カフカ短篇集 (岩波文庫 赤 438-3)

  • 岩波書店 (1987年1月16日発売)
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20世紀プラハの作家フランツ・カフカ(1883-1924)の短篇集、マックス・ブロート版からの翻訳。



不可解な物語の意味を読み解こうとして後に残ったのは、意味というものの無意味さの感覚だった。則ち、自分たちの日常が普段依拠しているところの意味なるものが、実はたいした内容物ではなくて、無意味と同じくらい空っぽなものでしかないのではないか、という感覚。意味というのは、無数にある無意味の諸ヴァリエーション(それは言語とその規則の順列組合せだろう)のなかの偶然のひとつ、それ自体のうちには何ら特権的な根拠をもたない偶然のひとつ、でしかないという感覚。意味と無意味の区別自体が無意味なものとなってしまうような、たださまざまな雑多だけがあるというような感覚。

解釈というものが作品の諸要素ならびにそれらの諸関係を世界の既知の諸要素ならびにそれらの諸関係に投影することだとすると、解釈だけでは作品は作品以前に予め与えられている世界の従属物であるということになってしまう。しかし、作品は世界に新たな要素とその関係を付け加えることができるかもしれない、あるいはそうした新たな投影を読み手のなかに芽生えさせることができるかもしれない。作品を読むという行為は、単なる静的な解釈である以前に、ただ言葉の機械的な運用だけに頼っていては沈黙するしかないような、新たな方向に分け入っていくところの体験ではないか。

カフカ作品の意味のわからなさは、日常的な意味以前の、そもそも以前以後というように位相化することができないところの、ある先験的な僕らの前提条件の形式とその規則を、語るのではなく、示そうとしているようにも思われてくる(「橋」「父の気がかり」など)。



「あやつは、はたして、死ぬことができるのだろうか? 死ぬものはみな、生きているあいだに目的をもち、だからこそあくせくして、いのちをすりへらす。オドラデクはそうではない。いつの日か私の孫子の代に、糸くずをひきずりながら階段をころげたりしているのではなかろうか? 誰の害になるわけでもなさそうだが、しかし、自分が死んだあともあいつが生きていると思うと、胸をしめつけられるここちがする」(p105「父の気がかり」)。

カフカはこの作品において死後に残される自分の作品をオドラデクに重ねている、という解釈があると知り、なるほどと思った。カフカは自らの死が近づいたとき友人の作家マックス・ブロートに草稿を含めた一切の作品を焼却するように依頼したが、ブロートがその遺言に従わなかった。そのおかげで世界はカフカの作品を知ることになる。カフカは友人が自分の遺言どおりにはしないことを予め知っていたのではないか、とボルヘスは書いているという。これも、なるほどと思わせる。



「掟の門」「流刑地にて」「父の気がかり」「雑種」「橋」「夜に」「町の紋章」が特によかった。

なお、田中純『建築のエロティシズム』によると、カフカは1911年にプラハで開かれた建築家アドルフ・ロースの講演「装飾と犯罪」を聴いており、1914年に書かれた「流刑地にて」にはロースの講演の影響が読み取れるという。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ドイツ文学
感想投稿日 : 2023年3月21日
読了日 : 2023年3月20日
本棚登録日 : 2023年3月21日

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