外套・鼻 (岩波文庫 赤 605-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (120ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003260531

感想・レビュー・書評

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  • メタファーで当時の社会の描写や風刺をしているような雰囲気は少し伝わるのですが、正直よくわからずこの著者の他のものも読んでみようとは思わなかったです...

  • 辻原登さんの「東京大学で世界文学を学ぶ」でゴーゴリについて触れていて、外套は読まなきゃと思っていた短編。 久保寺健彦「青少年のための小説入門」(タイトルに関わらず小説である。)でも登が外套を換骨奪胎した小説を仕上げていた。

    これはもう読まなきゃダメだろと探して、やっと岩波文庫で見つけたが、1938年第1刷。さすがに古すぎないかと思ったが、格調があって、下世話で、名調子の訳に感嘆した。

    外套はどんな話だか、すっかり判っていたが、読み始めると、風采の上がらない、人付き合いもできない、公文書の浄書の仕事のみ熱意を持っていた下級官吏の生活が自分のことのように思えてくる。憐れさと最後の怪談噺の不気味さが印象に残る。

    鼻は奇妙奇天烈な話。鼻がある日、無くなっていて、その鼻は高級官吏に化けたり‥。最後は、著者が、いや、わたしにはどうも分からない、さっぱりさっぱり訳が分からないと宣っている。つまり、変な話書いちゃったよと云っているんだろうな。

    もうちょっと、ゴーゴリと平井肇の訳を読んでみたくなった。さて、どうしようかな。

  • 鼻がなくなったらちょー嫌なんですけど。

  • 『鼻』こっちのが面白かった。鼻がパンから出てきてそのあと棄てられたのに、人間みたいに鼻が服を着てるって鼻の形の顔をしてるのか、鼻自体が服を着てるのか考えてたらおかしくて仕方なくなりました。変な話。

  • 外套のみ読了
    ロシア文学の原点だそうです。
    ごめんなさい、よくわかりませんでした。
    主人公がいい人なのに、不幸過ぎて辛かったです。

  • リアリズムの中に非現実仮想があり、物語の面白さを演出している。

  • 以前、光文社版で読んだけれど、岩波版で再読。
    鼻がなくなるとか、パンの間から出てくるとか、服を着て街を闊歩するとか、発想がすごい。
    鼻がどうやって服を着るんだ、とか細かいことはスルーして、そういう世界として堂々と書いているところがいい。
    小説とは本来自由なものなんだなぁ、とある種の感動を覚えた。

  • 芥川龍之介の芋粥の冒頭が外套と酷似していると知って本書を図書館で借りて読んだ。
    書かれた年代(1840年代)ということを考えるとねちっこい写実的描写におどろく。
    いろんな読み方ができる本で、ユーモア小説として読むのが簡単で分かりやすい。他人の不幸は蜜の味というやつでは他から見ると面白い。ただ外套は主人公に感情移入したのでユーモアというより限りなく喜劇に似た悲劇に感じた。
    巻末の解説にロシア文学は運命と人とに辱められた哀れな零落者への憐憫の吐露と書いてあった。今までロシア文学はほとんど読んだことがないが、興味を持った。

  • 面白い小説である。『外套』は下級官吏がさんざん迷って外套を新調するのだが、追いはぎに盗られて、あちこちに訴えるのだが、「有力者」に訴え出た所、逆に叱り飛ばされ、発熱してそのまま死亡、化けてでるという話である。解説には、虐げられた人に対する人類愛の小説だと社会主義的な観点から書いてあるが、書きぶりをみると、自身も下級官吏だったゴーゴリの自虐的な所も垣間見え、日本の落語みたいなものじゃないかと思う。『鼻』はやっぱり下級官吏が主人公で、鼻がある日なくなって、また、もとにもどる話である。自分より官位が上の服装を着て「鼻」が歩き回ったり、遊びでつきあっている令嬢の親が呪術をかけたとか、いろいろ大騒ぎをするけど、人間を嘲笑的に書いている感じがして、やっぱり落語みたいである。

  • 「私たちは皆、ゴーゴリの外套の中から出てきた」という科白は、実に多くのことを語っている。ドストエフスキーの言だとされることの多いこの一節だが、しかし、実際にそのような記述は彼のどの著作にも見当たらず、発端の真相は未だ謎に包まれている。

    だが、誰が言い出したかも知れないこの科白がまことしやかにドストエフスキーの名を借りて人口に膾炙しているというのも事実である。火のない所に煙は立たない。ペテルブルクの凍てつく街角でゴーゴリが散らした火の粉は、プーシキンを経由して、ツルゲーネフへ、トルストイへ、ドストエフスキーへと拡がり継承され、やがて絢爛たるロシア文学を完成し、世界を照らす篝火となった。

    『ロリータ』の作者として知られるウラジミール・ナボコフは『外套』をカフカの『変身』と並ぶ文学的ペシミズムの金字塔として絶賛した。ここで『変身』を引き合いに出すあたりに、僕などはナボコフの意図を感じてしまう。

    というのも、『外套』はなるほど文学作品ではあっても、その構成や描写などの手法が十分に小説的であるとは言い難い。「小説」という方法が登場して以来、文学は巨大な革命を経験した。『外套』の中でゴーゴリが描くのは、そんな革命の予感を漂わす、嵐の前の静けさそのものなのだ。物語が小説へと、作家の視点が世界から人間存在へとその矛先を変えてゆく革命前夜の薄明にあって、終に物語の中に踏み止まった最後の文学者が、ゴーゴリであった。

    本書に収められた二篇の小品は、どちらもゴーゴリの代表作として名高いものであるが、「小説」として扱われることをもう一歩の所で拒否しているかのような、独特の滋味がある。それは味気ない官僚批判であったり、心理描写の淡白さであったりするのだが、作品に瀰漫するこの非小説性は、ひとえにカメラワークという概念の欠落に起因していると言えよう。作者の視点はペテルブルクの冷たい灰色の虚空に固定されていて、外套が盗まれようと、主人公が死のうと、突然顔から鼻がなくなろうと、微動だにしない。落とした鼻が妙に紳士然として街で黄昏ていても、やはり微動だにしない。

    一方の『変身』では、我々読者は虫になったグレゴール・ザムザの感覚を通して世界に触れることになる。流動的な視点はもちろんのこと、嗅覚、触覚、感情や欺瞞が痛烈に暴露され、それらが主人公ザムザにとっていかなる為体であるかも、他ならぬ彼の心中独白として、丁寧に語られる。どんなに物語的な構成であっても、その手法という点に於いて、やはりカフカが生み出したのは紛れもなく小説なのであった。

    小説という方法の発明によって、物語の中にいた人間はその外套を剥ぎ取られ、生々しくその存在を世界に晒すことになった。外套を失ったアカーキィ・アカーキエヴィッチは死んでしまった。しかし、彼の亡霊は今も虎視眈々と「小説」に奪われた外套の奪還を目論んでいるのではないか。そんなことを考える。

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