け、書き直したと言われる。ガリレオの生涯は、宗教と科学の対立を描いているが、科学の進展によって、原爆を作ったことに対する大きな科学への反省も含まれることになった。物語は、1609年ガリレオは、「太陽ではなく、地球が動いている」ことを見つけた。ガリレオがヴェネツィアで教職についているが、牛乳代も払えない状況から始まる。天球儀の説明している。古い時代が終わって、新しい時代が始まる。何千もの間「信仰」が鎮座していたところを、今や「疑い」が占拠している。今までは、星はみんな落っこちないように、透明な天の殻に支えられていた。大学の数学の教師をしているが、個人教師もして食い繋ぐ。また、ヴェネツィアのパドヴァ大学の事務局長に給料を上げてくれと要望する。事務局長は、数学は食えない芸術のようなもの。哲学に必要でもなく、神学のように有益でもないと言って、給与の値上げを認めない。個人教授のようなお金のために働いて、研究したり、本が自由に買えない、自由な時間がなければ、成果も出せないとガリレオはいう。ガリレオの置かれている状況が明らかになる。
     コペルニクスの学説は、仮説であり、それを確実に裏付ける科学がいると主張する。月は自分で光を放っているのではない。」1610年、ガリレオは望遠鏡で、コペルニクスの宇宙体系を証明する現象を発見。そして、ガリレオは天国の不在を知った。そして、4つ目の木星の衛星が、木星の裏側に回ったことを発見。その星をメディチ星と名づけ、ガリレオはヴェネツィアから生まれ故郷のトスカナ大公国のフィレンチェの宮廷に行く。ピサ大学の特別数学教授とトスカナ大公の主席哲学者となった、
     その頃、フィレンツェではペストが流行っていた。それでも研究を続けるガリレオ。
    1616年、ヴァチカン教皇庁のローマ学院のグラヴィラウス神父がガリレオの発見を確認した。しかし、異端審問所では、コペルニクスの理論の書を禁書目録に載せた。教皇庁は、太陽は不動の世界の中心であり、地球は動いていて世界の中心ではないとするコペルニクスの学説は、理論において曖昧、不条理、信仰において異端でると決定した。よって、ガリレオの言っていることは、放棄するように言われる。ガリレオの研究は許可するが、地動説は発言するなとされた。8年の沈黙ののち、太陽黒点の研究を始める。ガリレオは「心理を知らぬものは馬鹿だが、真理を知りながらそれを嘘だという者は犯罪者だ」という。「科学の目的は無限の英知の扉を開くことではなく、無限の誤謬にひとつづつ終止符を打っていくことだ」という。
     1633年にガリレオ裁判を行う。ガリレオは異端審問所で自らの地動説を撤回した。ガリレオは「それでも地球はまわっている」と言った。弟子たちは、「英雄のいない国は不幸だ」という。ガリレオは「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なのだ」という。ガリレオは、1633年から1642年の死ぬまで教会の囚人として捕えられていた。ガリレオはその中で『新科学対話』の本を書き、それがイタリアの国境を超えて渡るところで、物語は終わる。
     その書物が、地動説を裏付ける重要な文書であり、ガリレオが死してのちに、ヨーロッパで認められることになる。ブレヒトは、新しい時代のとば口に立っていることを伝える。それは戦争が終わり、新しい時代がやってくるには、科学の力が必要だと伝える。一方で、ヒロシマ、ナガサキに原爆が使用されたことで、あらためて知の責任を直感し、ガリレオ像を検討し直す。「新時代の粉飾なしの実像」を明らかにする。世界を変える意志を持ったガリレオに共感し、ブレヒトは新しい世界をつくる事の意味を問う。

  • うーむ
    これを戯曲にしてどれほどの意味があるのだろうか
    時代か

  • 創造主がいて、人間が宇宙の中心で、生存の辛さには意味がある。
    そう信じることが人間の生存の辛さを軽くする。
    自分の力ではどうしようもない辛いことを、意義深いこと、
    良きことと考えられることが救いになる。

    むしろ古きことを証明してやるのだという厳しい決意。
    それでも失敗して、失意を抱く時、人間には正しい知見がもたらされる。
    正しい知見は人間(という種)の生存を有利にし、生存の辛さを軽くする。

    いずれも、人間の生存の辛さを軽くしてくれる。
    ただし、これらが支配者(権力者)に私有されない場合に限る。

    前者は不変な静的世界、すなわち豊かさも不変かつ限られ世界になる。
    すると、豊かさ得ることは偏に配分の問題になる。ゼロサムである。
    よって、誰かの豊かさを増やすことは、他者の取り分を減らすことに等しい。
    神が支配者の道具にされると、被支配者の苦難が正当化され、豊かさの収奪が正当化されてしまう。

    後者は可変な動的世界、すなわち新たな豊かさ見出すことができる。
    すると、ゼロサムではないので、絶対的に全員の豊かさを増やすことができる。
    しかし、科学者という蛇口を支配者に押さえられてしまうと、
    絶対的な豊かさの増加が支配者にしかもたらされない。

    科学と宗教の対立?
    「人間の生存の辛さを軽くする」という点において、
    むしろ「相補」関係の戦友ではなかろうか。

    「科学と権力」「宗教と権力」という組合せがこそ「混ぜるな危険」の「核爆弾」であるようだ。




    「ガリレオの生涯」は、ブレヒトがガリレオをネタに「科学と権力」の問題をえがいた戯曲。
    セリフがいちいちカッコいいのだ!!




    聞けば、ガリレオとやらが、人間を宇宙の中心から
    どこぞのすみっこに追っ払ったそうじゃが。
    とすれば、彼はあきらかに人類の敵じゃ。
    そういうものとして、扱わなきゃならん。
    人間が万物の霊長、神の最高最愛の被造物であることは、子供でも知っておる。
    それほどの傑作、それほどの努力の結晶を、神が、遠くのちっぽけな、
    どんどん遠ざかっていく星に住まわせたりなどなさいますかな。
    神のお子をどこか遠くに追いやるのか。
    計算表の奴隷となった連中を信用するなどというおかしな人間がいようはずもない。
    神の被造物たるもの、こんなことに平気でいられましょうか。

    あなたは、ご自分が住み、その恩恵を受けているこの大地を、おとしめようとしておる。
    自分の住処を汚しておる!
    だからすくなくともこの私は、黙認なんぞしませんぞ。
    私はいっとき、どこぞを回転する、どこぞの星のなんかの生物なんぞじゃない。
    確固とした大地を確固とした足取りで歩いておる。
    その大地は、万物の中心として静止し、私はその真ん中に居て、
    創造主のまなざしはこの私に、私だけに注がれておるのじゃ。

    すべては、人間であるこの私に関わっておる。
    神の努力の結晶、中心に居る被造物、神の似姿、けっして移ろわず、そして......。

    この世でのこの哀れな役割以外の役を、考えてくださるお方は、もういないのか?
    我々の悲惨には何の意味もなく、飢えは試練ではなく、
    ただ何も食べなかったというだけのことなのか?
    身を屈めたり、足を引きずる苦労も神に愛でられる功績ではないということなのかと?
    もう分かって頂けたでしょうか、私が教皇庁の決定から読み取ったのは、
    まさに母のような高貴な慈悲、偉大なる慈愛の心だったのです。

    神様が望まれたのは、これ以降は永遠に、すべてが自分より立派なものの周りを廻ること。
    そこで回り始めたのさ、けちなものは立派なものの周りを。

    太陽に向かってのたもうた、
    「止まれ!これからはクレティオ・デイ(神の被造物)は逆に回るのだ
    これからはご主人の大地が、下女の太陽の周りを回るんだ」

    北イタリアの港湾都市では自分たちの船のために、
    ますますガリレオの星図を必要とするようになっている。
    そのうち我々も譲歩せざるをえなくなるでしょう、物質的な利害なのですから。

    しかし、その星図は彼の異端的な主張に基づいている。
    彼の学説を否定したら、決して起こることのないある種の星の運行を想定しているのだから。
    学説は断罪しながら、星図は採用する、というわけにはいかないのではないか。




    古きものは言う、昔からそうだから今もそうだよ。
    新しきもものは言う、よくないものなら消えてもらおう。




    美徳というのは、貧困と結びついているわけではないのです。

    科学が貧困である最大の理由は、たいていは思い込みが充満しているからだ。
    科学の目的は無限の英知の扉を開くことではなく、
    無限の誤謬にひとつずつ終止符を打っていくことだ。

    地球の静止を証明するという厳しい決意をもって、太陽観察に取りかかることだ!
    それに失敗して初めて、完璧に打ちのめされたときに初めて、
    自分の傷をなめながら、悲しい気持ちで、
    やっぱり地球は廻っているんじゃないか、と疑い始めるんだ。

    船に乗った時に、こう叫んだことがあるんですよ、
    「岸が遠ざかっていく」と。
    今の私なら知っております、岸が動いたのではなく、船が遠ざかっていったのだ、と。

    三角形の内角の総和は、教皇庁の要求があっても、変更はできません。
    天体の運行を、箒の柄にまたがる魔女の飛行のように計算するわけにはいかないのです。

    たしかに、売るときは驢馬を馬だと言い、
    買う時は馬を驢馬だという、それが人間の狡猾さだろう。
    だけど、雨が降りそうだと思ったら、帽子をかぶる子供、
    そういう人間のいることが、僕の希望だ。
    ちゃんと根拠を大事にする人たちだ。
    そう、僕は、理性が人間に与えるおだやかな力というものを信じている。
    人間はいつかそれに抵抗できなくなる。
    僕がこうやって、石を落として、しかも石は落ちないと言ったら、
    そのうち誰も黙って見てはいられなくなるだろう。
    そんなことは、人間には不可能なんだ。
    証明のもつ誘惑の力は、あまりに大きい。
    たいていは、ときがたつと全員がその力に負ける。
    考えることは、人間という種族がもつ最大の楽しみのひとつなんだよ。

    僕は人間を、つまり人間の理性を信じていいるんだ!
    その信念がなかったら、朝、ベッドから起き上がる力もなくなるほどに。




    ガリレオさん、あなたの勝利です。

    そうじゃない!
    勝ったのは私ではなく、理性(つまり人間)ですよ!

    私は思うんだ、科学の唯一の目的は、人間の生存の辛さを軽くすることにある、と。

    ---
    Kindle Unlimitedお試し
    7日目 & 7冊目
    ---

  • 戯曲。非常に面白い。
    ガリレオガリレイが天動説を証明しようとする。
    ユーモラスでダイナミック。
    「ものごとを疑いを持って見ること、自分自身の目で見ること」を訴えかけてくる。
    印象的だったのは以下の部分。
    「真理を知らぬ者は馬鹿だが、真理を知りながらそれを噓だと言う者は犯罪者だ」
    「君たちは、何のために研究するんだい? 私は思うんだ、科学の唯一の目的は、人間の生存の辛さを軽くすることにある、と」
    真理は追究されるためにある。そして見つけられた真理は共有されねばならない。科学は人間の発展のためにあるものであり、科学そのものの発展のためにあるのではない。
    まるで一本の映画を観ているような作品だった。

全4件中 1 - 4件を表示

ブレヒトの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×