- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087203530
感想・レビュー・書評
-
あぁ,やっぱり太田光は私の好きな人.
****************
今,憲法九条が改正されるという流れになりつつある中で,十年先,二十年先の日本人が「何であの時点で憲法を変えちゃったのか,あのときの日本人は何をしてたのか」となった時に,僕たちはまさにそのとうじしゃになってしまうわけじゃないですか.それだけは避けたいなという気持ち,そうならないための自分とこの世界に対する使命感のようなものがすごくあるんです.
****************
私がいま感じていることを,そのまま言葉にしてくれたよう.私の場合は憲法改正の問題に限らずだけど.詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
もっと本を読みたい
もっといろいろ考えられるようになりたい
っておもうようになりました。
難しい話なんだけど、この二人がすごいところはわかりやすい言葉でそれが表現できること、難しい表現ばっかりの作者は難しい言葉しか使えないということがわかった。
今まで考えたこともなかったような考えで混乱してます、読んだことすべてをすべて覚えていたいという気持ちになりました。 -
けっこう重いテーマだけど、爆笑問題の太田さんがたいそうおもしろいです!松島よりは世界遺産に近いんじゃないかと思います、じつに(笑)
太田さんはいったいどんなことを考えながら生きているのか非常に興味深いです。造詣が深いとはまさに太田さんのことですか?いや、違う?
-
爆笑問題の太田光と宗教学者の中沢新一との共著。
-
■2006年9月読了
■解説分
実に、日本国憲法とは、一瞬の奇蹟であった。それは無邪気なまでに理想社会の具現を目指したアメリカ人と、敗戦からようやく立ち上がり二度と戦争を起こすまいと固く決意した日本人との、奇蹟の合作というべきものだったのだ。しかし今、日本国憲法、特に九条は次第にその輝きを奪われつつあるように見える。この奇蹟をいかにして遺すべきか、いかにして次世代に伝えていくべきか。お笑い芸人の意地にかけて、芸の中でそれを表現しようとする太田と、その方法論を歴史から引き出そうとする中沢の、稀に見る熱い対論。宮沢賢治を手がかりに交わされた二人の議論の行き着く先は…。
■感想
僕自身、マスコミに身を置きながらこれまで「政治」に対して傍観者の域を出なかった。憲法が自分と関ってるという考えもまるでない、だらしない日本人である。正直、政治に関して知識がないから『苦手』というかごの中に入れてしまっているのだろう。それを選挙の前には、外から中を眺め・・・世の中の風潮を伺い、知ったかぶりをし、一般的な日本人の思想からはみ出さぬように生きてきた。
それをこの本は見事に肯定してくれた。
いや、肯定してくれたというとあまりにも自分勝手な解釈であるが、それでもいいじゃん!という思いにさせてくれたのである。
僕は太田光という人物が大好きである。一緒に仕事をした経験もあり、心から尊敬している。この本を読むと、太田さんの思考の深さに、ただただため息が出るばかりである。僕なんかの稚拙な思考とは天と地ほど離れているし、本当に落ち込む。落ち込むと書くと、何を張り合ってるんだと思われるかもしれないが、まあ、そこは些細な向上心としてお許しいただきたい。
しかし、この本は落ち込ませるだけでなく、こんな僕でも何か出来るんじゃないかという気にさせてくれるのだ。恥ずかしがって言わない意見よりも、間違った意見でも必要なんだ。議論が戦争に対する抑止力になっているんだと言及してくれる。とても気が楽になった。
この本から想像する太田さんは、日本という大地にたったひとり歯を食いしばって立っている。自殺が減らないのは世の中に感動するものが自分自身の芸が未熟だからと言い放つ。
「 若い人たちが、自殺サイトで死んでいくのも、この世の中に感動できるものが少ないからなんでしょう。それは、芸人として、僕らが負けているからなんだと思うんです。テレビを通じて、彼らを感動させられるものを、何ら表現できていない。極論を言えば、僕の芸のなさが、人を死に追いやっているとも言える。だとしたら、自分の感受性を高めて芸を磨くしかないだろう、という結論に行き着くわけです。 」(pp154-155)
話は、桜、落語や武士道、テリーギリアム、そしてSMAPまで多岐に渡るが、それを憲法や平和思想とぴしゃりと落とし込む話芸は見事としかいいようがない。(特に「桜」と「死」に関するくだりは恐ろしくもとても美しい。)
憲法九条が世界遺産という飛躍したテーマに至ったかは、是非ご一読いただきたい。きっと納得のゆく結果がここにあるでしょう。
-
憲法九条を、宮沢賢治の思想と絡めて考察したり、お笑い・音楽・芸術の観点から眺めたり。
著者の2人らしい対話がおもしろい。 -
日本国憲法第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希有し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
憲法は国家の構成原理を明確な言葉で表現したものであり、国家というものを生命体にたとえてみれば、当然それは生命体としての同一性を保つために、免疫機構をそなえていなければならない。
自分と他者を見分けて、自分の内部に外からの異質な力や存在が浸入してこようとすると、国家はすぐさまある種の免疫機構を発動させて、これを自分の外に押し出そうとする。
その際にはしばしば武力が行使される。また他の生命体と空間や資源をめぐって、争いを起こすこともあり、その場合にはより大規模な武力行使である戦争が発生することもある。
いずれにしても、国家とせんそうは切っても切れない関係で結ばれているのである。
ところが、日本国憲法は第九条において、いかなるかたちであれ、国家間の紛争解決の手段としての戦争を放棄する、というのである。先ほどの免疫機構の比喩でいえば、日本という国家は、その機構の最新部分で、自ら免疫機構を解除しようと思う、と語っているのと同じである。
明らかに矛盾している。この日本国憲法はアメリカのGHQのいいなりで作ったのかもしれないけど、それは日本とアメリカの合作ともいえる。
アメリカからすれば、これを憲法にして日本を実験的な国にしてみようという意図があったのかもしれないし、だからこそこんな理想論が生まれたのかもしれない。
だけど日本はこれを拡大解釈をしながらもちゃんとこの平和憲法を維持してきて、それはもう日本という国に根付いているし、僕なんかは平和憲法の中でしか生きたことがない。
人間とは愚かなものだから、何があってもこれだけは守ることに決めておこうというのが、世界遺産の精神。そんな規定がなくても守れるなら、わざわざ世界遺産なんて言わなくてもいい。
だけど、世界遺産だからといって壊してはいけないということではない。
たとえば、イスラム教のタリバーンがバーミヤン(アフガニスタン、バーミヤン渓谷の古代の石窟仏教寺院。世界遺産に指定。2001年3月、偶像崇拝を否定するイスラム教、タリバーンによって、渓谷の2体の大仏が破壊された)のようにイスラム教の考え方からすると、仏像というのは落書きみたいなものだから、ただ落書きを消したと考えることもできる。
じゃあ日本にとって憲法第九条は消してしまってもいい落書きでしかないのかと言われたら、僕は、そうじゃないでしょう、と言いたい。
憲法第九条が良いか悪いかは、そりゃあたくさんの意見が両方にあるし、どちらの立場が言っていることも正しいに違いない。だけど、それより大切なのはきっとそうやって言い争いながら迷うことなんだと思う。
そうやって問いかけ合うことで僕らはそれを認識し、考える。
矛盾しているということは悪いことじゃない。それは問いかけ合うことができるということであり、問いかけ合うということは結局平和について考えることでもあるのだ。
じゃあ日本にミサイルを撃ち込まれたらどうするのって?
それはまぁ難しいことなんだけどね。 -
タイトルだけを見れば「何を言い出すんだ?」と思う人も多いでしょうが,読んでいくとそう提言するだけの九条の成り立ちや,それだけの価値があるのだぞという日本国憲法の独自性みたいなものが書かれてあったように思います。「人間の限界は,九条の下にあるのかもしれない」「憲法九条を世界遺産にするということは,人間が自分自身を疑い,迷い,考え続ける一つのヒントである」…内容をどれだけ理解できたかは分からないけれど,妙に考えさせられた本でした。(幾代)
-
12/2
-
太田さん知識が豊富だなぁーと感心しました。
でも太田さん、ちょっとミスチルのようなモラトリアムさがあるかなぁ、と。
それが内容の面白みにもなりつつ、稚拙にもなりつつ…、みたいな感じ。
タイトルのセンスは、完全にクリエイターね。