社会を変えるには (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (520ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062881685

感想・レビュー・書評

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  • タイトルに騙されるが、中身のほとんどはこれまでの社会運動や政治理念の流れをつらつら追ったもの。
    とく4、5、6章は、海外、とりわけ欧米の政治哲学思想をだらだらと教科書的にまとめたもので読むに値しない.勉強にはなると思うが、概論的。思想史の流れを学びたい方にはうってつけだが、だとしたら、それらしきタイトルで別書にすべき。

    実際に社会を変えるにはどうしたらいいか、の提言は最終章を読めばよろしい。別に哲学者の名前なんて知らなくても、社会貢献なんてできる。

    学者のくせに参考文献リストをつけていないのが駄目。よって★三つ。

  • 社会史を辿りながら、社会を変える為の行動と考え方を追っていく本。
    まだまだ知らないことが多いなあと思い
    ちょくちょく脱線しながら読んでいたので
    思った以上に時間がかかった。

    こういう場面での「イノベータは3%」というのは、
    逆に勇気づけられる見方だなぁと思う。

  • この著者のこうした題名の本を読めば、サヨクではないかと思われるのだろうけれど、既に世の中はウヨクとかサヨクとかいった単純な対立構造ではないと著者も論じている。
    社会思想や社会運動の歴史的変遷をコンパクトにまとめて解説していてとても勉強になる。それにしても、著者は、思想とか理論とかいったものは、それらを論じている今がどうであるのかによって、見方が大きく変わっているものだと云うが、まさにその通りだ。ホッブズやロック、ルソーは学生時代に散々勉強したはずなのに、今それらの意義が、これだけ違って見えるてくるのかと思うと、大変不思議であり、また有意義であった。

  • 「社会運動」って、一人一人が社会とのつながりを気軽に考えながら、関心のある対話・行動に、楽しく参加すればいいんだと思った。
    「政治運動」から「社会運動」へ、自由な連帯・・・。
    一方で、議会制民主主義や権力問題について、少し軽視している気もした。著者も述べているように、民主主義はみんなで権力を樹立すること。私たちがどのようにこの社会を統治していくのか、社会を変えるには、避けては通れない問題だから。

  • 民主主義論の部分は一般向けの概説書レベル。日本の戦後の社会運動の変遷は詳しい。1960年の安保闘争では、まだ貧しく社会的にコミュニティが生きていて動員しやすい、大学生数が少なくエリート意識が高い、戦争の記憶が強く反戦運動が盛り上がりやすい、という背景から多くの人を巻き込んだ運動になったのに対し、1968年の学生紛争、1970年の安保更新闘争では、学生生活に飽き、サラリーマン生活に夢を感じないストレス状態の学生が沸騰した運動に終わり、大衆を巻き込めなかった。左派も60年代途中からは、学生離れが起こり、数少ない支持派を取り込むために各派が闘争を繰り返し、さらなる学生離れを起こしていった。結果的に1972年の赤軍事件で学生からも社会からも距離を置かれた。1980年代は、経済成長が一段落し、石油ショックなどで不況となり学生もゆとりがなくなり、社会運動は凪の時代を迎えていった。

  • この書籍はgoodです。

  • 社会を変えるには、個々の人達が社会の本質への問いを続けないといけない。言葉にすると、当たり前のことだが、その真理に対して、丁寧に取り組んでいる一冊だと思った。

    時期を見て、また読みたい一冊。

  • 《第1章 日本社会はいまどこにいるのか》

    【原発のコスト】p50
    つまり原発のコストは、純粋に経済学的なものというより、社会状態の関数だといえます。人びとのリスク感、安全意識、人権意識が低下し、専門家や政府の権威が強まった場合には下がりますが、逆の場合は上がります。
    そう考えると原発は、経済と電力需要が右肩上がりで、国策として電力価格を安定させることができる国に向いているということになります。さらに政府の権威が強くて、国民の安全意識・人権意識・発言力が低いほうがよい。

    《第2章 社会運動の変遷》
    《第3章 戦後日本の社会運動》

    【「全学連」と「全共闘」】p135
    「全学連」と「全共闘」はどこが違うのか。一言でいうと、前者は共同体の集まり、後者は「自由な個人」の集まりです。全学連は、自治会組織が連合したものです。それにたいし、全共闘は個人の自由参加でした。

    【「フクシマ」以後】p170
    デモに組織的動員はなく、インターネットやツイッターで人が集まりました。カメラや編集機器が安価になり、ユーチューブにデモの映像や、警官の過剰規制の場面が投稿されるようになりました。

    社会運動があるテーマで広がるときには、そのテーマが社会のなかで構造的にたまっている不満や感情の表現手段になった場合です。60年安保のときは、「安保条約反対」は単なる条約への反対ではなく、「戦争と飢えだけはごめんだ」という強烈な感情の噴出でした。「68年」の「ベトナム戦争反対」は、高度成長で変貌していく日本社会のありようへの抗議でした。2011年の「原発反対」は、日本型工業化社会の特権層が、自分たちを犠牲にして既得権を守っているのは許せない、という感情の表現になっていったからと考えられます。

    《第4章 民主主義とは》

    【「公」と「私」】
    ポリスは「自由と恒常の領域」、オイコスは「必然と無常の領域」p213

    《第5章 近代自由民主主義とその限界》

    【「民主主義の元祖」ルソー】
    ルソーは、いまさら人間は古代に戻れない、と述べます。そこで彼は、「われわれ」を作る方法を考えました。
    ルソーもまた、社会契約論をその手段として使います。しかし彼の社会契約は、ホッブズやロックのものとは、そもそもの目的が違います。ホッブズやロックは、自然権を守るのが目的で、契約して国家を作るのはあくまでその手段です。ところがルソーの場合は、契約のときにいっさいの自然権、身も心も財産も全部を共同体に譲渡して、「われわれ」を作るのが目的です。
    これはある意味、集団出家のようなものです。家の私物は全部置いてきてくれということです。そして「私」というものがすべてなくなった状態になると、共同体に「共通自我」が生まれる。それが「一般意志」を持つと説きました。
    この一般意志というのは、構成員の意志の単純総和である「全体意志」とは異なります。デュルケームの「社会」が、個人の寄せ集めを超えた「実在」であるように、一般意志も個人の意志の寄せ集めを超えた「もの」です。デュルケームは「社会」を「もの(chose)」としてあつかわなければならない、と述べましたが、ルソーも一般意志を「もの(chose)」にたとえています。p299

    《第6章 異なるあり方への思索》p335~

    【ハイゼンベルクの不確定性定理】p339
    不確定性原理とは、一言でいえば、「この世で人間にわかることには」限界があるというものです。主体が客体を正確に観測できるという、近代科学の大前提が成り立たないことを唱えた、一種の思考実験でした。

    【個体論ではなく関係論】
    フッサール「現象学」
    [個体論の発想]
    主体と客体がある→観測する、関係する
    [関係論の発想]
    関係がある→主体と客体が事後的に構成される
    p351
    cf. 「エポケー」: 判断停止

    【構築主義】p356
    現象学を社会学にとりいれたのが、現象学的社会学です。これがのちに、エスのメソドロジーという学派にもつながり、「構築主義」という考え方になります。
    これらで重視されるのは、自分も世界も相手も、作り作られてくるものだから、それがどんなふうに構築されてくるかを考えるということです。この作り作られてくる関係のことを、リフレクシビティ reflexitivity と言い、「反映性」とか「再帰性」とか訳されます。

    【物象化】p359
    マルクスは物象化という言葉を、人間と人間の関係が、物と物との関係になって現れてくるといった意味合いで使っています。人間の関係という見えないものが、物の関係となってこの世に現れてくる、というとらえ方もできます。お歳暮やプレゼントを「お気持ち」として交換するのも、人間関係という目に見えないものが、物の交換関係になって現れていることです。

    「能力」や資本蓄積や貨幣流通を見ている経済学は、ものの見方が転倒しています。そんなものを見ていても世界はわからない、生産関係を見なくてはいけない、ということになります。
    それなのに、「能力」や貨幣や資本をあがめているのは、この世に現れている「ものの姿」、物象化した現象にとらわれて、本質が見えていないということになります。これをマルクスは、物神崇拝(フェティシズム)とよび、それまでの経済学を「神学」と形容しました。資本主義社会は、人間が作ったはずの貨幣や資本が神になって、人間を支配している世界だというのです。p361

    【弁証法】
    いくら昔の生活様式が消えても、いや消えかけているからこそ、痕跡や歴史を探し出して、伝統は創られ続けます。近代化が進めば進むほど伝統は創られ、伝統が強固になるほど近代化への欲求も深まります。近代化と伝統は、おたがいに作り作られてくる関係でもあるのです。p366

    【かかわりと運動のなかで変化していく】
    西欧や日本の社会運動では、現象学とマルクス主義に影響を受けた人たちがいました。そのさいの一つのスローガンは、「理解することは変わること」というものでした。知識人も活動家も、自分たちだけが真理を知っている、一方的に理性を行使して相手を把握できる、などということはあり得ない。関係をもてば、必ず自分も相手も、作り作られるはずだという意味です。p371

    【選択の増大】
    ルネサンスにおける火薬や印刷がそうであったように、技術はそれを使う側の世界観や社会基盤の変化があってこそ、社会を変える要因になります。p379

    【再帰性が増大する】
    現代の社会で増大しているのは、自由の増大というよりも、こういう「作り作られてくる」という度合いです。ギデンズは、これを「再帰性の増大」とよびました。
    自由というのは、何らかの足場がないと、たんなる不安定に転じます。デカルトが想定した「わや」は、神という不動のものに支えられていました。しかし現代では、「自己」もまた、「こんな自分でいいのか」と迷いながら選択し、意思決定し、「作る」ものになっています。アイデンティティの模索、自分探し、キャリアデザイン、ダイエットなとがそれにあたります。
    しかし「自己」を作れば作るほど、作る主体であるはずの「自己」が変化して揺らぐのですから、無限の不安定がやってきます。自分を作りながら、自分を安定させようというのですから、はじめから矛盾した行為です。鏡に鏡を映しているようなもので、いつまでたってもやめられません。p381

    【「伝統」も作られる】
    再帰性の増大は、誰にも不安定をもたらしますが、恵まれない人びとへの打撃のほうが大きくなります。かつての貧しい人びとは、共同体や家族の相互扶助で、経済的貧しさをカバーしていました。あるいは、自分がつちかってきた仕事や技術や生き方への誇りで、心理的貧しさを補ったりしていました。
    しかし再帰性が増大し、選択可能性と視線にさらされると、それらが揺らいでいきます。相互扶助も誇りも失って、無限の選択可能性のなかに放りだされ、情報収集能力と貨幣なしにはやっていけない状態に追いこまれていきます。p386

    【基本保障は効率的】p407
    一例として、アメリカの医療保障制度をみてみましょう。アメリカては国民皆保険ではなく、高齢者や、障害者は公的医療保険(メディケア)、貧困者や低所得者は医療扶助(メディケイド)でカバーされ、残りの人は任意で民間保険にはいることになっています。弱者にだけ公的保険、残りは自分で民間保険ということで、効率がよく見えます。
    ところが実際には、民間保険は加入手続きや審査、広告などにかかる事務費が全体の25%も占めています。積み立てたお金の4分の1が、制度運営のために消えてしまうわけで、非常に効率が悪い。

    【ブーメラン効果】
    ウルリッヒ・ベックの「ブーメラン効果」も、再帰的なものです。近代科学と近代政治、近代経済は、主体は客体を操作できる、と考えてきました。科学は自然を支配できる。政治は民衆を操作できる。労働者が騒いだら解雇すればいい。そこまで単純ではないとしても、「主体」は「客体」を操作できる、場合によっては切り捨てれば関係ない、と考えてきました。しかし自然をいいようにあつかうと、環境問題が発生して、自分にはねかえってきます。あまりに格差が開くと、治安が悪化したり、少子化や税収低下がおこって、自分にはねかえってきます。第三世界の貧困など関係ないと思っていると、テロや地球環境破壊がおこって、自分にはねかえってきます。地方のことは東京には関係ないと思っていると、原発事故がおきてはねかえってきます。これがブーメラン効果です。p419

    《第7章 社会を変えるには》p429~

    【社会運動の諸理論】p450
    ・「資源動員論」:運動体は目標とする変革のために、どういう資源を動員し、どういう組織で、どういう戦略をとって敵手と闘うのかを重視します。
    具体的に資源というのは、使える資金、参加する人的資源、活用できる知的資源、外部の資源へアクセスするネットワーク、意思決定者へのコネクションなどです。こういう枠組みで、敵方がどういう資源を持っているかを考え、味方の資源を動員し、成功に導いていく戦略を立てる。
    ・「政治的機会構造論」:↑は政治の機会構造に関係している。たとえば、政治システムが開放的かどうか、情報公開が行われているかどうか、政治過程へのアクセスが可能かどうか、などによって運動の結果は変わる。また有力な同盟者が存在するのか、権力エリートの内側が安定しているか、分裂などがあるか、などを考慮しなくてはならない。そうした政治的機会構造から、運動の成否が決まる。p451
    ・「争点関心サイクル」:ある運動が盛り上がっても、そのテーマが飽きられることがある。たんに時間が立つと盛り下がるのではない。その問題が解決するには、経済的コスト、政治的コスト、あるいは手間や労力のコストなどが大きいことが、多くの人達に認知されるようになる。そして、コストが高過ぎると広く認知されたところで、関心が減退していく。p451-452
    ・「モラルエコノミー」:食うに困ったからとって、それだけで農民蜂起や食糧暴動などは起こらない。ところが、一部の商人による不当な買い占めのために値上がりして子供が死んだということになると、蜂起が起こったりする。つまり人間は、困ったから立ち上がる、というわけでは必ずしもない。人間は自分たちの世界認識や倫理の秩序、モラルエコノミーがを侵されたと感じたときに立ち上がる。この場合のエコノミーは「経済」ではなく「秩序」という意味。p458
    ・「アプロプリエーション」(流用):歴史的に運動の成功例を見ていくと、運動側の掲げる訴え方やスローガンが、その社会にとってまったく新しいものではなく、その社会ではよく知られていたものを転用したものである例が数多く見つかります。Ex. 欧米での労働運動のリーダーの聖書の言葉の転用 p459
    ⇒【各運動理論をどう評価するか p461】↑の理論はどれも正当ですし、同時に限定的です。

    【理論の使い方】p465
    トンカチ、ノミ、ドライバー、それぞれ特性を理解すれば、組み合わせて使いこなすことが可能です。

    【個体論的な戦略】
    哲学や社会学では、「目的合理性」と「形式合理性」という区別をします。真理に到達するという「理」にかなっているのが「目的合理性」、そのための手段や道具としての論理性が「形式合理性」(道具的理性)と考えればいいかもしれません。p495

    【楽しくあること、楽しそうであること】
    具体的に人が集まることによってかもしだされる、五感がすべて複合した、あるいは五感をこえた「雰囲気の盛り上がり」は、メディアでは代替できません。p498
    盛あがりがあれば、「自己」を超えた「われわれ」が作れます。それができあがってくる感覚は楽しいものです。コンサートの一体感にも近いですが、平場の全員参加で作るところが違います。そういう盛りあがりがあると、社会を代表する効果が生まれ、人数の多さとは違う次元の説得力が生まれます。それが生まれれば、アピール性が増し、参加したくなる人が増えます。
    参加者がみんな生き生きとしていて、思わず参加したくなるとき「まつりごと」が、民主主義の原点です。p498

    【おわりに】
    運動とは、広い意味での、人間の表現行為です。仕事も、政治も、芸術も、言論も、研究も、家事も、恋愛も、人間の表現行為であり、社会を作る行為です。それが思ったように行なえないと、人間は枯渇します。
    「デモをやって何が変わるのか」という問いに、「デモができる社会が作れる」と答えた人がいましたが、それはある意味で至言です。「対話をして何が変わるのか」といえば、対話ができる社会、対話ができる関係が作れます。「参加して何が変わるのか」といえば、参加できる社会、参加できる自分が生まれます。p516

  • 2014/5/9購入

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著者プロフィール

慶應義塾大学総合政策学部教授。
専門分野:歴史社会学。

「2023年 『総合政策学の方法論的展開』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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