シリーズ最終巻。

雑誌連載時に編集者からあたえられた「どっこい哲学は金になる」というタイトルに、著者はかなり葛藤を感じていたらしく、そのことが生々しくソクラテスとクサンティッペの会話のなかで語られています。

編集者は「このタイトルによって、あなたは一段と成長します」と著者に告げたとのことで、じっさい著者があまりにもあっけなく切り捨てていたものを、あらためて吟味しなおし、再度切り捨てていくという作業が本書においてなされており、なるほど著者自身の成長に有益だったことはよく理解できるように思います。ただし、その成長のプロセスをそのまま伝えることが、読者にとっておもしろいかどうかといえば、それは別の問題ではないかという気がします。

2018年7月2日

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カテゴリ 哲学・思想
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シリーズ第2弾。

今回は、ソクラテスとその妻のクサンティッペの対話が中心です。柄谷行人や養老孟司、西部邁、永六輔らの、当時評判となった著書やエピソードなどを、素手で物事を考える「哲学」と呼ばれる手法によってバッサリと一刀両断していきます。

今回もおもしろく読めたのですが、前作のようにプラトンの対話篇のパロディではなく、またとりあげられている題材も現代日本をにぎわせているそのときどきの出来事なので、ソクラテスという人物を借りずとも、著者みずからのエッセイとして発表されても大きな違いはなかったのではないかという気がしてしまいました。

それはそれとして、ソクラテスとクサンティッペの夫婦仲の良さに思わず笑みがこぼれてしまいます。

2018年7月2日

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カテゴリ 哲学・思想
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シリーズ第1弾。

プラトンの対話篇のパロディのかたちで、現代日本のさまざまな論者たちと古代ギリシアの哲学者が問答を繰り広げています。ソクラテスの妻であるクサンティッペや弟子のプラトン、さらにイエスや釈迦、ラスコーリニコフまでもが登場して、ソクラテスと架空の対話をおこなっており、著者の哲学が彼らの口を通して開陳されています。

ややカリカチュアライズがすぎると感じられるところもありますが、ユーモアも十分にあって、おもしろく読みました。個人的に、著者の本のなかではもっとも好きなシリーズです。ただ、ソクラテスの鎧の下から小林秀雄がのぞくように思えるところも散見され、ロゴスとピュシスの関係について果たしてソクラテスやプラトンの思想を再現したものといえるのか、若干疑問に感じるところもありました。

2018年7月1日

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カテゴリ 哲学・思想
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過去の哲学者たちの議論を自由に読みなおし、哲学の精神そのものを賦活しようとする試みがなされている本です。

まずとりあげられるのはヘーゲルです。著者は唯物論者や分析哲学者たちのヘーゲル批判をしりぞけて、ヘーゲル哲学の核心にある「絶対精神の自己認識」を、「ある考えが「わかる」のは、ちっぽけなこの私の能力などでは断じてない。「わかる」とは、考えについての考え自身の気付きである」とまとめています。

さらに著者は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった古代の哲学者たちの精神に立ち返り、現代にいたるまでの哲学史のなかから何人かの哲学者たちをピックアップして、哲学研究の厚い雲におおわれている彼らの思想の根本にあるはずの、哲学の精神そのものをとり返そうと努めています。

アウグスティヌスとトマス、デカルト、カント、ニーチェなどを経て現代にまで、本書でとりあげられている哲学者たちは幅広いのですが、基本的には著者の考えにそった解釈がなされているので、めざすところはおなじだといってよいでしょう。これまで著者の本に触れたことのある読者は、著者が過去の偉大な哲学者たちとわたりあうすがたを本書の議論のうちに見ることができるのではないかと思います。

2023年7月9日

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カテゴリ 哲学・思想
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著者が雑誌『諸君!』に連載した哲学的人物批評のほか、著者が敬愛する小林秀雄に宛てて書いた手紙の形式の文章などを収録しています。

『諸君!』という雑誌の読者は、おおむね著者のいう「この世のこと」に関心を寄せていると考えられますが、著者はそうした読者を相手に「この世のこと」を丸ごと宙づりにするところに「哲学」の意義を見ようとしており、そうした問いかけをしないではいられない者のまなざしで、評論家やエセ哲学者たちに舌鋒鋭い批評を投げかけています。とはいっても、高みに立って俗世間的な価値観を切り捨てるのではなく、「この世のこと」の「外」のまなざしが純粋に示されていて、清潔な印象を受けました。

個人的には、養老孟司の「唯脳論」に対する著者の批評がきわめて的確で、おもしろく読みました。養老はしばしばわれわれ人間の認識活動を脳の機能であるという発言をおこなっており、その立場を物的一元論の一種とみなすような解釈を招いているのですが、著者は養老が東大を退官したさいに述べた「私が教えるのは、死体とはなにか、である。その答えは、じつは私だ、というものである」ということばに注目し、「唯脳論は、唯心論を唯物的に語るための方法である」と主張します。こうした著者の理解は、ベストセラーになった『バカの壁』(新潮新書)に引き継がれる養老の構造主義的な発想の根幹をいいあてており、たとえば大森荘蔵の唯脳論についての理解に比してもすぐれたものであるように思われます。

2021年3月11日

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「知識人」批判を展開している序章を皮切りに、論理、詩、科学、心理、神についての考察と、「応用編」として「非‐女権思想」「禅についての禅的考察」の二編が収録されています。

多くの哲学的エッセイを刊行している著者ですが、本書は著者の考える哲学的思索そのものがもっとも純粋なかたちで提示されているように思います。ヘーゲルやウィトゲンシュタインなどの哲学者たちの議論が参照されつつ議論が展開されていますが、講壇哲学的なテクスト解釈をおこなうのではなく、先哲の思索との対話を通じてみずから哲学へと参入する著者の姿勢がストレートに示されています。ある意味で、ヘーゲルやウィトゲンシュタインが格闘していた問題の中心にまっすぐに入り込んでいくような議論といってよいのではないでしょうか。

また、ランボーやマラルメ、西脇順三郎といった詩人たちや、アインシュタインやハイゼンベルクといった物理学者、フロイトやユングの心理学、プルーストやドストエフスキーの文学についても言及されています。小林秀雄や埴谷雄高を敬愛する著者らしい、硬質で詩的な文体と純粋な思索が見事に結晶化されている本だと思います。

2018年12月15日

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カテゴリ 哲学・思想
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オピニオン誌『正論』紙上に連載されたエッセイなどを収めています。

「意見」(オピニオン)を声高に表明するひとは、「意見」を表明する「自分」を表明しているにすぎないといい、「無私」で「自由」な「口伝」(オラクル)に賭ける著者の姿勢が、まっすぐに示されています。

2014年11月1日

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池田晶子と大峯顕の対談です。大峯はフィヒテの研究者であり、親鸞の思想についてもその哲学的意義を論じた著作を刊行しています。

池田は陸田真志との共著である『死と生きる―獄中哲学対話』(新潮社)のなかで、「ほんとうの哲学の問題」とはまったく無縁に生きてきた殺人犯が、みずからが生きていること、そして自分が他者の生を奪ってしまったことの意味を見つめはじめるのを目のあたりにしていました。しかし、みずからの死と生を、そして他者の死と生を、まったく見ようとしない殺人犯が現われていることに、池田は「哲学の無力」を感じると語ります。こうした、もはや人間と呼ぶことのできない存在を前にしては、仏陀でも「困ってしまう」のではないだろうかと、彼女は大峯に問いかけます。

池田の問いに対して大峯は、「困ってしまいますね」とこたえ、それに続けて、「それはね、この世だけじゃ無理かもしれない」と語り出しています。「この世で気がついて真人間に戻ることは確かに不可能かもしれないけど、いつの世にかは、なるだろう」。そして、「そう思ったら、ちょっと救いが起こる」といいます。なおも池田が、その「救い」とは何なのか、「ということは、何でもいいんだということと同じではないんですか」と問いかけるのに対して、大峯は次のように答えています。「いや、なんでもいいんだということじゃない。結局、なんとしてでも救うぞと仏は言っているわけです。この世で救えなかったら、また次の世でも救うぞと。ある一人の生きものを絶対に手放さない。どんなに長い時間がかかったって、絶対に見捨てやしないと。これほど気が長い話はないですよ。そのことに気づくと、救いが起こってくる」。

「気が長いということに気づくことが救い」という大峯のことばは重く、深いと感じました。

2020年4月13日

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『週刊新潮』に連載された記事をまとめた本で、そのときどきの時事的な話題を切り口に、そうした世の中の瑣事に背を向けて「考える」ことへと向かっていく著者自身のスタンスが示されています。

タイトルは『14歳からの哲学』(トランスビュー)を踏襲していますが、そちらが若い読者に向けて哲学的な思索の本質をストレートに示そうとする意図につらぬかれていたのに対して、本書はタイトルに反して特定の読者層を想定したものではありません。41歳という、人生においてそれなりの経験をくぐりぬけてきたであろう人びとにとって、長い間置き忘れてきた問いにふたたび直面するような場面があるのではないかと想像するのですが、本書は直接的にはそうした読者像を念頭に置いて書かれたものではなく、自由に書かれた哲学的エッセイのようです。

もちろん本書を通じて、哲学的な問いの本質に触れることができたという読者もいることでしょうが、もうすこし本書全体がどのような読者をターゲットにしているのかが明確にされていないので、散漫な印象を受けてしまいます。

2018年12月13日

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「自同律の不快」や「存在の革命」を語る埴谷雄高から、「すべては、はじめから「考え」である」「存在とともに絶えることなくつづけられているところの「考え」は、変転する宇宙の巨大な容器なのだ」と語る池田晶子への、「精神のリレー」の記録です。池田の論考「最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論」のほか、二度に渡る対談と、埴谷の『不合理ゆえに吾信ず』とそれに対する池田の註解を付したものなどが収録されています。

「哲学」の立場に立ち、「在る」ことについてパルメニデス的な思索を展開する池田に対し、「文学」ないし「詩」の立場に立つ埴谷は、自同律的な「存在」の裏をかいて「創造」への飛翔を試みます。しかし両者は、同じ事態をそれぞれ表と裏から考えようとしているのであり、対談ではときにたがいの立場を入れ替えながら存在論的なディアローグがくり広げられています。

難解な埴谷の「存在の革命」という発想が、池田の「哲学」のネガとして提示されている本書は、埴谷文学の入門としての役割を果たしうるのではないかと思います。

2017年5月12日

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『毎日中学生新聞』に連載された記事をまとめた本で、「道徳」や「人生」から、「勉学」や「お金」にいたるまで16のテーマをとりあげ、哲学的な思索の妙味をわかりやすいことばで示してみせています。

「あとがき」に書かれているように、本書は『14歳からの哲学―考えるための教科書』(トランスビュー)とおなじく、若い読者に向けて書かれた本ですが、本書のほうがよりいっそうわかりやすく書かれています。ただ、そのことが読者を哲学的な思索へとみちびくことになるのか、正直なところよくわかりません。本書を理解した14歳の読者が、単なる屁理屈にすぎないという印象を越えて、哲学的な思索の妙味に気づくことができるかどうかが、分かれ目になるような気がします。

その意味では、本書のように簡単にはその内容を理解することのできない『14歳からの哲学』のほうが、粘り強い思索を読者にうながす効果があるということもできるかもしれません。

2018年12月11日

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「考える」とは何か、「自分」とは何か、「善悪」とは何か、といった哲学の根本問題について、若い読者に語りかけている本です。

「対象はいちおう14歳の人、語り口もそのように工夫しましたが、内容的なレベルは少しも落としていません。落とせるはずがありません。なぜなら、ともに考えようとしているのは、万人もしくは人類に共通の「存在の謎」だからです」と著者が「あとがき」で述べているように、本質的な問題にまっすぐ突き進んでいこうとしています。

哲学的な問いかけが、「品格」や「感謝」といった、われわれの生き方にかかわることがらへとつながっているところに、本書の特色があるように思います。

2015年9月4日

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在野の哲学者・池田晶子について論じた本です。

池田の哲学をわかりやすく解説することほど、意味のないことはありません。著者が本書において試みているのは、池田の思索をたどりつつみずからの言葉を紡いでいくことによる魂の交信であり、それは池田が小林秀雄や埴谷雄高、ソクラテスらを相手におこなってきたことと何も変わらないはずです。

しかしながら、本書から何を得ることができたのか、と考えると、答えに窮してしまうのも事実です。著者自身が池田の魂と交信した記録として、本書のことばが残されているということはわかります。しかしながら、池田のことばにさらに本書のことばを重ねることが、われわれ読者にとってどういう意味をもつのかということが、いまだに自分のなかではっきりしません。

池田晶子や斎藤慶典のような、一つの問題をめぐってくり返しことばを重ねていくようなタイプの哲学者の場合、彼らについて論じることにいったいどういう意味があるのかという疑問を覚えます。

2016年11月3日

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