- Amazon.co.jp ・本 (162ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061315310
感想・レビュー・書評
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昨日読んだ『世界で一番透きとおった物語』の題名が覚えられず、ほら、なんやったっけ、と思い出すときに、『限りなく透明に近いブルー』が頭の中で邪魔してきたので読んでみました。
1976年発行。第75回芥川賞受賞作。過去の受賞作でもトップクラスの総売り上げ数です。
横田基地がある福生市のハウスで生きる19歳のリュウの目を通し、友人たちとの日常が描かれています。ドラッグ・お酒・暴力・セックス・DV、万引き…悲観的ではないが、希望もない。時代に流されて生きるリュウたち。
やっていることは狂っていてぐちゃぐちゃ。なのにリュウの冷静な語りのせいか、読んでいる人の抵抗感がぐっと下がるのが不思議です。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
青年たちが繰り広げるドラッグ、酒、乱交パーティ、音楽、暴力を、その雰囲気のまま包み込みながも、その行為自体を透明感にあふれて描写した青年群像小説。
彼らの過激な言動は生々しくエロ・グロな描写も表現豊かで細にいるのだが、なぜか躍動感が感じられず、流れるように読める。リアルな情景を再現させる「動」を題材としながら、どこか入り込むの余地がないほどの「静」を描き、そこに登場する人間たちがまさに透き通っているように感じる。安定感を求める彼らの意識を柔らかく受け止めることができるようだ。
ところで、あの表紙の横顔はリリーなんだろうか?-
この小説は、私も、なんだか好きなんですよね。
ありきたりの表現だけど、瑞々しい感性が、気持ちいい。
私にとっては、エロティックで...この小説は、私も、なんだか好きなんですよね。
ありきたりの表現だけど、瑞々しい感性が、気持ちいい。
私にとっては、エロティックでもグロテスクでもなく、純粋に、気持ち良い小説でした。
この、過去の小説の、現在形が『蛇とピアス』だと思うんだけど、私にとっては、こちらのほうが、はるかに空恐ろしい、グロテスクなものに思えたんです。2016/11/14 -
lacuoさん、こんにちわ。
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
なるほど確かに瑞々しい感性の作品でしたね。
エロ...lacuoさん、こんにちわ。
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
なるほど確かに瑞々しい感性の作品でしたね。
エロ・グロな内容でありながら透明感があり、なぜか生々しさを感じずさらさらっと受け入れることができた不思議な作品だったように思います。
『蛇とピアス』も読みましたが、自分には生々とした異物に対する気持ち悪さを感じた作品でした。
ちなみに『ヌーベルヴァーグ』という作品のDVD特典映像で、ジャン=リュック・ゴダールと若かりし村上龍との対談を観たことがあるのですが、こちらの方は逆にゴダール=蛇に睨まれたカエルのように硬直していた村上龍をみて、本来的には突拍子もないグロテスクなものには弱いんだなと思いました。(笑)2016/11/18
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タイトルだけ聞いたことがあったので読んでみた
この本でしか見れない景色を見れた -
「コインロッカーベイビーズ」から村上龍作品にはまりだし、代表作と聞いて手に取った一冊。「69」を読んだときにも感じたが、正直、一読した今でも物語の概要を説明しろと言われたら簡単には説明できないと思う。特別なことは沢山起こるけれど物語が何か進展するわけでもないし、このレビューを書くのもとても難しい。けれど、ただ感じた書いてみると、この作品が強烈なのはテーマが刺激的だからという理由だけでなく、やっぱりその文体や表現にあると思った。映像でもないのに目をそむけたくなるようなシーンもあって、だけどその体験をする度、うわあと感じると同時に著者の表現の豊かさや伝えようとしている鮮烈なイメージをひしひしと感じた。「鮮烈」という表現は背表紙にある表現を借りたが、村上龍作品にぴったりな言葉だと思った。
もっと村上龍作品に触れてその真意をくみ取れるようになりたい。 -
迂闊にもデビュー作を未読であることに気づき慌てて読む。頭をガツンとやられる。暴力、セックス&ドラッグ&ロックンロールが渦巻く狂騒の中、主人公リュウのもう一つの眼差しが鮮烈にオーバーラップされてくる。その瞬間毎に私は息を呑む。「濡れている外は優しい。風景の輪郭は雨粒を乗せて霞み、人間の声や車の音は落ち続ける銀の針に角を削られて届く」やり場のない若者の焦燥が限りなく透明に近いブルーへと移りゆくあわい、切り裂ける叫び声が暖かい光に包まれ優しい起伏となることを願う。これを書き上げた24才の著者が堪らなく愛おしい。
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非常にクレイジーな一冊。読後の感想は、ちょっとぶっ飛びすぎていてついていけないな、だったが、巻末の解説を読むと不思議なことに文学的な意味を発見し、味わい深い作品と感じられるようになった。色々な本を読んできて学んだことの1つに、優れた解説はその作品をより輝かせるということ。文学素人の自分にとって、プロの解説を読むことで物語の見方、考え方が、広く深くなるので、解説の果たす役割はとても大きいと感じた。やはり有名な作品は、有名たらしめる相応の理由があるのだ。
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嗚咽。喉元まで込み上げた声を、張り上げるだけの余力もなく、ただひたすら襲ってくる苦痛に身を委ねているようなもどかしく、苦しい感覚。作品を始終流れているのはそんな感覚だった。苦しい、苦しい。助けて……と呼べるような人間はどこにもいないという絶望。諦め。
だって周りにいる人間も、みんな助けを求めて這いまわっているのだから。
母が話してくれたことで、両親がまだ若いころ、海でサーフィンをしたり、銛で魚をついて、焚き火を囲うような友達がいたというのを思い出した。
その仲間たちの話はそれくらいしか聞いていないのに、どこか不安の付きまとうような想像しかできてこなかった。
リュウとその仲間にもおなじように、不安を感じる。
この不安は何なんだろう。
人や音楽、車とか電車、それらをひっくるめた、街に圧倒されてしまうかんじ。
わたしにはその感覚があまり感じられたことはないのだけれど。
なんだか、お腹の好いていないトカゲの飼育ケースに、入れられた餌のコオロギになったような諦観だ。そのうち蜥蜴の腹が減れば、そこでコオロギはおしまい。たまたま生きていられる今に慣れてしまうには、もうトカゲの存在を忘れてしまう他にない。わたしは、何度かコオロギがトカゲの背中を歩き回るのを見たことがある。蟋蟀は捕食者の一部を自分が歩いていることに気づかない。
その間はどこか和やかで穏やか、微笑ましく見ることもできる光景だった。
でもそれは、吹き出してしまうような滑稽さを感じていたとしても、どうにも逃れられないような悲劇を前にして、無理に笑っているだけといった感覚だ。
誤魔化していることが、どうしようもなく自覚させられる。
リュウの一人称の語りに感じた不安はそれだった。
リュウたちは、アパートの一室という虫篭のなかにいれられた、蟋蟀によく似ていると思った。
蟋蟀はその虫篭のなかでひとつの社会を形成する。圧死した個体の死体が、ケースの底に糞や尿、脱皮の殻とともに積まれていく。ケースは湿って悪臭を放ちはじめ、プラスチックの内壁を曇らせる。共食いと交尾が頻繫に繰り返され、子どもの蟋蟀たちが、成長して濃、サイズも疎らに大人たちの捕食と交尾を尻目に、せっせと何か食べれるものを食い漁る。蟋蟀たちは自分の排泄物も食べているに違いない。彼らにしてみれば、なにがなんだか分からないのだろう。
腐った食べ物、覚醒剤、ニコチン、アルコール、カフェイン、音楽、下着、化粧品、吐しゃ物、血液、体液。それらが発酵して、掃除されない部屋のなかでは堆く積もって行く。汚い。吐き気がする。でも、そこ以外まるで居場所がない。
リュウ自身が渇望して、腹の底からしたいと思ってしていることが何ひとつないというのが、乾いたムードを生成してる。
例えばお腹が空いたなと感じる。でも「これ」が食べたいというこれがない。
作中でリュウが認識して、言葉にされた食べ物はどれも少しも美味しそうじゃない。
何だか定点カメラのようなリュウの視点は、無差別に順繰りに可動範囲の光景を映していく。
その見方は、なんというか無機質な平等性が感じられる。視点だけじゃなくて五感までそうだ。小説的な人物と言ったらいいのか。
ただその客観的な瞳が映し出す光景は、その対象をより身近に感じさせてくれる。
赤く濁った目、舌を刺す酸味、喉の奥に詰まった粘つく塊、鶏の毛穴、歯茎を傷つける蛾の触覚…
リリーに言われるように、蛾を口の中に入れてその味や感触を確かめたりする態度は、何でも口に入れて、何でも触り、見つめる赤ちゃんみたいだ。判断の仕様がないありとあらゆる光景や音、味、匂いを感じ続けて、漸く、意味が芽生える。世界は使い古されて、新鮮味が損なわれて、興味もまた失われていく。
ドラッグのせいなのか、彼自身のせいなのか、彼の五感は研ぎ澄まされていて、剥き出しになった神経みたいに感じられる。ジャクソンとのセックスのとき、裸になって、尻の穴に手をいれられ、口のなかに他人の精液を流し込まれ、むせ返るようなハシシと体臭のなかで、彼はやっぱり、遠ざけようとはせずに、その感覚に触れている。
死にたい、殺してくれと、彼らの口から、頻繫に口を突いて出る。
陳腐なものいいで、それを言う彼らの真剣な表情が浮かんでくる。
乱痴気騒ぎの合間、合間でふと素面に戻るようなときかな。それでまた薬を使う。
滅茶苦茶な生活と言うほどには、まだそれほど崩れ切ってはいないような生温い、たまりのような生活だ。でもみんなどこかで確信している。いつまでも続きはしないだろうことと、誰からともなく一人一人去って行くだろうことを。
黒人たちとの乱交パーティーで、レイ子が無理やりな乱暴を受けているとき、笑うリュウは釣られて笑う人形みたいだ。リュウだけでなく、みんなが同じように、人形になって考えたり、現状を少しでも変えていくことから逃れようとしてるみたいに感じる。馴染み過ぎて、ストレスがななくなるのには余程時間がかかるのかもしれず、表面張力に似た危うさでそれぞれが持っているエネルギーが別々の方向に引き合うことによって、危うい関係になっている。
最初に書いた、友達や仲間に対する不安の正体はそれかもしれない。
そこに留まるためには、疼いて内蔵されている磁石が、何か他の磁力に引き寄せられるその運動を、別の力で止めなくちゃならない。同調圧力や居心地の良さと言ったものは、おそらくそんな風にして積み重ねていった同意や共感の先に安心が訪れる。その段階が長引いて初めて、個人の内側に秘められているエネルギーの炉は稼働を止め、自然に冷却されていく。
ドライブレコードのように、ゆったりといつまでも続くかのような情景描写は、ちょうどホワイトノイズを繰り返し聞いても飽きないように、リピートしたくなる。流れていく時間を尻目に、その時間流れには乗らずにいることで、見えてくる他人事のような風景が心地いいのだと気付く。また針を落とせば、始めから変わらない音楽が再生される。
一区切りが付いて、当事者ではなくなってから、その重みや感触について評価することができるようになる。リュウの福生の物語も、一括りが着いたみたいだ。
何をすべきかわからないとき、ただ留まっているというのもなかなかできないものだ。
沖で救助がくるのか分からないのに、仰向けになって水面に浮かぶようなものだ。
きっと、誰もが、リュウのように色々なものを見ておくという選択肢がとれるわけじゃない。
保留的な態度で生きられるわけでもないだろう。
のんびり外の景色を見るには、困難な時代かもしれない。
ただ一瞬、すっと呼吸が楽になる明け方のあの、眠れない夜をあがいて過ごした人が、どうしようもない無力感と心地いい疲労のうねりのなかで感じるような、あの感覚が一瞬訪れるときがくる。
リュウが、夜明けの薄明かりを透過したガラスを見たときのような。
それは、井戸から湧いて出た透明な美しい水のように、訳もなく優しい気持ちになれるひとときの出来事なのかもしれない。
人が生きていけるだけの理由らしき理由なんてものは、一行分の感覚で十分なのかもしれない。
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私が五歳の頃の作品でした
難解な文章でしたが解説を読むことで納得できました
当時もし私が作者と同世代だったら共感できた部分がもう少しあったかなと思います
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読後に胸にわだかまる、なんとも言えない気持ち悪さ。これが、芥川賞史上、もっとも部数の多い作品なのか。
「僕」の視点がフラットであるがゆえに不気味。
不気味、気持ち悪い。
何度も読み返そうとは思わない。
けれど、読んで後悔はしていない。 -
色彩や匂い、触感などの表現が巧い。
文章で気持ち悪くなれるほど伝わってくる。
今から50年近く前の作品で時代もあるのかもしれないが、ドラッグや暴力、乱行パーティーなど、普通に生きてる多くの人々にとって知らない世界で衝撃的だと思う。
それでいてちゃんと純文学だった。
美しい表現に惹かれた。