あだち充の『タッチ』が実は音楽マンガであるという指摘に目からウロコ!
意外な気もしますが、読んでみて納得!でした。

2013年9月10日

読書状況 読み終わった
カテゴリ かさ

昼休みにひとり裏庭でお弁当を食べるチナツ。彼女は高校入学当初にお腹をこわして学校を休み、友だちを作りそびれてしまったのだ。そんな彼女が出会ったのが、同じように教室に居場所を作れない個性豊かな面々で構成された組織、その代表者のマスノという男子だった。
部活というよりは、教室からの避難所、といった感じ。
チナツの一人称で物語が展開するが、その語りが敬体なのが読者との距離感を図っている感じがする。本当は相手と親しくしたいんだけど、どう近づいていったら分からない、という彼女の性格をそのまま表しているかのような文体で、丁寧なんだけど、何となく他人行儀な印象を受けた。
だけど、そんな彼女だからこそ、TEAM☆BOTCHの一員として受け入れられたのだろう。本当はごく普通の少女なんだけど、ちょっとしたきっかけでマジョリティの社会からはずれてしまうという危険性、きっと今の社会に生きる若者は多かれ少なかれその危うさの中で生きているのだろう。

2013年2月2日

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読書状況 読み終わった [2013年2月2日]
カテゴリ さか

途中で断念。

日本でおなじみの国民的キャラクターたちが
小説の中で すごいことに。

というアイディアは面白いし
国民的キャラクターをあんなふうにおちょくるなんて
さすが高橋源一郎…とは思ったんですが

作品自体はどうにも面白いと思えなくて、断念しました。

なので評価はなしで。

2013年3月30日

カテゴリ かさ

舞台は富山の自然あふれる村、タイトルは「少年時代」、そこから漠然と、田舎での子どもたちの活き活きとした生活が描かれていることを想像していたため、読んで驚いた。
主人公の真一少年は、タケシの絶対的権力によって支配された子ども社会に巻き込まれていくことになる。
ねっとりとした陰鬱さのある藤子のタッチと物語全体に流れる不穏な雰囲気がうまく溶け合っているが、原作である柏原兵三の『長い道』は未読であるため、このすごい場面は文章ではどのように表現されているのだろう、と度々気になった。
真一が初めて泥棒して手に入れたスイカを食べる場面では、真一の罪の意識とスリルの快感の入り混じった表情がすさまじく、また、「非難の合唱」の怖すぎる描写など、マンガだからこそできた表現が随所にみられた。
あと一点気になったのは、男と男の死闘を経てお互いを認め合ったはずのフトシが、最後あっさりタケシの敵側にまわっていた点で、なんとなく男らしくないなコイツ……と思った。

2012年11月13日

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読書状況 読み終わった [2012年11月13日]
カテゴリ さか

さまざまな動物たちによるモノローグ的な短編集。

学生さんが読書感想文を書きやすそうな本だなあ、というのが一読しての印象。
ここでの擬人化は、風刺や寓話というよりも、作品のテーマをよりクリアに見せるために使われています。
たとえば「そらの青は」の二匹の魚のやりとりや心理的機微などは
人間でやってもよさそう(というか、人間の少女たちそのもの!)ですが
逆にいえば同じテーマを人間の主人公でストレートに語った作品はすでにたくさんあるわけです。
それらと同じ穴を掘り下げるよりも、少しひねって切れ味よく仕上げる。
この作品集はそういう試みなのかなと思いました。

とはいえ、一つ一つの作品に既視感は否めません。(それが悪いこととは言えませんが)
「アメンボリリース」はどこか安房直子を思わせる作品。
「朝の花火」はまるで「ごんぎつね」の変奏のよう。
そもそも動物たちのちょっぴり哲学っぽいモノローグといえば工藤直子の「のはらうた」という偉大な先行作品があるわけで…。
と上げていけばキリがないほど、児童文学では伝統的な手法なのですね。

2012年10月21日

読書状況 読み終わった [2012年10月20日]
カテゴリ かさ

「凧は青でなきゃいけないんだ。だって金曜日が青い色をしているんだもの」幼いころに死んだ父とした凧あげ……母の再婚を前に動揺する少年ハルと、彼を見守る友達のオリビアの物語。

 皮肉屋だけどいつでもハルの味方でいようとするオリビアの視点から語られているので、ちょっぴり奇矯なとこがあるハルの言動も、けなげでユーモラスなものとして読むことができました。一途なあまり暴走しがちなハルと、それに的確にツッコミながらしっかりハルに寄り添うオリビアは本当にいいコンビ。

オリビアの、常態と敬体の混じり合った語り口(「パスポートひとつ発行するのに、こんなにたくさんの個人情報が必要なんだ。プライバシーなんてないってことですね?」)は、日本語訳の方の工夫なのでしょうか?これによってオリビアのキャラがとっても立っていて、面白かったです。

垣間見えるアイルランドの生活や風俗も興味深かったのですが、ハルが父親の死(おそらくは自死)を乗り越えるためのモチーフとして、中国のお祭りである清明節が使われているのも楽しい驚きでした。子どもたちは今やどこの土地に住んでいるかに関わりなく、色んな文化に触れ、また支えられて生きているのでしょう。

ひとつだけ気になったのは、ハルの母親の好物だという「ブロッコリー入りライスケーキ」おにぎりにブロッコリーが入っているってことでしょうか…?謎が残りました。

2012年10月10日

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読書状況 読み終わった [2012年10月10日]
カテゴリ かさ

いたって「ふつう」の少年を主人公に据え、彼をとりまく「日常」を描いた作品である。
「ズッコケ三人組」シリーズで個性豊かな主人公たちを奇想天外な冒険へといざなう那須正幹が、本作では慎重に「非日常」を回避している。
例えば、「ヨースケくんパトロールする」という話では、近所で放火魔による放火事件が発生する。友だちの倉橋くんの提案で、子どもたちでパトロールをしようという話になるが、結局大人たちの反対にあい話は立ち消えになる。例えばこの物語が「ズッコケ」シリーズだったらハチベエあたりが大騒ぎして、三人組の力で放火魔を逮捕に導いただろう。
しかしこの作品ではそのような展開にはならず、放火魔逮捕のニュースも新聞で知ることとなる。
特に盛り上がりのないストーリー展開ではあるが、例えば刑事に話しかけられたことを友人にうらやましがられて優越感にひたるヨースケくんの姿や、また放火魔があわられてくれればいいなぁと物騒なことを考えるヨースケくんの気持ちなど、あられのない小学生男子のリアルな感情を描くことで、何気ない物語にちょっとしたスパイスが加えられ、那須らしいユーモアが感じられる。
また、はたこうしろうの絵も物語にいいスパイスを与えている。
特に、「ヨースケくんの秘密」で、トイレでピンチを脱するヨースケくんの場面を描いた絵がすばらしい。
那須の文章だと、待っている間の熊田さんの描写はない。ヨースケくんがトイレから出たときには、熊田さんは「なにごともなかったような顔」で立っているのである。
しかしはたの絵では、熊田さんは、ヨースケくんがトイレに入っている間、少し恥ずかしそうな表情をしている。ここでのはたの絵は神の視点で描かれており、熊田さんの心の中まで透けてみえてくる。
那須の文章と、はたの絵がうまくあわさり、より一層ユーモラスになっている点に魅力が感じられた。

2012年10月20日

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読書状況 読み終わった [2012年10月20日]

 膨大な個人データが蓄積され、第三者に利用されるようになった現代。作品の舞台はそれがさらに進行した未来です。たくさんの個人情報が統計的に処理されそのユーザーにぴったり合うような環境を提供するサービスがリアル空間においても展開されているような未来。このような社会では人が自分の存在や欲望について確信を持つことや他者と共同体を築くこと、また政治社会のしくみなど私たちが当然とおもっていることへの再考が迫られます。

 記憶喪失の少女ジェンナもそのような社会の中に目覚め、彼女を「あること」から守ろうとする両親との葛藤を経て、新しい自分を再構成していきます。彼女の置かれた状況は特殊ですが、一人称で丹念に描かれる10代の少女の心の動きには普遍的なものがあるように思います。それがこの物語を、哲学的なテーマやサスペンスフルな展開にもかかわらず、さわやかでリアルなYA小説にしています。
 とはいえ、大人たちの「良かれと思って」を裏切りさらにその上を行く結末は、いままでのYA文学にはあまりなかったものかもしれません。

 ラストの章では一気にSFへと振りきっていて驚かされますが、著者公式サイトによればこの作品は実は三部作で、2013年に最終巻が刊行予定とのこと。楽しみに続きを待ちたいと思います。

2012年10月7日

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読書状況 読み終わった
カテゴリ かさ

子どものころ、わかったさんやこまったさんの本が好きでした。一番最後のページに載っているレシピを見ながら、こんなすてきなお菓子が作りたいなぁと夢想したものです。(自分で作るにはハードルが高かったので、あくまでも想像するだけ!)
この本には、志村貴子さんのかわいらしいイラストと一緒にレシピがたくさん載っています。参考にするにはちょっと難しいかな?と思いましたが、読んでるぶんにはわくわくしました。
内容としては、夢に向かって行動する大人/夢がみつからない子どもの対比が面白いですね。夢がみつからないことに焦りつつも特に行動を起こさないカンナの姿が現代的という気がします。
カンナの精はもう少し物語に絡んでくると面白かったかなと思います。

2012年9月25日

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読書状況 読み終わった [2012年9月25日]
カテゴリ さか

絵本の世界でもっとも有名な「あおむし」といえば、やはりエリック・カールの「はらぺこあおむし」だろう。はらぺこあおむしも、本作のあおむしと同様に、次々と身近にあるものを平らげては成長していく。しかし両者には決定的な違いがある。「はらぺこ」だったあおむしは、空腹が満たされれば食べることをやめる。そして、あおむしからさなぎ、そしてチョウへと変態していく。一方、「くいしんぼう」のあおむしくんの食欲は満たされることがなく、「たべはじめると なんにもわからなくなってしまう」のである。最後まで、あおむしの食欲はおとろえることがなく、そして最終的にはともに旅をしてきた「まさお」までも食べてしまう。
そもそも、この作品の英題は、”MASAO AND THE SKY BLUE WORM WHICH EATS ALL THINGS IN THE UNIVERSE”。本来の「あおむし」”green caterpillar”ではなく、文字通り「青い虫」という意味での「あおむし」なのである。なので、くいしんぼうのあおむしくんは、いくら食べ続けてもチョウやガなどには成長しないのである。
では、なぜあおむしくんは食べ続けるのだろうか。
そこで注目したいのは、あおむしくんの表情である。あおむしくんは基本的にしょぼくれた表情か、怒ったような表情をしている。そんなあおむしくんが嬉しそうな表情を浮かべるのは、町の人からごみをわけてもらう場面と、まさおくんの家や家族を食べてしまった翌朝の場面である。
ごみを食べる=「人の役に立つ」、それはあおむしくんにとって喜びだったのではないだろうか。あおむしくんが「人の役に立つ」ために次に食べたものは、まさおの家族であった。あおむしくんは、まさおを家族から解放することがよいことだと考えたのではないだろうか。その証拠に、まさおに「みんなたべちゃった」と告げるあおむしくんの表情は、得意げである。「まさおくんが そんなに かなしむなんて ぼく しらなかったの」というせりふからも、まさおが悲しんでいることを意外に感じている印象を受ける。
この絵本が世に出たのは1975年。非行や校内暴力が問題化し、受験競争が過熱する時期と一致する。未就学児童であるまさおくんも、いずれはこのような現実と向き合わなければならない。あおむしくんがまさおの家族を食べることで、まさおはその未来を回避することができた。しかし、まだ小学校にも行かないまさおには、あおむしくんがしたことの意味を理解することができないため、泣きながらあおむしくんを非難するのである。
そしてまさおに受け入れられなかったあおむしくんは、もはや食べることの目的を見失う。その後は、例えば排煙を出す工場を食べて人々から感謝されても、「人の役に立つ」ことの喜びを感じることはない。食べるという行為が形骸化して、行動が暴走していく。
そして最後にはあおむしくんはまさおを食べることで、まさおを元の世界(のような世界)にかえす。まさおはこれから先、厳しい現実のなかで生きていかねばならないのだ。
しかし、最後の場面で両親とともに食卓につくまさおの姿は幸せそうだ。そこに救いが感じられた。

2012年9月3日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2012年9月3日]
カテゴリ さか

表紙がとっても綺麗ですね。
ちょっと変わった小品を集めた短編集。

物語と、ねむようこさんの淡泊な絵柄が合っていないのでは、という印象を受けました。この話を別の漫画家さんが描くとどうだろう、もっと怖くなったかも、もっとエロくなったかも、という想像ばかりしてしまいました。

絵柄とマッチしていたのは「ファミレス☆ナイト」と「県立マンモス西高等学校」という、どっちもスラップスティックもの。

2012年8月18日

読書状況 読み終わった [2012年8月17日]
カテゴリ かさ

さわやかな表紙がとても素晴らしい。

引っ越しの合い間に浮かんでくる過去の疑問、疑念、わだかまり…を一つ一つつぶしていく。最後には話題の人物も現れて…という構成が面白かったです。
引っ越しって、次の場所へ行く準備でもあり、過去の棚卸しでもある。しかも自分と学生時代の時間のほとんどを共有してきた友人の引越しです。同じ想い出を持っていると思っていたものが違ったり、相手のことを知っているつもりで知らなかったり…そんな新事実がぽろぽろ出てきて、そのたびに主人公は周囲の人への評価を変えざるをえません。このオセロ的快感が、本作品の醍醐味の一つでしょう。

ただ物語が主人公一人の視点に寄り添って進むせいか、次から次へと明らかになる過去の事実にうろたえまくる彼女が、あまりにも独りよがりで残念な人に見えてしまうという欠点も。これは、引っ越しの一日、ほとんど部屋を出ない、というストーリー上の制限のせいもあるかもしれません。

作中で主人公らが「夏休みは人生の縮図だ」というようなことを話しています。では、タイトルの「夏休みの拡大図」とは「人生」のこと?
うーん、そこはちょっとピンときませんでした。
最後には未来に向かって踏み出す彼女たちですが、そのわりに彼女たちの現在や将来の姿が見えて来ず(学生時代を振り返ってばかりなので無理もないことですが)、やや説得力に欠けるラストかなと思いました。

彼女たちの最後の結論「夏休みが終わっても二学期がくる」を読んで、なんだか無性に大島弓子のマンガ『毎日が夏休み』を読み返したくなりました。

2012年9月7日

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読書状況 読み終わった [2012年9月5日]
カテゴリ かさ

主人公キークの願いは「パパに生きていてほしい」、ひたすらにそれだけである。
そのために少女の思考は、「パパが生きている可能性」を大きくするために、飼っている犬やネズミの死を望むというショッキングな方向へと傾いていく。
そんなキークの思考と行動を周りの大人(ペットショップの店員や母親たち)がきちんと止めてくれる。
特に飼い犬のモナを歩道橋から落とそうとするキークを救う通りすがりの男性は、彼女を叱り、ちゃんと間違いを指摘し、そしてキークの不安を聞いてくれる。
ああ、いい大人だなぁとしみじみ思う。
子どもの間違った行動を、大人が「きちんと」止める。それはとても大事なことではないだろうか。特に幼い子どもにとっては。
それがきちんと描かれているところがいいなぁと思った。
ただ、最後のほうの場面で、学校の授業で先生がキークに自分の父親のことを話すように促していたけど、自分がキークの立場だったら……と考えたら、ちょっと嫌だな、と思ってしまった。
その後の放課後の出来事として、「うんざりした気持ちになったモナ」が、黒い犬の鼻先にガブリとかみついて、くさいおならをしたのが、そんな積み重ねられたわずらわしさを吹き飛ばすようで小気味よかった。

2012年8月22日

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読書状況 読み終わった [2012年8月22日]
カテゴリ さか

主人公柚子の変人ぷりに驚かされた。
彼女は、読者に感情移入を許さない。なぜなら彼女自身が自分の感情をよく分かっていない(正確には蓋をして気づかないようにしている)からだ。彼女は常にぼやけた状況で世界を見ている。
現実の深刻さと柚子のとらえる世界とのズレが巧みに描写されている。(まあ、正直読んでいてしんどいなぁと思う場面もあったけど)
でもだからこそ温泉につかって心底満足している柚子の姿にはほっとさせられるし、救われる。
たどりつくべくしてたどりついたラスト、その先で柚子が幸せであってほしいと切に願う。

2012年7月31日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2012年7月31日]
カテゴリ さか

 梨木香歩は非常に批判精神の強い作家です。
 作品ごとにその傾向は強まって、というか、よりむき出しになって来ているように思えます。本作品でもいくつかの具体的な事例が、それと分かるように提示され批判されていました。
 しかもその内のひとつは、本書と同じ出版社が出す人気シリーズの一冊。批判の内容にはうなずける箇所もあり、「インジャ」の身に起きたことにはぞっとしたものの、しかしこのエピソードがあくまでも(おそらく)フィクションである以上、これを当該作品・著者へ批判の根拠とするわけにはいきません。エピソード自体が物語の中でも浮いているようで、ここは少しもやっとした部分でした。

 一方で、安易な「命の授業」への批判をあらわしたエピソードは、作品の根幹のテーマに関わるものとしてうまく組み込まれていたと思います。
 教室の中で、ふと顕現する集団と個人のパワーバランス。熱血教師の中にある無意識の嗜虐心。それらに違和感を覚えながらも受け流してしまったコペル君。自分がそうとは知らないまま「集団の圧力」に屈し友人を裏切っていたことに(そして自分が忘れている間にも、傷ついた友人の方はずっとそのことについて考えていたことに)コペル君は立ち直れないほどの衝撃を受けます。これは、もちろんコペル君が卑怯なやつなのではなく、「個人」の側につくことは誰にとっても難しいのだということでしょう。それだからこそ「大多数/個人」という構図ができるのですから。
 過去の闘争について聞いている時、ほとんどの人は(勇敢に闘った/集団の圧力に屈しなかった)個人の側に自分を重ねるのではないでしょうか。そして大勢の側についた人達を愚かと思うでしょう。すでに価値判断の済んだ出来事について、そう思うのはごく自然で簡単なことです。
 しかし、いざそのような対立状況に置かれたとき、私たちは個人として立つことはおろか、対立状況にあるということに気づくことすら難しい。それを、コペル君の小さな事例は教えてくれます。一人ひとりのこのような鈍さにこそ、戦争という悲劇を呼び込む危険がある、というところまで作者は主張を広げています。
 その点ではこれを「新しい戦争児童文学」(古田足日)として読むこともできるのではないか、と思いました。

 最後のBBQのシーンには救いがあります。コペル君と、「インジャ」の女の子と2人の人間がこの場面で回復の兆しをみせています。そういえばこの作者はくり返し、ある種の、体温あるコミュニティ(「許し合える、ゆるやかで温かい絆の群れ」)を描いて来てもいるのでした(『からくりからくさ』『村田エフェンディ滞土録』など)。その意味でも非常に「らしい」作品だったと言えるでしょう。

2012年8月14日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2012年8月13日]
カテゴリ かさ

実は よくわかりません。

でも

絵はかわいいです。


アロママさんが「おけしょうちゅう」ってとこが好き。
あと、帰ってきたアロママさんが
「あら キーヨちゃん きてたのね。こんばんは。 でも もう おそいわよ」
っていって、キーヨちゃんが
「こんばんは アロママさん。 もう そろそろ おいとまする つもりだったの」
っていうとこ、なんとなく、緊張が走ります。
アロくんも、こころなしか、後ろめたそうな?

さいごの「みなさんは もう しってますよね」「じゃ おやすみなさい」
の2ページも好きです。

でも つまるところ何なんだか、さっぱりわかりません。

(かさ)

2012年7月23日

読書状況 読み終わった [2012年7月22日]
カテゴリ かさ
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