「利他」とは何か (集英社新書) [Kindle]

制作 : 伊藤亜紗 
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感想・レビュー・書評

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  • 「利他とは何か」読了。

    「利他」という言葉が気になって、関連の書籍を少しずつ読んでいるのだけれど、少し前に読んだ「思いがけず利他」で少し形が見えてきて、「利他とは何か」でさらに少し解像度を上げることができた気がします。

    とはいえ、難しい…。

    「思いがけず利他」では、「利他」は発信したときではなく、相手に受信された時に発生する、という気づきと、「利他」は意図して行なった行為ではなく、「他力」によって自動的に(思いがけず)行なってしまう行為なのだ、という気づきを得ました。

    そして、今回の「利他とは何か」では、「利他」は能動的ではなく、むしろ受動的であり、「うつわ」として受け入れることなのだ、的な気づきを得られた気がします。

    とはいえ、難しい…。


    伊藤亜紗さん(美学者)、中島岳志さん(政治学者)、若松英輔さん(随筆家)、國分功一郎さん(哲学者)、磯崎憲一郎さん(小説家)の5人がそれぞれの「利他論」を書いた5つの章と、伊藤亜沙さん、中島岳志さんの総論(はじめに、おわりに)の7章。
    各章、違う角度からの考察がされていて、形のない「利他」の、ほんのりとした輪郭を感じ取らせてもらった気がします。

    中動態について書かれていた國分功一郎さんの章で、古代には「意志」という概念がなかったということが書かれていて衝撃を受けまました。

    まだふんわりとした認識しかできてないのですが、例えばある人が犯罪行為を行ったとして、それはその人の「意志」ではなく、過去からの連続した因果関係の続きで行なってしまった、と考える、と。そうなると、全ての出来事が過去からの連続で起きたことになり、神が無から世界を作ったキリスト教の考え方にはそぐわないので「意志」という概念を導入した、とか。

    「意志」という概念が存在していない世界って…。

    「利他」という言葉1つから、現代を生きる私たちに「あたりまえ」の考え方を根底から覆すような気づきの連続を得ることができました。

    ここから先は、「利他プロジェクト」のコンテンツにダイブするしか行き先はないかも…。理解したいけど理解できなさそうな気がするけど、小さな気づきを積み重ねたら、私にも少しは理解できるのかも…。

    新しい気づきをたくさんもらえた本でした。難しいけど、幅広い方々におすすめです。

    はじめにーコロナと利他(伊藤亜紗)
    第1章:「うつわ」的利他ーケアの現場から(伊藤亜紗)
    第2章:利他はどこからやってくるのか(中島岳志)
    第3章:美と奉仕と利他(若松英輔)
    第4章:中動態から考える利他ー責任と帰責性(國分功一郎) 
    第5章:作家、作品に先行する、小説の歴史(磯崎憲一郎)
    おわりにー利他が宿る構造(中島岳志)

  • 一番おもしろかったのは、國分功一郎さんの「中動態から考える利他」
    能動と受動の対立ではなく、また中動もその真ん中にあるのではないという思いもよらない考え方に一気に引き込まれ、後半の「責任と帰責性」の話には納得がいくと共に強い共感を覚えた。
    哲学者ではあるけれど、スムーズな流れと整理された文章は理数系の頭の良さを感じる。

    伊藤亜沙さんの「うつわ的利他」には反省させられた。
    思い込みはどんなところにも潜んでいるのだなと。
    利他のうつわのイメージが分かりやすく、新たな視点を持つことができた。

    中島岳志さんの「利他はどこからやってくるのか」では、ありがとうと言われたときの何かモヤモヤとした気持ち、その正体に気付かせてもらえた。

    若松英輔さんの「美と奉仕と利他」では、民藝についての記述に興味をひかれた。

  • 素晴らしいとしか言いようがない

    特に若松英輔氏の民藝家『柳宗悦』論は卓越

    中島岳志氏の論はまったくもって
    わたしに合っていて
    シンパシー以外何もない

    国分功一郎氏の『中動態』は読んでいて興奮した

    責任と帰責性の語りはおしっこちびりそうでした。

    うすうす気がついていたけれど
    利他と宗教(霊性)はほぼ重なっていると思っていたけれど
    この著書でそれがあらゆる角度から論じられていて
    はっきりそうだと思いました。

    哲学哲学っていうけど
    哲学って言語のことじゃん
    ってマジ思った。

    最後の磯崎憲一郎氏の論は途中まで。少し休憩。小島信夫の正体がここで明かされるという
    何とも興奮する内容

    この本は☆5個じゃ足りません。

    あとハンナアーレントの論が完璧であるがゆえに
    明け透けに裏側が見えてしまうということにも
    興奮した

    それと
    30年間
    ずっと「しまった!」
    と思ったことを発見

    矢作俊彦氏と井筒俊彦氏を同一人物だと
    思い込んでいた

    ここで紹介されているのは
    後者の井筒俊彦氏の
    『言葉を超えるコトバ』論を
    井筒俊彦氏が書いているということ
    これは読まねばと
    急ぐ

    利他と無理矢理くっつけた感もあるけれど
    本質的に
    利他が霊性からやってくるという考え方は
    アジア人ならでは理解できる
    ところが
    ジャックアタリ氏を中島岳志氏が
    他著で批判的であるのは
    合理的利他というものは
    極めて西欧的なものだから
    だと思います
    これは当然
    親鸞を引用する中島岳志氏とは
    場を異にします

    素晴らしい本です。

    ーーー

    最後の磯崎憲一朗氏の論を読む

    思った以上に、小島信夫の正体が判りやすく書かれてて、
    小島の『馬』という短編の引用を読んでいると、
    声を出して笑えてきた。さっそく、『馬』と『抱擁家族』をチェック。やっと小島信夫が読める。
    読みたい読みたいとずっと思ってきた作家だから
    やっと機会を得た。

    この本、中身が充実に過ぎて、読んで良かった。

  • 新書らしい読みやすい導入書というより、業界用語や学問領域に偏らず、ピュアにじかに、1つの概念(利他)について、多角的に掘り下げることに成功した名作だと思った。
    YouTubeにセンターであげている動画もどれも面白い。もっとブレストっぽい議論も、どんどん公開いただけると嬉しい。

  • 「コロナ時代、他者と共に生きる術とは?」という帯文とともに、普段から病人や障がい者と接することが多い医療者として、「利他」について深く考察することは重要だと思い読んでみた。5人の研究者・作家による論考なのだが、とてもよく整理できた。その中でも國分功一郎先生の、中動態から捉えた責任と帰責性の違いの話は非常にクリアでストンと腑に落ちた。意志は責任を規定するための都合のいい概念で、そんな帰責性は「堕落した責任」であるという話。自己責任論が跋扈する昨今、これは例えば尊厳死や安楽死の議論でも重要な考え方のような気もする。
     伊藤亜紗さんの論考も興味深い。利他の本質は他者のケアにある。安心と信頼の違いに言及し、安心は相手をコントロール下においてなされる一方、信頼は相手の自律性を尊重し、社会的不確実性を前提とする。災害時の相互扶助はだからこそ生まれる。よき利他には、必ず自分が変わることが含まれる。
     これってもっともよく実感するのは育児じゃないだろうか。自分が望むような完璧な育児をしても、相手からの見返りは求められるとは限らない。子育てを経験すると「丸くなる」人が結構いると思うのだが、子どもという「不確実な対象」との相互交流を通じて自己が変わっていくという、まさに「利他の日常」に他ならない。

     人間、色々と経験するとついつい人生訓を述べたくなるものだが、中動態的な視点を大事にしながら不確実な未来を鷹揚に捉えながら生きていきたいものである。

  • 「利他」というものについて、それぞれ別の分野の5人の方々が「利他プロジェクト」に集い、その専門からこの問題について書かれています。「利他」についての共通の土俵を見出そうという試みには一つの結論が導かれていて、それは非常に大きいものだと思いました。その効果を検証するようなことをするとたんに、利他的に行ったその行為の契機が消えていってしまうこと。民藝にみられる、たとえば「器」の持つ利他性から、それが作為(器は作為を考えない)から発生するものではないこと。「受動」「能動」が対義語ではなく、別の視点から見ると「中動態」という行為の現れ方があることを、「意思」という概念が比較的新しいものであるということ。小説の立場から、その意思からではないところから現れてくる物語の発生ということ。
    利他という概念が発生する場所について、その本質について、なぜそれが利己的な「意思」や「効果」といったものから見たときに、そのこと自体によって消え去ってしまうのか。この概念が未来に関わるものであること(検証が未来を変えてしまうこと)を考えさせられるものがありました。

  • 結局、合理性を追求しすぎた資本主義・新自由主義はすでに限界を迎えていることは明らかで、ひとの気持ちが入り込む余地のある世の中の動かし方に振れ戻っていくということなんだと思う

    そういう時代に大事にしたい言葉が多い、良い本だった

  • 利他とはなにか。
    壮大な問だが、5人の著者が、思索の末、たどりついた現在の地点について書かれている。

    私には、最初の伊藤亜紗さんの論考が刺さった。
    曰く、利他とは、「情けは人のためならず」というように、自分の利益になるようなものではないという。
    ”自分”が働きかけたときに、相手の反応は未知であり、そこにはリスクがともなう、と。
    確かにノーリスクの利他行動などない。
    常に相手を傷つけたり、悪い影響を与えたり、する可能性をうちにはらんでいる。
    だからこそ、相手を信頼 するということが必要になるのだと。
    そして、行為者側が相手を傷つける恐れにも、常に自覚的である必要があるのだと思う。そうしなければ、容易に支援は支配へと変容しうる。
    リスクはリスクとして、適度な大きさで恐れつつ、
    それを超えていくような姿勢が、利他なのかもしれないと、感じた。

    これは心理士のあり方に通じるものがある。
    本来的なカウンセリングは、感謝されて終わるということにはならない。クライエントは、「自分で良くなりました」と言って去っていくもの、とされている。
    与えていたものが良いものであればあるほど、与えた側には返ってこない。
    もしかしたらこれは心理に限らず、他の対人援助の領域でも起こりうることなのかもしれない。
    対人サービス業では、一般的にお客さんに感謝されることがやりがいという方が多いので、その中でかなり特異的であろう。
    つくづく風変わりな業界だな、と思うが、そこがいいのである。

  • 『利他』という哲学的なテーマを様々な専門家が様々な視点から論じている。

    【伊藤亜紗 『うつわ』的利他 】
    ・うつわ的利他
    相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白をもっていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさに様々な料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのよう。

    ・ケア
    哲学者の鷲田清一は、ケアというのは「何のために?」という問いが失効するところでなされるもの。他者を意味の外に連れ出して、目的も必要もないところで、ただ相手を「享ける」ことがケアなのだ。

    ・押しつけの利他
    作り手の思いが過剰にあらわれているうつわほど、まずいものはありません。特定の目的や必要があらかじめ決められているケアが「押しつけの利他」でしかないように、条件に合ったものしか「亨け」ないものは、うつわではい。「いる」が肯定されるためにはその条件から外れるものを否定しない。

    ・あらゆる人間的な仕事は本質的にケアリング
    川に橋をかけるのは、そこを渡りたいと思う人をケアするため
    改札が自動化しても駅員が待機しているのは、重い荷物を持った人やその土地に不案内な観光客をケアするため。

    ・評価・数値化とケア
    人々が数字のために働き、組織が複雑化して余白を失っていくにつれて、仕事からケアが失われていきます。

    ・利他
    「聞くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すことである、と同時に自分が変わること。こちらから善意を押し付けるのではなく、むしろうつわのように「余白」を持つことが必要。

    ・利他の「他」
    人間に限られるべきではない。生物学の世界において、種を保存するために「利他」ということは当たり前のことでは?競争だけではない。

    【中島岳志 利他はそこからやってくるのか】
    ・利他はどこからやってくるのか?利他は私たちの中にあるものではない、利他を所有することはできない、常に不確かな未来によって規定されるもの。

    自力の限りを尽くした果てにこそ、どうにもならぬ自己の限界を知りうる。そうした無力に立った人間におのずとやってくるのが他力であり、阿弥陀仏の慈悲である。なるほど。他とは他人ではなく仏様

    【若松英輔 美と奉仕と利他】
    ・人が本質を見過ごしてしまう理由
    ①思想 ②嗜好 ③習慣
    これら3つの罠を遠ざけつつ「見る」とはどういうことなのか。
    柳は・・・
    どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。
    直感 見る 観る

    ・論理の道の先に真理はない
    利他とは何かを考えようとするとき、最初にある落とし穴はそれを概念化することです。利他という名状しがたい、そしてある意味では姿なき出来事を生々しく感じることなく、概念化するとき、私たちがそこで目にするのは、記号化された利他、さらにいえば死物となった利他であって、「生ける利他」ではありません。
    現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証しであるかのようになっているが、現実世界では非常に脆弱です。現実は矛盾に満ちているから。

    → 
    言葉にしたとたんに、過去の私の考えたかはこうだ、他者の考え方はこうだから、過去の私に従おう、過去の慣習に従おうということが起こりうる。
    そうした場合にまた「概念」に従うことになる。。
    結局は、無意識に任せるしかない。私の身体がそう動いた。私が勝手に助けてしまった。それらは日常生活の中で勝手に生み出されているものなのだ、と。
    わたしがじかに見て感じているものなのだ、と。

    【國分功一郎 中動態から考える利他】
    ・能動態と中動態の対立は外と内の対立
    「与える」能動態 → 自分の外側で行為が終わる
    「欲する」中動態 → 自分の内側での行為

    ・意思とはすなわち、過去との切断

    ・行為をもたらした因果関係はどこまでも遡っていける。

    ・どこまでも遡ると、誰にも責任がなくなる。だから、意思の概念を使って因果関係を切断する。

    ・自分の意思で行為をやったとすれば、因果関係はそこでぷつりと切れて、少年に行為が貴族することになる。切断としての意思という概念は、行為の帰属を可能にすることで、責任の主体を指定することができる。

    ・意思の概念にこだわるのは、責任のメカニズムがあるから

    ・責任とは自らの心の中で感じるもの → 中動態的

    ・責任と帰責性の混同
     帰責されたからといって、その人が責任を感じるとは限らない。僕らは意思の概念を使って帰責することが責任の概念のコアであると信じきっている。

    ・利他のモデル
    義の心に近い。何か応答しなければならないといった、中動態において捉えられる応答としての責任であり、帰責性からは区別される責任

    ・人間的因果性と神話的因果性

    私がヒトのため=「利他」だと思っていたことが、実は他者からのリターンを心のどこかで臨んでいる私が潜んでいるかもしれないことの危うさに気が付いた。
    それはつまり、僕の言動が「利他主義」ではなく「利己主義」に陥ってしまっていることに無自覚であるということ。
    5人の視点が様々なはずなのに、着地点はもののみごとに一致していた。

  • あまり期待していなかったけれど,新しい概念に遭遇したり,考えを深めたりすることができた。読むまでは利他を単純に他を利する行為と捉えていた。利己と利他の一体性=同じでは無いけれどすごく近いところにあるイメージ+利己を伴わない利他の存在の難しさ,利他行為の能動性(意志)の怪しさ+中動態,とまだまだ咀嚼できていないけれど,協同という概念を捉え直す枠組みになりそうな気がしている。ボランティア活動や援助行動,向社会的行動などをなぜ行うのか,行ってしまうのか,面白い問いが生まれそう。

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著者プロフィール

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『思いがけず利他』『パール判事』『朝日平吾の鬱屈』『保守のヒント』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄』『アジア主義』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』、共著に『料理と利他』『現代の超克』などがある。

「2022年 『ええかげん論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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